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教室紹介
岩手医科大学/久留米大学
著者: 昆宰市
所属機関:
ページ範囲:P.532 - P.533
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当教室は昭和5年4月 故増田六之助教授の御着任をもつて初まる。増田教授は遠山,太田両教授に師事し,白癬菌についての造詣が深く,又優れた人格者であつたとも承わつている。当時の教室は創立後間もなく,医局員もきわめて小人数であつたにも拘わらず,非常な御努力をもつて,日夜研讃に励まれ,白癬菌に関する研究の他多方面に亘る研究がなされ着々教室の基盤を固められた。ついで昭和30年8月には増田教授死去に際し,その後任者として慶応大学皮膚科学教室より現伊崎正勝教授が赴任された。すなわち伊崎教授は故横山砧教授に師事し,慶応大学医学部において助手,講師を歴任され,更に中野組合病院皮膚科医長を経て岩手医科大学皮膚科泌尿器科教室教授として着任された。以後伊崎教授はその温厚,篤実な人格とヒユーマニズムに富んだ理念の下に故増田教授の築かれた基礎の上に医局内の整備,充実に当り,皮膚科担当として慶応大学より黒沢誠一郎講師(後に助教授に昇任)を招聘,泌尿器科担当として岩手医科大学出身の赤坂俊夫助教授を任用し,着々その実を挙げられた。更に古きものに新しきものを導入して伊崎教授年来の研究テーマであつた老人性変化を中心として皮膚科領域における線維素溶解酵素に関する研究,細菌学的諸問題に関する研究,更には癩に関する研究等を強力に推進し,現在に至つている。又昭和37年4月には長年泌尿器科助教授として敏腕を振るわれた赤坂助教授が辞任され,新たに慈恵医大泌尿器科教室より大堀助教授が着任し,泌尿器科学講座を引き続き担当され研究に従事することになつた。昭和40年8月に長年医局に貢献された黒沢助教授が辞任された。その後昭和41年4月には両講座の充実,発展が認められ,大堀助教授の教授昇任と相まつて皮膚科学講座ならびに泌尿器科学講座の実質的な分離が行われるに至つた。以後既に工年,皮膚科学教室は伊崎教授の下,小人数ながらも一致団結して診療に研究に精励して日夜不断の努力を続けている。
当教室は昭和5年4月 故増田六之助教授の御着任をもつて初まる。増田教授は遠山,太田両教授に師事し,白癬菌についての造詣が深く,又優れた人格者であつたとも承わつている。当時の教室は創立後間もなく,医局員もきわめて小人数であつたにも拘わらず,非常な御努力をもつて,日夜研讃に励まれ,白癬菌に関する研究の他多方面に亘る研究がなされ着々教室の基盤を固められた。ついで昭和30年8月には増田教授死去に際し,その後任者として慶応大学皮膚科学教室より現伊崎正勝教授が赴任された。すなわち伊崎教授は故横山砧教授に師事し,慶応大学医学部において助手,講師を歴任され,更に中野組合病院皮膚科医長を経て岩手医科大学皮膚科泌尿器科教室教授として着任された。以後伊崎教授はその温厚,篤実な人格とヒユーマニズムに富んだ理念の下に故増田教授の築かれた基礎の上に医局内の整備,充実に当り,皮膚科担当として慶応大学より黒沢誠一郎講師(後に助教授に昇任)を招聘,泌尿器科担当として岩手医科大学出身の赤坂俊夫助教授を任用し,着々その実を挙げられた。更に古きものに新しきものを導入して伊崎教授年来の研究テーマであつた老人性変化を中心として皮膚科領域における線維素溶解酵素に関する研究,細菌学的諸問題に関する研究,更には癩に関する研究等を強力に推進し,現在に至つている。又昭和37年4月には長年泌尿器科助教授として敏腕を振るわれた赤坂助教授が辞任され,新たに慈恵医大泌尿器科教室より大堀助教授が着任し,泌尿器科学講座を引き続き担当され研究に従事することになつた。昭和40年8月に長年医局に貢献された黒沢助教授が辞任された。その後昭和41年4月には両講座の充実,発展が認められ,大堀助教授の教授昇任と相まつて皮膚科学講座ならびに泌尿器科学講座の実質的な分離が行われるに至つた。以後既に工年,皮膚科学教室は伊崎教授の下,小人数ながらも一致団結して診療に研究に精励して日夜不断の努力を続けている。
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