文献詳細
展望
文献概要
色素失調症Incontinentia pigmenti(I. p.)には,1938年長崎の教室からその本邦第1例を報告1),2)したのちも関心を持ち,そのもの,殊に又その本邦に尠くない存在に就てしばしば述べてきた3〜9)。これが病名としては世界的には1925年最初の記載者Bloch10)の択んだI. p.,本邦では横山11),12)の訳名,色素失調症が使われているが,Pfeiffer13)に拠れば,これに該当する事例を求めると1905,1906年のGarrod,Adamsonまで溯ることができると云う本症は,皮膚に止まらず,中枢神経系,眼,歯等,外葉起源性諸器官の畸形,障害を伴い,症候群として広義の母斑症に属せしむべきものである。その女子偏好性と家族内発生,その発症に根底となると思われる,そしてそれは母体ヰルス感染に基づくと想像される胎生期障害等,発症病理上の諸問題こそ,色素異常その他の皮膚病変に比し,より深い意義を持つとせねばならない。この点に就てWilli-Bruckhardt14)は,I. p. なる病名は全病像のうち偶々はじめに見出された,むしろ特異的でない一小部分を謳つたに過ぎず,失敗名である,併しそれは最早抜き難いものに今ではなつていると述べている。
扨て,Hautarzt誌の今年,1968年,6月号にGenèveの眼科学者兼遺伝学者で,皮膚科にはFranceschetti-Valerio症候群の記載者として知られているA. Franceschettiへの追悼文を同地のJadassohn教授15)のものしたのが載つており,その今年3月8日に歿くなつたことを知つた。1953年,Madridの国際癩学会議へ行く途中Genèveに訪ねて面識となつたが,それはかねて眼障害のある遺伝性皮膚疾患を研究し,その一部としてI. p. の日本文献を眼科の三井幸彦教授を介して求めてきたことがあつた,そうした関係からで,のち1956年来日した折には東京で再会した。
扨て,Hautarzt誌の今年,1968年,6月号にGenèveの眼科学者兼遺伝学者で,皮膚科にはFranceschetti-Valerio症候群の記載者として知られているA. Franceschettiへの追悼文を同地のJadassohn教授15)のものしたのが載つており,その今年3月8日に歿くなつたことを知つた。1953年,Madridの国際癩学会議へ行く途中Genèveに訪ねて面識となつたが,それはかねて眼障害のある遺伝性皮膚疾患を研究し,その一部としてI. p. の日本文献を眼科の三井幸彦教授を介して求めてきたことがあつた,そうした関係からで,のち1956年来日した折には東京で再会した。
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