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杏林間歩
日本医学会総会と森鴎外
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ページ範囲:P.87 - P.87
文献購入ページに移動 日本医学会総会は,昭和42年に名古屋で開かれるものが第17回である。第1回日本医学会なるものは明治23年に東京で開かれているが,今日の日本医学会総会は,これを受けたものではない。第1回日本医学会は医界の長老達の集まりである乙酉会(明治18年結成)の主唱で開かれた。趣意書によれば国会開設,勧業博覧会があって全国の人たちが東京に集まるから,「内国同業ノ有志者相会シ学術上ノ知識ヲ交換スル」ことが目的とされ,発起の乙酉会員が百円ずつを出して成った。発起人は岩佐純,伊東方成,池田謙斎,石黒忠悳,橋本綱常,長谷川泰二,戸塚文海,高木兼寛,長与専斎,大沢謙二,佐藤進,実吉安純,三宅秀の13人である。これは「医事新聞」(主筆田代義徳)の猛反対を受けた。これはお祭りであり,学会ではないとした。会員も開業医に限定して,医科大学生や研究生を省いたことなどを非難したのである。森鴎外は当時,石黒忠悳の部下としてあり,かつそのスポークスマンのような立場にあったから,この論敵にこたえて石黒のかわりに弁明役にまわった。しかし,鴎外の真意は,研究発表を主としたドイツの学会にくらべて乙酉会案の日本医学会が知識の交換会としての限界内では意味があるとするもので,両刄の刄を用いたものであった。主催者側をも批判することになるその言辞のために,鴎外は「東京医事新誌」の主筆を逐われることになった。
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