医道そぞろ歩き—医学史の視点から・27
バセドウのメルゼブルク3徴候
著者:
二宮陸雄1
所属機関:
1二宮内科
ページ範囲:P.1450 - P.1451
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1840年3月28日にベルリンで発行された「治療週報」に,ドイツ中東部ザーレ川沿いのメルゼブルクの開業医バセドウ(von Basedow)が論文を発表した.1840年は日本では天保11年で,フーフェラントの『医戒』を訳した杉田成卿(せいけい)が24歳で幕府天文台翻訳局の訳官になった年である.バセドウの「眼窩内細胞組織の肥大による眼球突出」と題したこの論文は,甲状腺腫,眼球突出,頻脈(動悸)を伴う女性3人と男性1人の患者を報告していた.この3徴候は後にメルゼブルクの3徴候と呼ばれた.バセドウは論考の中で,類似の症例をフランスのドゥ・サン・イヴが1722年に記載していると述べている.報告当時バセドウは41歳であった.
バセドウはライプチッヒの北のハレ大学で医師となった.ハレはザーレ川の両岸にまたがる町で,音楽家のヘンデルの生地である.バセドウはその後パリに出て,2年間シャリテ病院とオテル・デュ病院で主に外科修練をし,ライプチッヒ近くのメルゼブルクの町で開業していた.メルゼブルクもザーレ川の岸にあり,丘の上の古い聖堂と城が町を見下ろしている.