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特別寄稿
AI時代における脳と心④
著者: 浅野孝雄1
所属機関: 1中村元東方研究所東方学院
ページ範囲:P.1199 - P.1209
文献購入ページに移動第Ⅱ部 ブッダの心理学とフリーマン理論
1.フリーマン理論とブッダの教説との「重ね描き」は可能か
1) ブッダの思想とは何か
第Ⅰ部で述べたフリーマンの意識理論は,あくまでも脳の働きについての物理学的言説である.それが,人間の現象的な心のプロセスとどれほど合致しているのかは,大森荘蔵氏が述べておられるように,適切な心的言説との「重ね描き」によって判断するしかない21).そのような心的言説として,筆者は仏教心理学を選んだ.それは2,500年前にブッダが考えたことであるが,ブッダが直接述べたことは,膨大なパーリ正典に伝聞の形で残されているだけである.したがって,ブッダが考えたことについては多種多様な解釈が存在するが,筆者はその中から,オックスフォード大学インド哲学講座教授であるリチャード・ゴンブリッチの『What the Buddha Thought』6),および彼の弟子であるスー・ハミルトンの『Identity and Experience. The Constitution of the Human Being According to Early Buddhism』9)を選んだ.その理由は,彼らが仏教信者としてではなく,言語学者・歴史学者・インド哲学研究者としてパーリ正典の読解に取り組み,筆者が知る限りにおいては,最も客観的にブッダの思想を再構築したことにある.
ゴンブリッチによるブッダ思想の解釈において最も画期的な点は,ブッダの「法(ダルマ)」という言葉を,現代英語の「プロセス」へと翻訳したことであろう.上掲書で彼が示しているパーリ正典に関する言語学的議論はさておき,Oxford Dictionaryによると,“process”という英語は「変化の自然経過(a natural series of changes)」を意味するが,その背景を成すのは近代以後の科学的世界観である.一方,「法(ダルマ)」は,ブッダ思想の核心を成す基本的概念である.つまりゴンブリッチは,2,500年前のブッダが,現代科学と基本的には同じ世界観をもっていたと主張しているのである.それはにわかには信じがたい考えであるし,ゴンブリッチは上掲書で,その理由について詳しくは説明していない.しかし,ゴンブリッチほどの碩学が,それほど重要なことを思いつきで言うはずがないので,その理由について筆者なりに考えたことを次節で述べる.
1.フリーマン理論とブッダの教説との「重ね描き」は可能か
1) ブッダの思想とは何か
第Ⅰ部で述べたフリーマンの意識理論は,あくまでも脳の働きについての物理学的言説である.それが,人間の現象的な心のプロセスとどれほど合致しているのかは,大森荘蔵氏が述べておられるように,適切な心的言説との「重ね描き」によって判断するしかない21).そのような心的言説として,筆者は仏教心理学を選んだ.それは2,500年前にブッダが考えたことであるが,ブッダが直接述べたことは,膨大なパーリ正典に伝聞の形で残されているだけである.したがって,ブッダが考えたことについては多種多様な解釈が存在するが,筆者はその中から,オックスフォード大学インド哲学講座教授であるリチャード・ゴンブリッチの『What the Buddha Thought』6),および彼の弟子であるスー・ハミルトンの『Identity and Experience. The Constitution of the Human Being According to Early Buddhism』9)を選んだ.その理由は,彼らが仏教信者としてではなく,言語学者・歴史学者・インド哲学研究者としてパーリ正典の読解に取り組み,筆者が知る限りにおいては,最も客観的にブッダの思想を再構築したことにある.
ゴンブリッチによるブッダ思想の解釈において最も画期的な点は,ブッダの「法(ダルマ)」という言葉を,現代英語の「プロセス」へと翻訳したことであろう.上掲書で彼が示しているパーリ正典に関する言語学的議論はさておき,Oxford Dictionaryによると,“process”という英語は「変化の自然経過(a natural series of changes)」を意味するが,その背景を成すのは近代以後の科学的世界観である.一方,「法(ダルマ)」は,ブッダ思想の核心を成す基本的概念である.つまりゴンブリッチは,2,500年前のブッダが,現代科学と基本的には同じ世界観をもっていたと主張しているのである.それはにわかには信じがたい考えであるし,ゴンブリッチは上掲書で,その理由について詳しくは説明していない.しかし,ゴンブリッチほどの碩学が,それほど重要なことを思いつきで言うはずがないので,その理由について筆者なりに考えたことを次節で述べる.
参考文献
1) アリストテレス(原著),出 隆(訳):形而上学.岩波書店,東京,1959
2) 浅野孝雄:古代インド仏教と現代脳科学における心の発見—複雑系理論に基づく先端的意識理論と仏教教義の共通性.産業図書,東京,2014
3) Brooke JH(原著),田中靖夫(訳):科学と宗教—合理的自然観のパラドクス.工作舎,東京,2005
4) Capra F(原著),吉福伸逸,田中三彦,島田裕巳,中山直子(訳):タオ自然学—現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる.工作舎,東京,1979
5) Churchland PM(原著),信原幸弘,西堤 優(訳):物質と意識(原書第3版)—脳科学・人工知能と心の哲学.森北出版,東京,2016
6) Gombrich R(原著),浅野孝雄(翻訳):ブッダが考えたこと—プロセスとしての自己と世界.サンガ,宮城,2018
7) Gonda J(原著),鐙 淳(訳):インド思想史.岩波書店,東京,2002
8) Haidt J(原著),藤澤隆史,藤澤玲子(訳):しあわせ仮説—古代の知恵と現代科学の知恵.東京,新曜社,2011
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10) 服部正明:古代インドの神秘思想—初期ウパニシャッドの世界.講談社,2005
11) 井筒俊彦:意味の深みへ—東洋哲学の水位.岩波文庫,東京,2019
12) 岩本 裕(編訳):原典訳 ウパニシャッド.筑摩書房,東京,2013
13) Lombardo TJ(原著),古崎 敬,境 敦史,河野哲也(監訳):ギブソンの生態学的心理学—その哲学的・科学史的背景.勁草書房,東京,2000
14) Lusthaus D:Buddhist Phenomenology;A Philosophical Investigation of Yogācāra Buddhism and the Ch'eng Wei-shih lun. Routledge, London, 2002
15) 前田專學:インド思想入門—ヴェーダとウパニシャッド.春秋社,東京,2016
16) 中村 元:ウパニシャッドの思想(中村元選集[決定版]第9巻),春秋社,東京,1990
17) 中村 元:ゴータマ・ブッダⅠ/Ⅱ(中村元選集[決定版]第11,12巻).春秋社,東京,1992
18) 中村 元:古代インド.講談社,2004
19) 中村 元:原始仏典.筑摩書房,東京,2011
20) 西垣 通:AI原論—神の支配と人間の自由.講談社,東京,2018
21) 大森荘蔵:物と心.筑摩書房,東京,2015
22) Oppenheimer S(原著),仲村明子(翻訳):人類の足跡10万年全史.,草思社,2007
23) Russell B(原著),市井三郎(訳):西洋哲学史1〜3.みすず書房,東京,1970
24) 辻直四郎:インド文明の曙—ヴェーダとウパニシャッド.岩波書店,東京,1967
25) 辻直四郎:ウパニシャッド.講談社,1990
26) Varela FJ, Thompson E, Roch E(原著),田中靖夫(訳):身体化された心—仏教思想からのエナクティブ・アプローチ.工作舎,2001
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