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文献詳細

雑誌文献

検査と技術39巻8号

2011年06月発行

文献概要

コーヒーブレイク

沖縄名護の戦場で敵味方に別れた親子の対面号泣

著者: 佐藤乙一1

所属機関: 1西武学園医学技術専門学校

ページ範囲:P.637 - P.637

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 「この話,語り継がれていることでネ,沖縄の古い人なら知らない人はいないはずです」と話してくれたのは仲城善裕さん(仮名)だ.那覇から名護に向かう車の中での話だった.仲城さんは当時琉球本土内病院の検査技師.同氏はさらに話を続け「名護地区はその昔大家族が多く生活は大変だったらしいのです.だから明治から昭和の初めにかけては多くの家が二男以下は米国へ出稼ぎに.そして金が貯まると帰ってきて名護に小さな集落を造った.それがアメリカ村です」と.この話を聞いたのは,まだ沖縄県とはいえず米民政府(USCAR)に統治されていた琉球政府時代,1968(昭和43)年1月のことだった.筆者はこのとき医療援助で旧厚生省から派遣の3回目だったからどちらを向いてももう「ヤー・オー」の仲.現在のように高速道路はなかった時代だから,那覇から名護まではたっぷり2時間はかかった.その車の中では例の話が延々と続いたのだ.これらの話をまとめてみるとこうなる.

 米国で金を貯めて帰国する者,現地に残り市民権を得て米国に永住する者などさまざまだったが,なかには米国で生まれた子を名護に連れて帰ってきてもすぐに米国に戻ってしまう者もいたという.そこでここに登場するのは時の米兵Aさん(仮名)というわけだ.この人は沖縄県人の間に生まれた純粋な日本人.出稼ぎ先の米国から名護の実家に戻ったが,すぐに帰米した.Aさんは米国籍もあったから,やがて召集されて米兵に.そして皮肉にも沖縄に派遣されてきた.時は戦争も末期,1945年の春だったという.市民は名護の山奥へ逃げこんでいた.日本軍には抵抗する力は全くない.Aさんは実家,家族の安否を気づかった.家のあった近くへ行ってみたが一帯は灰塵と化し,どの辺か見当もつかなかったという.瓦礫の中を歩き回っているとき小さな村人に逢った.“殺される”と思ったのだろう,村人は逃げだした.Aさんは大声で叫んだ.「オレはこの村の出身者Aだ,家族はどこにいる?」その話を知ったAさんの父は山から出てきて米軍のいる場所へ.そして「Aよ,Aよ」と呼びかけた.父はボロボロの服装に身を包み,栄養失調でやせ細り目だけがギョロついていた.その衰弱しきった父を見たAはいきなり抱きつき大声で泣きあったというのだ.「父よ,Aだ」,「Aよ父だ」と.敗戦色濃いなかでの劇的な瞬間,近くにいた米兵も涙したという.かくて戦争は終わった.Aさんは沖縄で終戦になってからただ1発だけ天に向けて鉄砲を撃ったという.「戦争は終わった」と.

掲載誌情報

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN:1882-1375

印刷版ISSN:0301-2611

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