文献詳細
公衆衞生の先驅者・3
文献概要
19世紀の醫學は多くの巨人を生んだ。その中の一人であるペッテンコーフェルは保健學上の知見,特に衣,食,住に關する基礎的な知見の進歩に寄與するところ多く,實驗的衞生學の建設者と呼ばれるに至つたドイツの醫學者である。
彼は1818年12月8日,ノイブルグに近い小村リヒテンハイムの豐かならぬ農家に生まれた。彼の家は彼に充分な教育を授ける餘裕をもたなかつたが,幸にして,彼の叔父の一人であるフランツ・ペッテンーコフェルは富裕な藥劑師としてミュンヘンに住み實子もなかつたので,マックスはこの叔父の許で養育されることになつた。かくて彼はミュンヘンの大學に學び,藥劑師となるべく自然科學特に鑛物學,化學等に主方を注いで勉強した。やがて1840年には帝室調劑局の助手に任ぜられ多望の前途へ向つて一歩を踏み出した。しかし,激しやすい彼の性格のために,久しからすして轉向するのやむなきに至つた。彼はその職をなげうつてレンゲンスブルグの劇團に身を投じたのである。けれども,幸か不幸か,彼の演技は好評を博さす,數ケ月の後には從妹ヘレン・ペッテンコーフェルの勸めるままにミュンヘンに歸り,再び大學の學生生活を始めることとなつた。このヘレン孃は後に彼の夫人となつた。
彼は1818年12月8日,ノイブルグに近い小村リヒテンハイムの豐かならぬ農家に生まれた。彼の家は彼に充分な教育を授ける餘裕をもたなかつたが,幸にして,彼の叔父の一人であるフランツ・ペッテンーコフェルは富裕な藥劑師としてミュンヘンに住み實子もなかつたので,マックスはこの叔父の許で養育されることになつた。かくて彼はミュンヘンの大學に學び,藥劑師となるべく自然科學特に鑛物學,化學等に主方を注いで勉強した。やがて1840年には帝室調劑局の助手に任ぜられ多望の前途へ向つて一歩を踏み出した。しかし,激しやすい彼の性格のために,久しからすして轉向するのやむなきに至つた。彼はその職をなげうつてレンゲンスブルグの劇團に身を投じたのである。けれども,幸か不幸か,彼の演技は好評を博さす,數ケ月の後には從妹ヘレン・ペッテンコーフェルの勸めるままにミュンヘンに歸り,再び大學の學生生活を始めることとなつた。このヘレン孃は後に彼の夫人となつた。
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