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文献詳細

雑誌文献

公衆衛生21巻8号

1957年08月発行

文献概要

特集 公衆衛生と保健婦

保健婦制度の歴史

著者: 平井雅恵1

所属機関: 1東京都看護課

ページ範囲:P.1 - P.2

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 保健婦制度の制定されるまでの10数年を先ずふり返つてみますと,私が初めて保健婦の制服をみたのは,看護婦学校の3年の時で,ブルーの濃い制服に白いカラー,黒いネクタイの保健婦さんが,聖路加病院のチヤリテーの外来にあらわれた時のことでした。昭和14年の春のことです。同年のはじめに,聖路加病院に,米国の女医と保健婦が招へいされて来日し,保健衛生の仕事をするのだとききましたが,一体何をするのか,生徒の私にはよくわかりませんでしたが,間もなく外来の看護婦さんの1人の制服がブルーに変つて,午前のチヤリテーケースの治療がすむと,午後はブルーの制服に鞄を持つて家庭訪問をするのだとききました。その当時,大きな四角い鞄が目につきましたが,ブルーの制服も異様に思われたのを覚えています。同年12月からは,スクール・クリニツクが開設されて,学童が大勢来院し,虚弱児童や,みのがされている皮膚疾患,その他の治療や指導が行われました。大正15年には乳幼児のクリニツクもはじめられました。昭和2年の春になつて,ブルーのユニホームが茶色に変り,公衆衛生看護婦は,プラウン・ナースの異名を貰い人数も多くなり,同年の10月からは組織立つた公衆衛生看護事業が行われるようになりました。
 昭和5年に大阪朝日新聞社厚生事業団は,大阪駅の近くに訪問婦協会を設立し,ニユーヨーク市ヘンリー,ストリートの保健婦事業と同一の事業がはじめられました。

掲載誌情報

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN:1882-1170

印刷版ISSN:0368-5187

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