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雑誌目次

雑誌文献

公衆衛生26巻6号

1962年06月発行

雑誌目次

特集 コレラ・パラコレラの疫学

第7回疫学研究会会長挨拶

著者: 野辺地慶三

ページ範囲:P.309 - P.312

 きょうは第7回の総会に当たりますが,本研究の改組成備の前に,そのフォアランナーとしまして,すでに2,3年研究会を行なっていたのでありますが最初から数えますと,本年ははとんど10年目になるのであります。本会は初めの間は,毎月例会をやっておりましたが,最近はご承知のとおり隔月に開会しておりますが,毎回の研究会におきまして,会貝のみなさまのご精励の結果,私どもの見るところでは,毎回医学上非常に有意義なご報告を行なっていただきますので,疫学の同好者として,会員一同にいろいろと裨益するものが多くあるので,非常に感謝しているしだいであります。つきましては毎回のご講演の記録を印刷に残して,みなさま方のところにお届けしたいのてありますが,私ども役員の力が足りませんで,毎回の幹事会でもそういっておりながら,何回かに1回くらいしか記事を印刷してみなさんのところにお届けできないのは,まことに申しわけないしだいでございます。本日のご講演は医学書院のご協力により公衆衛生の誌上に載せてもらうことになりましたので,いずれみなさんのお手元に届くはずでございます。
 それてはこれからまず総会事務を始めさせていただきますが,最初に本会の事業ならびに会計報告を松田および重松両幹事に願います。

流行史

世界のコレラ

著者: 松田心一

ページ範囲:P.313 - P.319

1.序説
 紀元前5世紀のころ,Thucydidesはアテネ人の間に流行した疫病の記載をしているが,それによると,腸の内容物が純水様(like pure water)に流れ出たとあるので,これがおそらく真性コレラの記録として,もっとも古いものであろうとされている。1)
 もともと,コレラという病名は,語源学的にはギリシャ語で胆汁疾患という意味に解釈されていて,ギリシャの古い書物のなかには,胆汁様排泄物を出す病気の記載もみられるが,この言葉が初めて用いられたのは,Hippocratesの書物である。しかし彼が,はじめて"コレラXoλερa"として記載した病気は,現在のコレラとは異なるものであろうと考えられている。また,同時代のインドの古い医学書にみられるコレラ様の疾患も,もとよりたしかなものでないとされている。7世紀のころ,インドの医師Súsrutaが,下痢,嘔吐その他の臨床症状が,コレラとそっくりな病気の記載をしているが,しかし,それが,現在のアジアコレラのような流行の形をとったという記録はなにもないのである。その後,はるか後世にはいって,16世紀以後のインドのコレラは,最も早いゴア州の流行をはじめとして,数世紀にわたる流行について,すべて多くの欧州人たち,すなわちオランダ人,フランス人,イギリス人の学者たちによって詳細に記載報告せられていることは周知のとおりである。

日本のコレラ

著者: 飯村保三

ページ範囲:P.320 - P.322

たいへん高いところから失礼いたします。私などが出る幕じゃないのでございますが,光栄あるせっかくのご指名なので,まあ生きているぞといわんばかりにまかり出ましたしだいです。私が申し上げようと思いますのは,古い日本にはいった前後のことと,あまり数字が表われておらないというのをちょっと申し上げまして,それから,私はよく同僚に冷やかされましたが,集めるのがマニヤだといわれたほど好きなものですから,文献のおもなものを,わずかに紹介して,文献の数くらいでおどかしたいと思っております。みんなやるつもりじゃないのですから,安心をなすってください。(笑)
 せっかくのご指名でいま申し上げたとおり,潜越ながら立ちましたのですが,したがいましていままで申し上げたごく概要を,実は内輪のことまで申し上げますが,私が持っておっても余命いくばくもないので,これをソックリ公衆衛生の松田さんのところに寄贈して参りますから,今後ご用があったら,松田さんをわずらわして,お調べ願いたいと思います。

日本のコレラ

著者: 高部益男

ページ範囲:P.323 - P.325

 わが国の最初のコレラ流行は,今を去る140年前の文政5年(1822年)と記録されている。8月に山陰山陽方面に流行し,わずか1カ月のうちに近畿におよび,軒並みの被害を受け1家全滅などの惨状を呈したといわれる。その前1817年には,コレラが初めて常在地のインドのベンガル地方から発して国際諸国に広がり,1820年から1821年へかけてジャワで大流行をみた。この第1回世界流行が遂にわが国にもおよび当時唯一の開港場であった長崎より侵入したものと推定されている,その後20年ほど経て関東,東北方面でコレラ様疾患の流行があったが,症状,流行状況などの詳細が不明のため,果たしてコレラであったかどうか断定されていない。
 次の流行は,安政5年(1858年)から万延元年(1860)へかけて襲来した。すでに安政2年には長崎在留のオランダ人を通じて第3回世界流行の情報がはいっていた。中近東アジアからヨーロッパ諸国,さらに中南米へおよび,インドシナ,ジャワ方面へは流行の初期である1852年にすでに大流行が始まっていた。ジャワ島では大雨が降り続き,また欧州でも河川の氾濫の上クリミヤ戦役が重なって流行による被害は増大したといわれる。わが国ではまず安政5年6月長崎に侵入した。長崎在の医師ボンベの説によれば,中国より来航した合衆国軍艦によって持ち込まれたとしているが,侵入し各地へ波及した経路は明らかでない。

フィリッピンその他のコレラ

著者: 岩田昌一

ページ範囲:P.330 - P.334

東南アジア特にフィリッピンと日本
 私は厚生省におきまして日本国内へのコレラの侵入防止という面を担当しておりますので,担当者といたしまして,いろいろな対策に参画してきたわけでございますが,私はその侵入防止という全体の考え方から,お話を申し述べてみたいと思います。さきほどお話がございましたように,世界に流行があります時に,どうしても日本にはいってくる。世界と申しても主として東南アジアでございますが,そういう時にだいたい日本にはいってくる。まあ100%はいってくるんじゃございませんが,そういうふうなことが,従来の疫学的な面からみまして可能性が強いということがいえるのでございます。さきほど飯村先生のお話にございましたように,ちょうど140年前,文政5年にはいる。それから安政5年というふうに,大流行がありました。それでさっき防疫課長のお話のように,しさいに検討すると,明治になるとほとんど毎年,大中小の流行があり,大正年代までだいたい続き,昭和にはいりましてからポツポツあるというようになり,ことに戦後になってから昭和21年に出たきり出ていないのであります。すなわち最近におきましては日本に侵入しないという経過をたどっているわけでございます。

問題点

病源学的観察—コレラとパラコレラの異同

著者: 佐藤和男

ページ範囲:P.335 - P.339

 昨年(1961)4月,インドネシヤのジャワ島に端を発し,サラワク,マカオ,ホンコン,広東その他の中共地区およびフィリピン諸島に至るまで,次々と,コレラ様症状を示す流行が発生した。サラワクマカオおよびホンコンにおいては,当初コレラと指定されたが,他の諸地域においては,多くはエルトール・ビブリオによるパラコレラあるいはエルトール・コレラという表現がなされた。
 種々の情報によれば,患者の症状はまったくコレラと同じもののようである。

疫学的観察—コレラとパラコレラの異同

著者: 湯沢信治

ページ範囲:P.340 - P.344

1.はじめに
 私は,今年1月22日から2月2日までの間,厚生省岩田検疫課長に同行して,ホンコンおよびフィリッピンを巡り,今次流行のコレラ(エルトール菌によるコレラ--以下便宜上エルトールコレラと称する)の実情を視察してきた。何しろ短時日の旅程であったため,またこのエルトールコレラをめぐって徴妙な国際状勢の下であった関係もあって,十分なデータを集めるにはいたらなかったのであるが,現地に接した者として,本編ではまず両国におけるエルトールコレラの発生状況等疫学的事項を紹介することとし,次いで在来のコレラとの異同について若干の考察を加えてみることにする。

防疫対策上の問題点

著者: 上田揆一

ページ範囲:P.345 - P.347

まえがき
 Choleraは従来しばしば日本に大小の流行・発生をみているが,元来日本に定着した伝染病ではなく,また侵入して来たときは,緊急の防疫対策が前面に立つために,系統的・基本的な検討が不十分で,いろいろの項目について不明の点が少なくない。したがって従来の防疫対策も不明な地点に立つての仕事が少なくなく,それらがいま少しく明確になっていれば,防疫の仕事ももっとしっかりした地盤に立って,しっかりした歩みを進めることができる。
 以下目次に従って問題を投げかけて行く。

総説

公衆衛生最近の進歩—衛生動物

著者: 大鶴正満

ページ範囲:P.348 - P.352

まえがき
 戦後10数年にわたるわが国の公衆衛生の進歩発達には著しいものがあるが,その土台石である環境衛生の面では,欧米諸国に比べておおよそ半世紀の遅れがあるといわれている。その環境衛生推進の原動力として登場した「カ・ハエ駆除運動」の最近の躍進ぶりには,確かに眼を見張るものがある。昭和30年6月,閣議の了解によって打ち出されてすでに7年を経過し,しかもまったくわが国独自の形で依然として押し進められている事実は,近年のわが国公衆衛生の普及発展に寄与している点で特筆すべぎことと思う。しかしそこには決して手放しで楽観できない面があることも銘記しておかねばならないであろう。たとえば現在の代表的な福祉国家といわれる英国の近代公衆衛生の発達には,約100年の環境衛生を主とした背骨があり,戦後のわが国の動向とは,おのずからその基盤において大きな差異がみられる。
 ここに取り上げる衛生動物の方面でも,やはり行政,実践,研究の各分野のアンバランス,底の浅さが痛感される。筆者は大学医学部において寄生虫衛生動物学の教育と研究にたずさわっている1人であるが,かかる教研の機関にあっても,斯学は必ずしもその立場が正当に評価され,運営されているとはいいきれない。しかし,ここにも,わが国公衆衛生の悩みに通じるものがあるようである。

先進老人国におけるGPの新しい役割

著者: 吉田寿三郎

ページ範囲:P.353 - P.361

 GP(一般医……むしろ総合医といいたい)の将来性については,SP(専門医)に比べて,このところ,いずれの国においても,とかく悲観的な観測が行なわれた。果たしてそのようなものであろうか。
 1948年英国において国民保健事業法を中心とする医療制度の根本的な改革が行なわれた。これに伴なって,その後しばらくはGPはありふれた軽症患者をのぞいては,患者を施設へ経由する機関以上の存在ではなくなった。医師としての気概は,病院にあって専門医として活躍することにかけられ,一時はGPの質の低下も問題になった。

紹介 ソ連医療事情

ソ連の保健事業の機構とプログラム

著者: 北上幸雄

ページ範囲:P.362 - P.363

 国民の健康を保護することは,社会主義国家のもっとも重要な機能の一つとされている。そこで医療活動を組織し,その高い質を確保する責任をになっているのは,ソ連邦保健省である。またその下に連邦を構成する各共和国の保健省があり,各地の保健局がある。これら機関の主要な任務は,次のようなものである。
 1)都市と農村の住民に対する医療を組織すること。

文献

都市衛生部局の衛生統計,他

著者: 西川

ページ範囲:P.322 - P.322

 アメリカ公衆衛生協会は1958年に都市衛生部局で衛生統計係をもっところが45ヵ所あると公表している。本論文はこの都市衛生部局衛生統計係の活動状況を分析的にのべている。
 現在の都市衛生部局の衛生統計係には4段階がある。大部分のところは第1段階で,記録係が衛生統計の登録の正確性を期しているという状態である。第2段階は同市の衛生統計を保健事業計画に反映させようと努めているが,まだ十分に基礎資料のそろわないところである.第3段階は比較的大ぎい都市の衛生統計がこれに属しているが,衛生統計係の人員も多くなり,種々の統計資料を利用して保健事業計画に寄与している.第4段階は,単にデータ集計やその分析に終わらないで,保健問題の評価や社会的需要の理解に役立っているところであるが,まだこの段階に達しているところはまれであるりこの段階においては,衛生統計係が公衆衛生事業計画を立てたり,評価をしたり,あるいは研究についても十分責任を負いうることになるであろう。

基本情報

公衆衛生

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1170

印刷版ISSN 0368-5187

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