文献詳細
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文献概要
大阪出張中に佐藤徳郎博士の訃報に接した。社の座談会などで,例の周到な,粘着力のある発言に接していただけに,一瞬信じられないような気持であった。
本誌「公衆衛生」は,随分先生のお世話になった。「公衆衛生」の前身はA5判の「公衆衛生学雑誌」である。この雑誌は,どちらかといえば原著雑誌の性格が強かったが,それをもう少し幅広く編集しようというので監修に三木行治,田宮猛雄,斎藤潔の3先生をいただいて改革を行なった。そして石垣純二,館林宣夫,豊川行平,田多井吉之介博士の編集スタツフがきまった。田多井博士の外遊に際し後任として佐藤徳郎博士が推されたのである。現在のようにB5判の雑誌になって,依頼原稿を主とした主体的な企画が進行するようになったのはその切りかえの頃からである。編集会議は談論風発,夜おそくまでかかることがしばしばであった。天馬空を行くような企画,鋭角的な狙い,一般ジャーナリズムに近いような啓蒙性,さまざまな個性的な発言のなかにあって佐藤博士は終始,じっくりと学問的な態度に粘着して,静かに説得力のあるアイデアを出されていたことが,強く印象に残っている。編集会議は,特定の酒仙も居ったが,むしろ大ヤカン1杯(ある編集委員はバケツ1杯と称した)のお茶を飲みつくすような雰囲気であった。
本誌「公衆衛生」は,随分先生のお世話になった。「公衆衛生」の前身はA5判の「公衆衛生学雑誌」である。この雑誌は,どちらかといえば原著雑誌の性格が強かったが,それをもう少し幅広く編集しようというので監修に三木行治,田宮猛雄,斎藤潔の3先生をいただいて改革を行なった。そして石垣純二,館林宣夫,豊川行平,田多井吉之介博士の編集スタツフがきまった。田多井博士の外遊に際し後任として佐藤徳郎博士が推されたのである。現在のようにB5判の雑誌になって,依頼原稿を主とした主体的な企画が進行するようになったのはその切りかえの頃からである。編集会議は談論風発,夜おそくまでかかることがしばしばであった。天馬空を行くような企画,鋭角的な狙い,一般ジャーナリズムに近いような啓蒙性,さまざまな個性的な発言のなかにあって佐藤博士は終始,じっくりと学問的な態度に粘着して,静かに説得力のあるアイデアを出されていたことが,強く印象に残っている。編集会議は,特定の酒仙も居ったが,むしろ大ヤカン1杯(ある編集委員はバケツ1杯と称した)のお茶を飲みつくすような雰囲気であった。
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