文献詳細
随想 明日を担う公衆衛生
文献概要
私が会社に勤務したのは,終戦の翌年の昭和21年7月で,名大医学部衛生学教室から,治療と予防を分離し,衛生関係の部課の設立という課題をもって赴任した。昭和23年7月に安全衛生課が発足したが,いち早くこのような課ができたことは,会社主脳部の進歩的な考え方があったことが大きく,私も純粋な気持ちで設立に努力したことをなつかしく思い出す。
この夏でちょうど20年,ふりかえってみるといろいろのことがあった。戦争の後の伝染病,復員してくる従業員を中心に発疹チフスの対策」,こんなにしみる痛い予防注射はない」と文句をつけられつつも,全員に予防接種をする習慣をつけさせた。その後社宅を中心とした赤痢の発生,矢作川の上流まで発生源を求めて調査して予防対策をたてた。人手不足で,自分でDDTの噴射器をもって風呂場,更衣箱,便所をまわり,「先生自身がやられるのでは恐縮」と従業員や家族の人がすすんで手伝ってくれるようになり,そのうち年間の行事に発展して防疫体制の整備が完了した。
この夏でちょうど20年,ふりかえってみるといろいろのことがあった。戦争の後の伝染病,復員してくる従業員を中心に発疹チフスの対策」,こんなにしみる痛い予防注射はない」と文句をつけられつつも,全員に予防接種をする習慣をつけさせた。その後社宅を中心とした赤痢の発生,矢作川の上流まで発生源を求めて調査して予防対策をたてた。人手不足で,自分でDDTの噴射器をもって風呂場,更衣箱,便所をまわり,「先生自身がやられるのでは恐縮」と従業員や家族の人がすすんで手伝ってくれるようになり,そのうち年間の行事に発展して防疫体制の整備が完了した。
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