icon fsr

雑誌目次

雑誌文献

公衆衛生32巻1号

1968年01月発行

雑誌目次

特集 明治百年と公衆衛生

日本医療百年史序説

著者: 川上武

ページ範囲:P.11 - P.16

明治百年に挑戦する
 日本医療百年史は"明治百年"をどううけとめるかによって,その内容は異なってくる。竹内好によって口火をきられた"明治百年"の問題は,竹内の意図と反していまや完全に国家ペースで展開されいろいろと記念行事が計画されており,竹内もその問題提起を徹回せざるをえないような状態である。このような"明治百年"問題にどのような姿勢をとるかが,日本医療百年史の評価を規制してくる。
 まずわれわれは"明治百年"を謳歌するか,挑戦するかを明らかにしてかからなくてはならない。この点をあいまいにしておくと,"明治百年"の出発点となった明治維新の評価,その後の進展について科学的な判断をくだせないばかりか,"明治百年"の反省も単なる回顧趣味か,現体制の補強工作に終ってしまい,そのなかから現状の矛盾・混乱を解決するための将来の展望を把握できなくなる。謳歌する立場からは,日本医療がわずかの間に近代化に成功し,いろいろの困難はあったにしても,いまや世界的水準に達したという成功談に終るのがおちである。たしかに歪みという点を無視すれば日本医療の近代化は速かったし,現在の日本医療の水準は世界的レベルに近いということができる。過去百年間の疾病構造の推移,医療技術の進歩,近代的医療の普及などをとってみても,日本医療が百年間に大きな進歩をとげたことは否定できない。

学校保健百年史

著者: 重田定正

ページ範囲:P.17 - P.22

はじめに
 明治元年学習院および昌平学校が再興され,同2年には府県施政順序を定め,全国3万以上あったと推定される寺小屋を小学校とする着想を明らかにした。明治3年大学規則並中小学規則を公にし,大学には教科・法科・文科・理科・医科の専門分科を設けることになっていた。明治4年文部省が設置され,同5年学制が発布された。
 明治8年文部省第1年報が天皇に呈進された。これには,「衛生ノ術ノ如キ未タ遽ニ其功ヲ奏スルヲ得ス……家戸皆学事ニ勉メ人身各健康ヲ保スルノ実績ヲ見ルニ至テハ臣意固ヨリ将ニ之ヲ徐々ニ期シテ匆々ニ望ム可ラストス」と記されてある。これは,文部行政において健康が当初から関心事の一つであったことを示している。

労働衛生百年史

著者: 三浦豊彦

ページ範囲:P.23 - P.29

はじめての産業医局
 明治政府が「富国強兵」「殖産興業」のスローガンを実現するために行なった努力は,まず軍備の充実,国内資源の開発,洋式機械工業の導入であった。このうち洋式機械工業の導入については官営の模範工場を設けて,外人技術者に技術指導にあたらせるなどの努力をはらった。こうした官営工場が明治4,5年頃からつぎつぎにできあがった。
 明治政府が輸出産業として生糸に着目し,新しい洋式製糸業の導入をはかることはとうぜんであった。富岡製糸所はこうして設立されたものである。この時招聘されたのが仏人技師のポール・ブリューナであり,明治5年7月上州の富岡(現群馬県富岡市)に製糸所ができた。フランス式の機械製糸所だったわけである。そしてこの製糸所では士族の娘たちが工女として働いた,というより機械製糸の技術を伝習したわけである。この富岡製糸所については,明治6年(1873)から7年まで働いた横田英子(後の大審院長横田秀雄,鉄道大臣小松謙次郎妹),後の和田英子が,当時を思い出して明治40年(1907)に書いた"富岡日記"によって,当時のありさまを知ることができる。

衛生行政の歴史的発展と課題—明治百年に際して

著者: 橋本正己

ページ範囲:P.5 - P.10

はじめに
 日本における衛生行政は,それが近代的な意味で緒についたとみられる医制公布(1874,明7)から数えてもすでに94年を経ており,その歴史はまさに明治百年と軌をひとつにするものといえる。この1世紀は,入間の歴史として類のない波乱と激動の連続であったが,とくに日本にとっては,その立ち遅れた近代化促進の過程として,文字どおり困難と栄光と苦渋に満ちた波乱万丈の1世紀であった。行政とは,本来,政治的権力に裏づけられた諸政策の社会的な実現過程である。したがって,欧米諸国の場合も同様であるが,この100年間における日本の衛生行政の発展過程もまた,あらゆる意味において,日本の近代化の基本的政策そのものの特質を直接間接に反映していることは,その歴史がこれを示している。
 国連は,第二次大戦の悲惨な経験と各国の国民生活の破壊を克服する社会保障確立の時代としての1950年代に対し,1960年代を経済開発と社会開発の均衡を強調するDevelopment Decadeとして全世界に協力を呼びかけている。明治百年という時期が,世界の歴史にとって,このように一面でははてしない技術革新,工業化,都市化による人間の物的生活の発展の可能性を示唆する半面,恐るべき人間疎外の様相を深めている。また,一歩方向を誤まるならば人間の生活と人間性を決定的な破滅に追いこむ絶望的な危機をはらむ時期であることは,日本にとっても,世界にとっても,まことに重大といわなければならない。明治百年を契機として,明治維新の再評価や日本の近代化をめぐる多角的な討議や学問的な掘り下げが,各方面でとり上げられていることは,このような観点から意義の深いことである。衛生行政百年の歴史の考察もまた,その根底において,人間の歴史における今日の時代の意義と,その決定的な問題性をふまえたものでなければならないことは明らかであろう。

民間活動

大日本私立衛生会の歩み

著者: 田波幸男

ページ範囲:P.30 - P.33

大日本私立衛生会の創立
 日本公衆衛生協会の前身である大日本私立衛生会は,明治16年2月18日にその創立を新聞紙上に公告して,5月27日に第1回総回を開いた。
 長与専斉は衛生会設立について,
 「抑も明治16年本会を東京に設立せしは10年以来数回のコレラ流行に遭遇し深く時事に感ずる所ありて同志相謀り設立の事に及びたり,凡て衛生の事殊に伝染病予防の事は人事の内部立入るものゆえ法律的の表面運動のみにてはと角痒所に掻着し能はさるの憾もあり其の趣旨を誤りて怨嗟を来すの憂もあり人民全体に自衛の念を備えて内外表裏相済ぬに非されば充分の結果をみる能はさるを諦識し云々」

民間の衛生運動史—その素描

著者: 水野洋

ページ範囲:P.34 - P.37

愛の種痘医たち
 衛生運動というものをどう理解するかは別として,まず"愛の種痘医たち"の活動から述べなければならないだろう。鎖国の,しかも封建専制時代において,蘭方医たちが流行する痘瘡に対して,牛痘接種法による予防措置の確立のためにどんなに努力してきたことか。それらの詳細な事実については浦上五六氏の"愛の種痘医"に詳しく述べられている(医学史研究第6号より断続的に掲載中)。
 長与専斉の祖父俊達が,大村藩において人伝痘苗の永続普及をはかり自宅種痘の許可を得て種痘料を安くさせていく活動などは,大村藩政の一端をになうものであったとしても,藩民の協力,理解なしにはやりとげられるものではなかったはずである。したがってここに,民間の衛生運動の一つの出発点を認めたいと思う。こうした"愛の種痘医"たちが痘瘡から生命を守る役割を果たしてきたが,一方この時代,飢死寸前の人たちや飢え死にする多くの窮民があったことも事実である。

ひと

長与専斉と医制

著者: 曽田長宗

ページ範囲:P.38 - P.41

 明治百年にちなんで,わが国衛生行政の創始期に,約20年間,最高の責任者たる地位にあった長与専斉の事蹟をかえりみ,また最初に医学教育および衛生行政の総括的方針をうたった医制76条の制定公布のいきさつをふりかえり,われわれの先達が,どのような考えで,どのように苦心し,努力を払ったかをしのぶことは,これからの医学教育,医療保健活動のありかたを考え出すのに大きな助けとなるであろう。
 もちろん,わが国の医学教育や医療保健行政が,内務省衛生局長を長年勤めた長与専斉一個人によって創められ,発展させられたものと考えたり,広汎な内容が盛り込まれているとはいえ,医制の研究だけで明治政府の医学,衛生に関する方針の検討が尽くせるものとしたりすることは,大きな歴史の流れのうちに事象の社会的意義を探ろうとする立場から見て,明らかにまちがいといわなければならないであろう。しかし中心的な人物,総括的基本的な法規として,長与専斉や医制にアクセントを置き,明治政府初頭の衛生行政創業の跡を辿るということは,必ずしも不当な企てといいえないと思われるので,編集当局の指示にしたがって本文を草する次第である。

衛生学者としての森鷗外

著者: 丸山博

ページ範囲:P.41 - P.45

はじめに
 明治33年は西歴紀元1900年。本誌は昭和43年(1968)正月号。「衛生学者としての森鷗外」などと編集者の所望に応じて小稿をしるす。「文豪森鷗外と衛生学」ではない。ここでは森鷗外を形成した核心森林太郎の一時期・23歳から38歳まで,明治17年(1884)から明治32年(1899)まで,衛生学をドイツに学び,帰朝して陸軍軍医学舎教官になり,衛生学を講じ衛生学の著述をし,陸軍軍医学校長をやめるまでの15年間に限定した。このように抽出限定した19世紀末日本の衛生学者森林太郎が本稿の主題である。
 明治17年(1884)――日本国内は自由民権運動たけなわ,福島(15年),高田(16年),群馬,加波山,秩父事件(以上17年)のあとをうけ,ついに自由党解党。翌18年内閣官制ひかる。まさに絶対主義天皇制宮僚政治の確立期,軍備拡充,軍国主義日本の陸軍の命令で,陸軍二等軍医・医学士森林太郎(23歳)は,衛生学を修めるためドイツ留学の途につく。7月28日天皇に拝謁,8月23日東京出発,翌24日横浜出帆,10月7日マルセーユ入港,パリを経て10月11日ベルリン到着。

後藤新平論

著者: 小野寺伸夫

ページ範囲:P.46 - P.48

先見的であるということ
 イプセンの戯曲に「民衆の敵」というのがあるが,医学と政治,医師と民衆,衛生問題と民衆の期待を皮肉なタッチでみごとに書きあげている。すなわち,主人公のトマス・ストックマンという医師が温泉地の衛生問題について町政に提言し,改革をせまり,科学的で先見的な計画ながら町の政治家に受け入れられなかったばかりでなく,民衆の憤りをうけ投石などを受けるという筋書きである。このように,時代に受け入れられなかった公衆衛生医の姿を戯曲化しているが,後藤新平研究をおしすすあていると,妙にこの戯曲が思い出されてくるのである。もとより,ストックマンという架空の主人公で,たかだか町の政治家にも相手にされなかった医師と,数度にわたって大臣を歴任し,科学的政治家としての後藤新平医師を同一視するなどはなはだ滑稽なことであるといわれるかもしれないが,私にとってなにか共通するものを考えないではいられない。後藤新平の親戚にあたる人物で高野長英という人があるが,経世の才のある蘭学医ながら幕末の混乱をのりきれず非業な死をとげている。このように,時代に受け入れられなかった一匹狼の人材を眺めるとき,イプセンの「民衆の敵」のもつ味わいは実に大きい。

回顧

労働衛生43年

著者: 松下正信

ページ範囲:P.49 - P.50

出会い
 大正8年東大医学部を出て衛生学教室で勉強していた大正9年3月上旬,先輩の紹介で本郷西片町に故石原修先生を訪れた。氏が農商務省嘱託として明治末期に調査した紡績女工手の問題は当時の政界産業界に一大警告を放ったものだったが,私の訪れた時は農商務技師として工場監督官兼鉱務監督官をしておられ,後阪大教授に転身された。その頃はいわゆる大正デモクラシーの時代で労働問題の叫びが全国に拡がり,その影響が各方面に,そしてわが衛生学にも及んでいた。社会医学労働衛生が注目されたのもほぼその頃である。
 元来私は当時のアカデミックな衛生学には何の興味もなかった。もっと血の通った生きた衛生学を求めていた。石原博士の話をうかがっている間に,産業現場を対象にして労働人の衛生学的・生理学的探求こそわが求める道だと感じ,この道こそ一生を献げても悔なしと信ずるに至った。この一夜の会談こそわが生涯を決定したもので,すなわちこの世における出会いであった。

公衆衛生百年の歩みを概観して

著者: 藤原九十郎

ページ範囲:P.51 - P.53

 年齢からいえば明治百年の74%を超えたことになるが,医者になり公衆衛生で立っていく決心がついたのが大正6年(1917)であるから,それからすれば50年である。戸田正三先生が新しい衛生学教室を開設された時からで,以来半世紀の間衛生の畑をさまよって来たが,終始大阪を離れたことのない地方人であるから,"明治百年をふりかえる"としてもほんの一隅からのぞいたことだけよりわかるはずがないことを,筆を執るにあたってまずお断りしておきたい。

資料

衛生統計からみた国民保健の推移

著者: 西川滇八 ,   有賀徹 ,   浜本治夫

ページ範囲:P.54 - P.59

はじめに
 この一世紀は,わが国民の生活に大きな変化をもたらした。それは政治・経済・産業・文化など,あらゆる分野にわたっていることはよく知られているとおりである。国民の保健生活もまた大きな進歩をとげている。この国民の保健生活の進歩が衛生統計上にいかに反映しているかを追求してみるのが拙稿の試みである。もちろん単なる回顧に終ることではなく,それによって将来100年のProspective aspectを形成するために役立てたいというのが筆者のひそかな望みである。
 まず衛生統計に関連した主な事績をあげてみることにしょう(第1表参照)。

グラフ

医学部・研究所創設のころ

ページ範囲:P.1 - P.2

 明治百年の特集にあたって,東大,順天堂大,北里研究所,伝染病研究所(現在の東大医科学研究所),慶大の各大学,研究所の創設のころの写真資料をあつめてみた。西洋文明に追いつき追いこせと,きそって設立された学問,文化の殿堂は,当時の息吹きを如実に伝えてくれるようである。

人とことば

—勝俣稔先生に聞く—結核撲滅を生涯の仕事として

ページ範囲:P.3 - P.4

 あの国民病とまでいわれた結核も今や昔日の感はない。しかし,結核を今日の姿にまでもってくるには,医学,医療の進展と共に,衛生,公衆衛生行政に携わる諸先達のなみなみならぬ努力が払われていたからである。本特集"明治百年と公衆衛生"の冒頭を飾るものとして,この先達のお一人,勝俣稔先生にご登場いただきくわしくお話を聞く機会を得た。東京新宿,花園町の公衆衛生協会の一室でおめにかかった勝俣先生は76歳とはおみうけできない情熱をもって,いろいろと話して下さった。

基本情報

公衆衛生

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1170

印刷版ISSN 0368-5187

雑誌購入ページに移動

バックナンバー

icon up

本サービスは医療関係者に向けた情報提供を目的としております。
一般の方に対する情報提供を目的としたものではない事をご了承ください。
また,本サービスのご利用にあたっては,利用規約およびプライバシーポリシーへの同意が必要です。

※本サービスを使わずにご契約中の電子商品をご利用したい場合はこちら