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雑誌目次

雑誌文献

公衆衛生35巻10号

1971年10月発行

雑誌目次

特集 ニュータウン

ニュータウン論

著者: 久保田義雄

ページ範囲:P.584 - P.591

はじめに
 ニュータウン花盛りである.民間の小規模分譲地でさえ温泉マークではないが,やたらとお名前拝借である.ニュータウンということばの清新なイメージや魅力にひかれてのことであろう.しかし,ニュータウンづくりを担当するわれわれとしては,現在悪戦苦闘中といったところである.
 本稿では,主としてニュータウンの発想と問題点について,多摩ニュータウンを例にとりあげ述べてみることとしたい.あわせて,今後のニュータウン建設のあり方といったことを簡単にとりあげてみたい.

生活の場としてのニュータウン—主として住民生活の面から

著者: 中村八朗

ページ範囲:P.592 - P.598

はしがき
 イギリスの例に倣った「ニュータウン」という名称で大規模住宅団地開発の動きがわが国で始ったのは昭和30年頃に遡る.昭和30〜35年にかけて東京都下日野町(現日野市)に造られた多摩平ニュータウンはそのような動きの初期のものであったが,単なるベッド・タウンではなくてニュータウンであると盛んに強調されていたことを記憶する.
 従来大都市周辺に設けられた住宅団地がアーバンスプロール(市街地の無秩序な拡大)をもたらすにすぎなかったことの反省に立ち,ニュータウンの場合は大規模な計画的開発によってそのような拡大を規制するとともに,大都市に流入する人口をそこで食い止めることが重要な狙いであった.そのためには単に住宅だけでなく,企業誘置によって居住者に職場も提供することが必要と考えられていた.しかし多摩平ニュータウンの場合は,実際には職場提供の考慮が払われておらず,したがって結局はベッド・タウンに終るという批判も加えられていた.これは多摩平に限らず,ほかの地域でその後造られたニュータウンの場合にも同様である.この点からみると,わが国でいわれるニュータウンも単に大都市地域周辺の大規模住宅団地と称して差し支えないように思われるが,しかしこれは都市計画の物的側面に関する知識に欠けている私の誤解なのかもしれない.

生活の場としてのニュータウン—主として施設計画の面から

著者: 日笠端

ページ範囲:P.599 - P.603

ニュータウンの源流
 すべての都市には,はじまりがあり,その意味では必ず一度は"New"であったことになる.地名としてNew Town(バハマ諸島),Newtown(ウェールズ地方),Newville(ペンシルバニア州),Newton(アメリカ5カ所),Neustadt(ドイツ7カ所),Villeneuve(フランス),Novgorod(ソ連)など当時の住民によって名付けられた都市名のみが残り,このことを伝えているものがある.
 しかし,今日いう"New Town"は20世紀になってから,特別な目的をもって土地が選定され,計画され,開発された都市をいい,英国が最も早く,その後,各国に派及した.

ニュータウンの保健と医療

著者: 金田治也

ページ範囲:P.604 - P.609

 団地やニュータウンには若い夫婦よりなる核家族が集中し,保健医療サービスの中心的課題は「母子保健」であることは論をまたない.出生率が高く経験豊かな老人がいないだけに,育児や妊婦に対する保健活動の需要は大きい.医療や保健相談に対する需要にとどまらず,幼児のための託児所,幼稚園,子供遊園地などの保育施設についても問題になっているという.しかし現在のところ,住民の不満や関心はまず日常の診療体制に向けられている.
 どこの団地でも住民の生命を守るために不可欠な医療施設の整備は不充分で,救急車の利用に頼っている.

多摩ニュータウンの表と裏

著者: 仲井和雄

ページ範囲:P.610 - P.613

管轄新保健所の誕生
 東京都の66番目の保健所として,日野保健所が誕生したのは,昭和44年4月であった.それまで八王子保健所管内の一部であった日野市,多摩町,稲城町,63平方km(区部での最大面積は世田谷区の58平方km)人口14万2千人(現在は17万人本年10月には多摩,稲城両町は市となり3市となる予定)を分割所管することとなった.
 多摩川が北に,多摩丘陵が長く南側に伸びた明るい田園地域で,有名な多摩自然動物園も昼休みの散歩にという環境である.

千里ニュータウンの表と裏

著者: 朝倉新太郎

ページ範囲:P.614 - P.615

 1970年,わが国ではじめて開かれた万国博覧会をみるために,大阪北郊の会場,千里丘陵におしよせた人の波は6,000万人にものぼった.幾分とも,未来社会の気分に酔ったであろうそれらの人びとの眼には,隣接する400万坪,人口15万の新都市,千里ニュータウンの近代的なたたずまいも,あるいはもはや古ぼけたまちとしての印象としてしか映らなかったかもしれない.
 しかし,よかれあしかれ,千里ニュータウンは,規模,内容からいって,20世紀後半における"経済大国"日本を代表するモニュメントとして,ほど良く万博会場に隣接して存在する資格をもっていたのである.そこでの生活や保健,医療の本筋については,別に金田報告がのべているので,私はそれを補足する意味で,いくつかのエピソードを綴ることにしたい.

品川地域再開発の運動と研究の経過

著者: 佐伯洋一郎

ページ範囲:P.616 - P.618

 わたしが品川教会に牧師として就任したのは,1953年(昭28)の夏であった.当時わたしはよく地域に住む信徒の家庭や,教会付属幼稚園児の家庭を訪問した.特に夜間の訪問の際に,旧東海道の宿場町を通ると,その頃まだたくさんあった赤線宿から,女の子たちに呼びかけられた経験をもっている.
 また,北品川の宿場町からもう少し東,東京湾寄りのところに東品川の漁師町が,まだ盛であった.特に海苔の干し場というのがあって,シーズンには所せましとばかりに,海苔が干してあった.

発言あり

シビル・ミニマム

著者: ,   ,   ,   ,  

ページ範囲:P.581 - P.583

ささやかな願い
 せめて子供達が安心して遊べる小さな広場がほしい,せめてきれいな飲み水ぐらいはほしい,せめて立居振舞の不自由なお年寄のお世話ぐらいは何とかして上げられないものか,せめて夜ぐらいは静かに眠らせてほしい,せめて前の川を見た目ぐらいはきれいにできないものか,せめて……,せめて……といったさまざまな「ささやかな願い」は一向にかなえられそうにないまま,経済大国ニッポンなどと聞かされてもさっぱりピンとこない人が多いに違いない.確かにカラーテレビも買った,飛行機に乗って旅行もした,どこでも都会風に便利そうになった,だが今は…….
 激しい勢いで進んできた工業化社会の中で都市といわず農村といわずわれわれの生活も大きく変ってきた.たとえば家庭を考えても,その機能の縮少・単純化(時に崩壊)は,社会的に充足しなければならない需要,解決しなければならない問題を増加させているし,さらに余暇と情報の増加は,この需要や問題を高度化し,多様化させていくだろう.いわば「ささやかな願い」による消費の社会化は必然であるといえる.

講座

社会福祉論—第2回 社会がきめた規格からはずされる人間の取り扱い(その2)

著者: 深沢道子 ,   阪上裕子

ページ範囲:P.619 - P.622

 前稿で,障害者が疎外され,一般生活での生活者として無視されがちな「現実」について述べたが,本稿ではその「現実」の背後にある社会的,心理的な原因について考えてみたい.ただ単に自分達の税金を少数者のために使われたくない,とか,それでなくても苛酷な生存競争の場に,障害者に割り込んで来られたくない,などという利害関係によってのみ「疎外」が行なわれているのではないことは確かである.

婦人労働(5)

著者: 嶋津千利世 ,   原田二郎

ページ範囲:P.623 - P.626

2.明治以後のマニュファクチュアにおける婦人労働者
 マニュファクチュア時代の機織り下女は奴隷であった,というみかたがうまれるほどその労働は苛酷であり,門から外へでてはいけない,などといった拘束的な束縛もつよかった.しかし,そのような制約をこえない日常生活では,牧歌的な側面もあった.たとえば,さきにみた『嘉永5年8月奉公人召抱及待遇に関する機屋取究』にはつぎのような文字がみえる.
 一.唄ハ,厳敷差留ハ不レ致,不二耳立一よふ,小声ニ唄可レ申.村内之者,主人之噂,下がかり,其外,聞きにくき唄決而不二相成一……仕事に,実の入節ハ,唄所ニてハなし.……唄を唄ねハ,寝むく成の,あきるのと云ハ,仕事ニ身の入さると心得べし.……

特別寄稿

環境保健—私の意見

著者: 土屋健三郎

ページ範囲:P.632 - P.634

 本誌編集室では,本年の年間テーマとして環境保健をとりあげ,その大きな柱として,講座「環境保健の提唱」を掲載しました.この講座は,公衆衛生院・長田泰公氏にお願いし,1月から6月までにわたり,長田氏独自の環境保健を述べていただきました.すなわち具体的な問題を通して,環境保健という新しい言葉にどのような内容をもりこんでいくべきかの提案をいただいたのです.
 そこで,その6回の講座をうけて,土屋健三郎氏に環境保健についてのご意見をうかがってみました.

資料

東京都目黒における腸チフスの地域発生について

著者: 腸チフス中央調査委員会

ページ範囲:P.635 - P.638

はじめに
 1969年9月初旬より約1カ月はわたり目黒区原町1丁目(1,672世帯,4,589人),目黒区本町6丁目(1,994世帯,5,701人)を中心として,34名の腸チフス(ファージ型M1)が発生した.
 流行の認知は,9月20日に碑文谷保健所管内の病院に多数の熱性患者が在院し,チフス性疾患の疑いが必ずしも否定できないことを保健所長(内藤治氏)から指摘されたことに端を発する.患者の発生は東京急行目蒲線西小山駅の西側の目黒本町ならびに,その周辺の狭い地域にほぼ限定され,隣接の目蒲線東側の荏原地区から発生した患者,他地域の患者もすべて流行地域と関連を有するものであった.

自動血圧測定装置とRiva-Rocci型血圧計による測定値の比較

著者: 熊倉真

ページ範囲:P.639 - P.641

はじめに
 近年,脳卒中予防対策の一環として,血圧測定の集団的に実施される機会が多くなってきた.集団検診では,「異常」と「正常」を定性的画一的に判定することがしばしばなので,測定値の正確度そして客観性が要求されることになる.血圧は,検者側条件,被検者側条件,環境条件によって変化することはいうまでもない1,2).秋山・他は5人の検者により「血圧同時測定による検者間の読みの差3)」すなわち,検者側条件による誤差の検討を行なった.それによると,最高血圧では,5人のあいだの読みの差の平均が5.8 mmHg,その標準偏差3.6mmHg,最低血圧の差の平均は7.0 mmHg,標準偏差は3.5mmHgであった.
 このような検者側条件や環境条件のあるものによる読みの相違は,測定過程を自動化することにより除くことが可能である.また,他の臨床検査同様,医師以外の者による測定を可能にすることができる.

人にみる公衆衛生の歴史・7

横手千代之助(1871〜?)—「横手社会衛生叢書」の刊行をめぐって

著者: 川上武 ,   上林茂暢

ページ範囲:P.628 - P.629

 「横手社会衛生叢書」といえば,衛生学の古典と考えられてきた.しかし,その存在が知られているわりには,必ずしも後の研究者のたちもどるべき結節点とはなっていないように思われる.
 さらに,この叢書の評価にも関係してくるが,監修者横手千代之助は東大衛生学の2代目の教授であった.衛生学講座を2つに分離したさい,緒方正規は細菌学的衛生学に力をそそぎ,一般衛生学は横手が担当した.その意味では,狭義の衛生学は横手にはじまるといってよい.

私たちの保健所・32 福島県・磐城保健所

臨海地の保健所として

著者: 佐藤雅寿

ページ範囲:P.630 - P.630

所在地および地域の概況
 当所は昭和34年,当時の磐城市を管轄として設立された.昭和41年に5市4町5村が合併し,全国でも珍らしい,かな書きの"いわき市"(面積1228km2,人口33万人,市庁舎平地区)が誕生したが,現在,市内に,平,勿来,磐城の3つの県の保健所があり,当所はその中の磐城地区(旧磐城市)を所管する.管内は面積92km2,人口6万8千人,人口密度1km2当り740人で保健所型別はR5である.地域の概況およびその特徴として,当管内は県の東南端に位し,太平洋に面し,著しい発展をみている小名浜港と,それに続く臨界工業地帯であることである.常磐郡山地区は,昭和39年に新産業都市の指定をうけて以来,当地区には大型臨海工業地帯をめざして企業誘致などが行なわれてきたが,それに伴って公衆衛生上の諸問題も多くなってきている.

教室めぐり・27 東北大学衛生学教室

地域における住民の生態と健康

著者: 高橋英次

ページ範囲:P.631 - P.631

 宮城医学専門学校が東北帝国大学の附属医学専門部になったのは明治45年で,同帝国大学医科大学に衛生学講座が設けられたのは大正6年である.初代教授に予定されていた小酒井光治博士が赴任することなく病没されたあと,しばらくは東大の横手千代之助先生の出張講義がつづいた.細菌学教室の助教授であった近藤正二先生がヨーロッパ留学のあと昭和2年に衛生学講座の教授に就任された.当初は紫外線の研究や発育・学校衛生・学校給食に関連した領域の研究が行なわれていたが,昭和15年頃から東北地方の農村に多い脳溢血の多発原因に関する実地調査が行なわれるようになった.これは戦後も継続され,近藤教授はそのため全国津々浦々に至るまで600か所以上の農山漁村を踏査された.その結論として農村の白米偏重の食習慣に最も問題のあることを指摘し,食生活の改善と健康長寿に関する旗じるしをたてられた.
 昭和31年近藤教授定年退職のあとを筆者高橋が受継いだわけであるが,研究面においても高血圧・脳卒中の疫学的研究や学校保健--というよりは人類生物学的な意味での発育・栄養・体力などの研究を受継いだ.東北地方における高血圧の傾向については弘前大学在任当時から青森県・秋田県地方について手がけてきたが,さらに東北地方中南部の農村や漁村について研究をすすめた.

私の意見

ヘルス・ニードの変貌に対処する道—座談会「これからの岡山県の公衆衛生活動」(35巻7号)を読んで

著者: 内海和雄

ページ範囲:P.642 - P.642

 地域の健康問題をただ解釈しているだけでなく,それを住民とともにどう解決するか,という視点と問題意識をもって,私たちのサークルは先日ある農村へ調査に出かけました.他の農村地域と同様にその地域も貧困放置農政のもとで,減反,出稼ぎ,等々……で若者がとても少なく,親たちも農業だけではやっていけないと不安がっていました.そして,その地域の住民との懇談会の最後に,「これからのわれわれの主な仕事は老人問題だな」といった老民生委員のことばがとても印象に残っています.このような地域の健康問題はいったいどこからどう手をつけたらよいのだろうか,と,あえいでいるところへ,学生の立場でよいからということで感想を依頼されましたので,簡単に述べます.
 まず最初に,大学と行政との関係に焦点を当てたとのことですが,主人公である住民がこの両者に対して何を期待しているのかが加わるとさらに良かったと思います.また座談会にも,医学者以外の公衆衛生従事者に加わってほしかったと思う.

田舎開業医のみた仁木氏の"保健婦教育の現状と展望"

著者: 津田順吉

ページ範囲:P.643 - P.643

 本誌6月号の特集「保健婦」も,またまた時を得たものと思った.何かしら戦後の教育がこの頃になって現われてきたと感じていたからだ.
 さて仁木氏(20数年前にお会いしたことがあるが)の論文についていくつかの思いつきを申しあげてみたい.

特集をふりかえる

隣接領域と一体となった活動—「保健婦と保健所長」(本誌6月号)

著者: 中島さつき

ページ範囲:P.603 - P.603

 戦後26年,新保健所法の発足以来23年の間保健所活動のなかで一番脚光を浴びているのは保健所長と保健婦だと思う.その座談会「保健婦と保健所長」の話をきいているうちに,非常にいい意見がたくさん出てきて,これからの保健所のあり方に対し,深く検討し実践していかねば地域組織のなかで浮上った存在となるのではないかと思った.
 地域の公衆衛生を推進する行政機関として,社会状勢の複雑化,多様化,深刻化に対応したプロセスをとらねばならない.公衆衛生の対象は地域の住民という集団であるが,その集団を形成する個人1人1人の健康の維持,疾病の予防,治療,後保護,社会復帰のための適切な指導,援助--このようなサービスの積み重ねが,保健所の職員の業務だと思っている.

トピックス

山村に飛び込んだ医師

ページ範囲:P.622 - P.622

「一筆啓上 リラックス,血圧,栄養要注意」
 過去10年間,京浜工業地帯で「出かせぎ農民の健康破壊」を告発してきた医師が,彼らの一方の生活現場である農村に腰をすえ,むしばまれる健康にメスを入れるため山形県の山村へ赴任していった.厚生省も農林省も互いに押しつけ合っている日陰の問題と取組むこの医師は,工場や建設飯場入りする出かせぎ群に自己健康管理法の"一筆"を残して山形へ.
 医師仲間からとかく敬遠されがちな山村入りしたのは,東京大田区東嶺町35の13,天明佳臣医師(39).赴任先は人口2万4千人のうち3千人が出かせぎに出る山形県西置賜郡白鷹町の町立病院.そこで2年以上はがんばるつもりだ.

基本情報

公衆衛生

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1170

印刷版ISSN 0368-5187

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