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雑誌目次

雑誌文献

公衆衛生35巻11号

1971年11月発行

雑誌目次

特集 重症心身障害

重症心身障害の基本的問題

著者: 大島一良

ページ範囲:P.648 - P.655

 昭和42年8月,児童福祉法の一部改正があって初めて,重症心身障害児施設は,福祉法による福祉施設として正式に認められたのであるが,その前,2年程は厚生次官通知により,福祉施設に準ずるものとして,補助を受けてきた.しかし,それ以前は,全く法の谷間として,苦難の道を歩かせられてきたのである.
 その一つは,乳児院からの出発である.すなわち,現島田療育園々長の小林博士のたどった道で,博士が,日赤乳児院長時代,現在重症心身障害児と称せられるような乳児を,乳児院で受け入れてきた.これらの乳児は次第にたまってきたが,引き取り手はなく,措置上にも問題になり,遂にたまりかねて,昭和32年5月の全国社会福祉大会にて,博士は重複欠陥児について,「児童福祉法によって措置されない矛盾について」と題して問題を提起した.これが社会に対する第一声となったのである.昭和33年4月,東京都社会福祉大会において,再びこの問題を提起し,同年6月の全国社会福祉大会で,東京都社協の提案として,「重複障害児の処遇とその対策について」と題して提出した.この年の大会では,富山県,滋賀県,石川県,千葉県などからも同様の提案があり,漸くその重要性が認識され,「全国的な重症心身障害児対策委員会の設置」が決議され,同年11月に委員会が設置された.ここで初めて「重症心身障害児」の表現が用いられ,表現が統一されたのである.

重症心身障害児療育の諸問題

著者: 江草安彦 ,   末光茂 ,   蒔田信一 ,   植田牧子

ページ範囲:P.656 - P.664

心身障害児対策のながれ
 わが国の心身障害児施設は,石井亮一による滝乃川学園(明治24年)および高木憲次による整肢療護園(大正14年)にはじまるが,その公的対策は戦後にまたねばならなかった.昭和22年学校教育法および児童福祉法,昭和24年身体障害者福祉法,昭和35年精神薄弱者福祉法などの制定ののちに,肢体不自由児施設,精神薄弱児施設,特殊学級,養護学校などが充実し,一応の成果をみた.
 しかし,その間重症障害児,重複障害児,幼若障害児などは,これらの施設から排除され,「谷間」にとりのこされてきたのが実情であった.昭和30年,これらの障害児の両親によって「両親の集い」が結成され,法的対策を求める運動が開始された.

「動く重障児」をめぐって

著者: 谷口憲郎

ページ範囲:P.665 - P.671

はじめに
 昭和44年1月,中央児童審議会総会は,厚生大臣に大要下記のように上申書を提出した.
 「重症心身障害児の周辺障害児対策について」現行の心身障害児の制度体系については,重症心身障害児,重度肢体不自由児および重度精神薄弱児など,それぞれの障害児に対する福祉施策が一応講じられているが,これら障害児の相互の境界線上に位置する障害児,たとえば,肢体不自由の程度は重度ではないが,精神薄弱の程度が重度でかつ異常行動がある児童,精神薄弱の程度は重度ではないが,精神病的な異常行動のある児ら,いわゆる「動く重症児」らの対策が,現実のニードに即応していない面がみられる(以下略)

重症心身障害児たちの道

著者: 大河内一郎

ページ範囲:P.672 - P.676

 最近重症心身障害児の福祉に関して社会の話題になってきたことは,遅きに失したとは言え,やっと重症心身障害児にも陽の目が当るようになったという感慨を覚える.
 「公衆衛生」誌の編集者から「重症心身障害児の実態の紹介」というテーマで依頼を受けたのですが,私はこれらの専門知識があまりなく,統計的資料も乏しいので,執筆に気乗りがしなかった.それでも小数の重症心身障害児の収容の経験をもとに感想を述べましょう.

重症心身障害と保健所のとりくみ

著者: 倉内道治 ,   川野光子 ,   井上明生 ,   両角正子 ,   加藤直樹 ,   江部高広 ,   山本征也 ,   坂井芳夫

ページ範囲:P.677 - P.681

 吹田保健所は大阪市の北東部に隣接する吹田市と摂津市を管内として,人口319,363名(昭45年)で一年間の出生数は8,078名(昭45年)に及んでいる.これは吹田市北部に造成された千里ニュータウンや大阪市のベッドタウンとしての位置にあるため出産年齡層の流入によるところが大きいものと思われる.このような地域の特性により保健所の業務も母子保健事業に重点が置かれている.また年々増加する保健所事業の中にあって母子保健活動をどのような体系のもとで展開していくか大きな課題となった.
 たまたま保健婦の地域活動を通じて心身障害児を持つ親の訴えから,昭和41年度夏より保健婦業務として心身障害児の問題にとりくみ,その結果手始めに管内の在宅心身障害児の実態を把握する必要を痛感し昭和42年2月,3月と保健婦による在宅障害児の家庭訪問による実態調査を実施した.

わが国における重症心身障害児対策

著者: 佃篤彦

ページ範囲:P.682 - P.685

重症心身障害児の定義
 児童福祉法は重症心身障害児施設を「重度の精神薄弱および重度の肢体不自由が重複している児童を入所させて,これを保護するとともに,治療および日常生活の指導をすることを目的とする施設」として規定している.ここで,重度の意味が問題になるが,重度精神薄弱児については昭和39年3月に出された厚生事務次官通知「重度精神薄弱児収容棟の設置について」に,また重度肢体不自由児については,昭和39年9月の厚生省児童家庭局長通知「肢体不自由児施設重度棟の設備および運営の基準について」に示されている重度棟対象児童の規定が参考になる.
 これによると,重度精神薄弱児とは,知能指数がおおむね35以下で食事,着脱衣,排便および洗面などの日常生活の介助を必要とし,社会生活への適応が著しく困難であるか,頻繁なてんかん様発作または失禁,異食,興奮,寡動その他の問題行動を有し,監護を必要とするものとなっており,一方,重度肢体不自由児とは,各種補装具を用いても,身体の移動が困難なもの,もしくは,機能障害が重度であって,食事,洗面,排泄および衣服の着脱などの日常生活動作の大部分に介助を必要とする肢体不自由児となっている.

重症心身障害に対する行政の役割と制度の変遷

著者: 北野博一

ページ範囲:P.686 - P.689

はじめに
 必身障害児(者)に対する福祉行政は最近めざましい進展をみせておるが,特に重症心身障害対策は大きく浮き彫りにされて,永年この道で苦労してきた人たちにとっては全く感慨無量であるに違いない.しかし一般社会情勢も急角度の上昇ぶりで,それに比べれば,未だしの感が強く,不満も出てくる.
 昭和38年2月発行の厚生白書では,「いわゆる『重症心身障害児』の問題がある.これは障害がきわめて重度であり,また2種以上の障害が重複しており,現行の児童福祉施設への収容は実際上不可能である.現在は民間団体において収容療育の方法を研究中であるが,能力開発がとうてい期待しえないこれらの児童に対しては手厚い保護をよりいっそう強化すべきであろう」と行政のおくれを自認しているが,45年12月発行の同書45年版では,「昭和38年から予算措置により重症心身障害児施設に収容して療育が行なわれてきたが,昭和42年8月の児童福祉法の一部改正により,重症心身障害児施設は児童福祉施設として制度化され,社会のニードとあいまって施設の整備は急速にすすめられ……」と書き改められ,計67か所,5,503床の施設整備と在宅障害児対策としての特別児童扶養手当の支給,家庭奉仕員の派遣,特殊寝台の貸与などとともに,心身障害者対策基本法(45.5.21公布)のことにも言及している.

発言あり

胎児公害

著者: ,   ,   ,   ,  

ページ範囲:P.645 - P.647

明日ではおそすぎる
 授乳中の母親が心配事を抱え,いつも心理的にいためつけられていると,自分自身が下痢をおこすばかりでなく,乳児までも緑便をしたりするという事実は,あまりにもよく知られている.
 2つの別々の個体の間でも,授乳を通してこれほど密接に関連しているのであるから,子供が母胎内にある時期,すなわち妊娠中では,さらに深く緊密なつながりのあることは想像に難くない.流早死産の原因が,単純に,生理的理由だけでないことも解明されるし,遺伝の関係もその1つである.ところが,今日なお十分解明されていないものに奇形児がある.まったくその原因は先天的なものなのであるから,胎内時期の何か以外には考えられないのであるが,何がどう作用して,という,因果関係についてが,医学的にも,遺伝学的にも解明されない現状なのである.

講座

社会福祉論—第3回 社会福祉の理念とその具体化—社会福祉技術をめぐって

著者: 阪上裕子 ,   深沢道子

ページ範囲:P.695 - P.698

輸入された社会福祉技術
 戦後の日本の社会福祉はいろいろの意味で輸入文化としての性格をそなえているように思われる.そしてそのために生じる多くの問題点や歪みが社会福祉事業の各所にみられ,国民も社会福祉関係者もともに多くの悩みや苦しみに直面しているともいえよう.
 たとえばケースワークということばについて考えてみよう.このことばを例にとりあげるのは主として二つの理由がある.ひとつは,戦後の社会福祉教育そして実践において,ケースワークが社会福祉技術の中心をなすものとして重視されてきたため,社会福祉技術に関する諸問題がケースワークをめぐってもっともよくあらわれ,また語られてきたと考えられるからである.いまひとつの理由は,保健所その他の保健医療分野ではケースワーカーなることばがいわば社会福祉職員の総称として定着していると思えるからである.

研究

高校,大学生の肥満意識に関する研究

著者: 園田真人

ページ範囲:P.699 - P.702

はじめに
 栄養学的あるいは身体計測学的に肥満度を決定することは,古くから考えられ,皮下脂肪厚の計測,身長と体重を組合わせたRohrer,Kaup指数などがあるが,それぞれ長所がある.
 大体において,日本人の標準体重を中心として,10%以内を正常とし,10〜20%までを肥りすぎ(overweight),20%以上を肥満(obesity)とする判定方法が実際的であり妥当と考えられている.

わが国衛生工学の恩人W.K.バルトンのこと—明治水道史余聞

著者: 武内博

ページ範囲:P.703 - P.705

 わが国最初の衛生工学の講義は1887年東京帝国大学工科大学においてイギリス人William Kinnimond Burton(1856〜1899)によって行なわれた.彼は1887年8月に来日してから1896年までの9年間工科大学に在職し主として上下水道関係の講義を週5時問行なったといわれている.
 バルトンの招聘に当っては内務省衛生局長であった長与専斎と工科大学長古市公威の尽力によるところが大であった.1884年内務書記官の永井久一郎(作家の永井荷風の父)はロンドンで開催された万国衛生博覧会に日本政府代表として出席し,ついでヨーロッパ各地の衛生事情を詳しく視察した.永井はロンドン滞在中バルトンと知り合い帰国するや上司の衛生局長長与専斎に彼の招聘方を進言した.こうしてわが国最初の衛生工学の教師としてバルトンの上に白羽の矢が立ち1887年8月来日の運びとなり工科大学の講座新設に伴ない講師に就任した.この間の事情について長与専斎は次のように述べている.

人にみる公衆衛生の歴史・8

石原 修(1885〜1947)—結核の社会医学的解明

著者: 川上武 ,   上林茂暢

ページ範囲:P.690 - P.691

 日本の衛生学が国民にこたえた最初の業績は「女工と結核」である.われわれは,このことを2つの側面より明らかにすることができる.まず,国民病・社会病といわれ,国民がなによりも解明をのぞんでいた結核をとりあげたことにあった.第2に,伝染病としてのみあつかわれてきた結核にたいして,工場と農村における労働と生活の場よりせまっていった方法上のユニークさが認められる.
 これらの点こそ,衛生学の基本と考えざるをえない.また,「女工と結核」がオリジナリテイをもった日本医学の数少ない業績の1つとされる所以でもある.労働災害・職業病・公害病が増加しているのみならず,一般病としての性格をおびてきた今日,衛生学はあらためて,このような方法を確認する必要があるのではないだろうか.

根をおろす医師会活動

東京都・渋谷区医師会

著者: 村瀬敏郎

ページ範囲:P.692 - P.692

 従来,地区医師会の公衆衛生活動は,地域社会に対する奉仕という形で行なわれ,サイドワークの観があった.保険医療における低医療費政策がそういう形を余儀なくしていたともいえよう.しかし,医学の進歩と,それによって変革されつつある医療供給の合理化によって,公衆衛生活動は診療所における日常治療医学とともに,われわれの医療活動の車の両輪となりつつある.渋谷区医師会ではこうした認識の上に,予防接種,公害検診,学校保健,乳幼児検診,成人病および老人保健など公衆衛生活動の充実に努力しているが,特にユニークな機関として予防接種センターの運営についてご紹介しよう.

教室めぐり・28 東京慈恵医大公衆衛生学教室

ガンの実験疫学をめざして

著者: 竹村望

ページ範囲:P.693 - P.693

 昭和21年文部省は,各大学医学部に公衆衛生学講座を設置する方針を決めたが,当教室も全国の医科大学に卒先して公衆衛生学講座を新設することになり,当時厚生技宮の山岸精実博士を初代教授に迎えて本邦最初の独立した公衆衛生学教室が昭和22年2月に誕生した.
 教室開設当時は法医学教室の一室を借用し,実験設備もなかったのでもっぱら計算器を用いて伝染病疫学に関する統計学的研究が行なわれた.これは山岸教授が伝研時代に行なっていた研究の発展で,わが国の伝染病流行の趨勢変化についての研究が行なわれた.昭和23年10月に解剖学教室の一部をゆずりうけて現在の教室に移った.その後,山岸教授のもとで伝染病の疫学統計のほかに,成入病に関する疫学統計の研究とさらに産業医学に関する研究,とくに珪肺や鉛中毒に関する研究も行なわれた.

私たちの保健所・33 山形県・南陽保健所

組織活動を中心とした保健所活動のあゆみ

著者: 音山幸子

ページ範囲:P.694 - P.694

地域の概況
 当保健所は,山形県南部置賜盆地の東北に位置し,東に蔵王,南に吾妻山,西に遠く飯豊山を望み,米のほか,ぶどう,ナシなどの果樹を主産とする農村地帯である.管内には正和元年659年前より開かれたという有名な赤湯温泉がある.
 管内は市町村合併により現在は南陽市,高島町の一市一町を管轄しており人口65,031人(45年国勢調査)である.年齢別人口の推移をみると50〜54歳台を軸とし,50歳以下は年々減少しているのに反し,55歳以上は増加の傾向にある.したがって,中枢神経系の血管捐傷および胃がんなど悪性新生物による死亡が高率であることが大きな問題点である.

厚生だより

精神病院の一断面—昭和44年精神病院実態調査報告より

著者:

ページ範囲:P.706 - P.707

はじめに
 昭和30年代に全盛を極めた精神科特殊薬物による治療方法も,昭和40年代に入り多少の反省とともにその方法論も細密化し,特に他療法との組合せによる多面的なアプローチが行なわれつつあるといえる.
 精神衛生の問題を広くとらえることの重要性はいうまでもないが,この中核となるものは精神障害者の治療の問題であるし,この治療を主として担当している精神病院の問題であるといえる.

トピックス

東京「腎炎・ネフロゼー児」を守る会発足

ページ範囲:P.664 - P.664

 東京「腎炎・ネフローゼ児」を守る会の創立総会がさる9月20日,東京向島の向島公会堂で開かれた.この会は大阪,姫路の腎炎・ネフローゼ児を守る会につづいて東京でも創立しようと,東京都立墨東病院に入院中の腎炎ネフローゼ児をもつ人たちが中心となり設立の準備が進められてきた.
 創立総会では会の結成までの経過報告が行なわれたあと①医療費の全額国庫負担②特定病院の設置(小児腎・ネフローゼセンターの設置)③ネフローゼ児に教育の機会を与える(院内特殊学級の増設)④児童・生徒の完全尿検査の実施などこれからの運動方針を決め,役員を選出した.

基本情報

公衆衛生

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1170

印刷版ISSN 0368-5187

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