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雑誌目次

雑誌文献

公衆衛生38巻10号

1974年10月発行

雑誌目次

特集 親子 現代親子論

父性と母性の社会心理

著者: 岡堂哲雄

ページ範囲:P.516 - P.521

親と子の接点
 親と子の関係は,あらゆる人間関係の基盤である.生物的なつながりとしての親と子は普遍的である.しかし心理的社会的な親子関係には時代的地域的なちがいが見られる.親の子に対する養護やしつけ方をみると,ひとつの社会でも大きな変動がある.たとえば,親と子の社会的地位(身分)の規定は,終戦を境にして変化してきたのは周知のとおりである.しつけ方も伝統的な方法から,いわゆる合理的な方向へと変ったことはしばしば指摘されている.この変化は,親と子それぞれに対する社会の期待が変化したことによって生じたものである.
 わが国においては,かつて子どもは神から授かるものであり,生れた子どもは超自然的な力の加護をえて,はじめて育つと考えられていた.しかも子どもを育てる超自然的な力は,親だけでなく,子どもを取りまく社会の人びとを通じて現われるとされた.その行為としての教育こそ,子どもを成長させ,社会の一員としていく「しつけ」であった

心理学的事例から

著者: 権平俊子

ページ範囲:P.522 - P.527

 コイン・ロッカーに乳児の死体が入れられていた.子どもを自動車の中にねかせておき,両親が水泳をしている間に,子どもが死んでいたなど,親が子どもに対して無責任な行動をとって,子どもの命を奪ったような事件が新聞に毎日のように出ている.最近の親は,子どもに対して責任をもたなくなった.親子の情がうすれてきたとなげき,どうにかしなければという識者の声をよく聞く,著者も,こうした事件を聞くにつけ,親がわが子を育てるという当然に思われる行為がうまくいかず,いろいろな問題を起こすということを考えて,なげき,その問題をうまく解決して,親子の幸福を願うひとりではあるが,臨床心理学を専攻していろいろ情緒的に問題をもつ子どもの相談を行なってきた経験から,そう簡単に片づけることのできる問題ではないと思っている.
 親子の問題は,一家庭におけるだけのこととして,簡単に解決できるものではなく,その時代の社会の影響を強く受けていることが多い.

公衆衛生の視野から

著者: 山下章

ページ範囲:P.528 - P.537

 親子に焦点をあてて,できるだけ広く,公衆衛生的な眼で眺めてみることにする.

親子の愛

著者: 宮崎礼子

ページ範囲:P.538 - P.539

1
 現代の親子をとりあげる前に,「親子間のおもい」に関して昔からいわれているものを「ことわざ」からみよう.それらは親子のあいだにおけるおもいのいつに変らぬ姿であろうし,民衆のおかれていた社会的経済的強制から歪められたものでもある.ことわざ4千の中から探したが思っていたより多くなかった.
 可愛い! とにかくわが子は可愛いという親のおもい"鈍な子は可愛い""片端な子ほど可愛い""死んだ子に阿呆はない""自分の子には目口が明かぬ""這えば立て立てば歩めの親心"この親のおぼれぶり,子の甘えぶりに対して"可愛い子には旅をさせよ"と忠告されるわけだろう.親の子への情愛は掌中の玉(珠)としていつくしむ"子に過ぎたる宝なし""三人子持は笑うて暮す""死なぬ子三人皆孝行"ところが宝にはちがいないが,子どもを育てるのは苦労だとして"子をもてば七十五度泣く"いっそそんな苦労は子どもさえなければしないで済むではないかといえば,そうでもなくて"ない子では泣かれぬ"と泣くことさえも羨ましく思う人もいる.泣いて苦労しても育てれば"泣いて育てて笑うてかかれ"と老後は子どもにかかれるという家制度老後保障の意味がこめられている.それにしても"生みの親より育ての親""生んだ子より抱いた子"と子をはぐくむことが心を豊かにしていく訳で,だからこそ"父母の恩は山よりも高く海よりも深し"と形容される.

親子の断絶

著者: 柏熊岬二

ページ範囲:P.540 - P.541

1
 人は断絶という言葉からどのような状況を想像するであろうか.苦虫をかみつぶしたような父.おろおろする母.ふてくされたような子.親と子の間には対話がなく,感情も行き違い,価値観も衝突している.両者の間には抜きがたい不信があり,心の交流が失われている.
 多分,これに近い状況が念頭をかすめることと思う.断絶を文字通り解釈すれば,親子の関係が断ち切られることであるから,それは越すことのできない谷間,埋めることのできない裂けめを意味するといってよいだろう.

未婚の母—その孤独な背景

著者: 阪上裕子

ページ範囲:P.542 - P.543

 スエーデンでは未婚の母が多く,生れてくる子どものうち3人に1人は未婚の母の子どもであるとのことである.母性保護や育児が社会化され,未婚者も既婚者も同じように利用できるとのことである.いわゆる「未婚の母」コンプレックスも感じられないという.ひとりの女性が母となるために必要な配慮が社会制度として十分に整えられていれば,「母」であることが「既婚」とか「未婚」つまり婚姻制度上の位置づけによって規制されないという訳だろう.
 いまの日本ではとてもスエーデンのような工合にはいかない.日本ではまだ未婚の母は社会からの支援と承認を受けることなく,独力のみで母とならざるをえない.その心の中では多くの悲しく淋しい努力がおこなわれており,そのために外見的にはあるいは虚勢とみえ,あるいは反社会的な姿勢とみえ,あるいは経済的文化的水準の低いおろかな女性とみえる.そしてひとびとは未婚の母に対して反感,嫌悪,軽蔑,憐憫などの好ましからざる感情を抱くことが多いようである.

片親

著者: 樋口恵子

ページ範囲:P.544 - P.545

 娘が4歳のときから片親稼業を始めてことしでちようど11年.片親であることはもうすっかり板について少しも違和感を感じなくなった.今さらもう1人の親に出てこられても,親子ともどもとまどうに違いない.でも,こんなことが言えるまでには,こちらとしても10年以上の年季がはいっているのであって,片親になって数年間は,ずいぶん「片親なるがゆえの問題点があるのではないか」と気を遣ったものだった.娘に対して「片親だからと言われぬように」などという馬鹿馬鹿しい小言は一度も言った記憶はないが,私のいささかの気負いや気遣いは,子どもに十分伝わっていたらしい.先年,長らく住みなれたマンションを出て一戸建ての家に移ったときに,娘は問われもしないのにこんな感想を口走ったものである.
 「これでやっと安心したわ.わたしはパパが居ないのはなんとも思ったことないけれど,家がふつうの家じゃないっていうのは,ほんとはイヤだったんだ」

捨て子,子殺し

著者: 村松博雄

ページ範囲:P.546 - P.547

1
 いつの時代でも捨て子,子殺しはあった.あるひとつの村が飢饉に陥っている時,村の長は,そこに産まれてくる新生児の生存権を一手に握っていたとも考えられる.古代ローマにおいては,その族長の権利は,食糧の不足とは全く関係なしに行使されたとさえいわれている.
 更に時代をさかのぼり,ギリシャ時代ともなると,捨て子,子殺しは人種優先の思想にうらづけられていた.病弱な子どもは,新生児の時期をすぎさっても遺棄される宿命にあった.

鍵っ子

著者: 高橋種昭

ページ範囲:P.548 - P.549

 最近では家事以外の労働に従事する母親の数は年と共に増え,団地でも農村でも,朝になると職場に急ぐ主婦の姿がみられる.所によっては送迎バスが朝夕地域まで入りこみ,そうした主婦達の送迎に従事している.このように家庭の主婦で家事以外の労働に従事するものが増えてきたということは,それだけの数の家庭で,子ども達が母親の手から離れた生活を余儀なくさせられているわけである.もちろん,そうした子どもの中には,母親の手から離れても祖父母に面倒をみてもらったり,保育所で充実した生活を送っている子どももいるが,中には誰からも保護されず,いわゆる鍵っ子として放置された状態におかれている不幸な子どもも当然いるわけである.特に幼児と違い,保育所で保育されることのない学童に,こうした鍵っ子が多数生れている.

過保護

著者: 平井信義

ページ範囲:P.550 - P.551

 過保護とは,保護の過剰である.過剰というからには,一定の保護の必要量があって,それ以上に保護が行われた場合を言うことになる.そうなると,保護の必要量をはっきりさせておかなければならない.幸い,子どもの生活習慣の形成については,年齢別の状態が示されている.すなわち,衣・食・睡眠・衛生上の習慣などについて,1歳ではどの程度か,3歳ではどうか--などが示されており,普通の子どもであれば,5〜6歳になればほとんどの生活習慣が形成され,子どにまかせることができる.それらの形成の状態より遅れを示す子どもの場合,とくに母親やその他の家族に依存している傾向が認められると,過保護ではないかと疑われることになる.
 過保護とは,どのような態度を指して言われるのであろうか.大別すると,2つになる.ひとつは,子どもの自発的な行動に先がけて,手を貸す養育態度である.例えば,上衣を着ようとしている子どもに対し,子どもにまかせておいても独りでできるのに,手を貸して着せてしまう態度である.従って,そこには,子どもの能力に対する信頼感がない.子どもにまかせられないという心の動きがある.赤ちゃん扱いにしているのであって,強い言い方をすれば,子どもをバカにしている態度と言うことになる.

老人との同居—老人社会医学的側面から

著者: 田中多聞

ページ範囲:P.552 - P.553

 同居を考える いま,老人たちは経済,配偶者との離別,病気などをひどく恐れている.これらは,老年期に特有な生活変化からくるものである.これら老人の三敵は,洋の東西を問わず共通したものである.大社会は三敵にいろんな取り組み方をしている.老年学(ジェロントロジー)をしっかりした基盤に持つ先進国では.経済給付を最優先→老人中心の心情的ケア→コミュニティ,ホームでのケアへの道のりを着実に歩んでいる.私たちの社会では,基本的理論と哲学が極めて曖味なうえに急速度に福祉対策を突き上げられたため,肝心の老人への心情的ケア,ホーム,コミュニティ内での老人ケアを切り捨て老人を無理やりに施設(病院,老人ホーム)に収容する対症療法を行なっている.しかしながら老男はサービス扶養(身の囲りなどの)をもっとも強く望み,老女は経済的扶養を求めている.しかも老男,老女とも家で生き続けたいと望んでいるのである.

呪縛を—障害者(児)と親

著者: 横田弘

ページ範囲:P.554 - P.555

 1972年の10月,東京・北区で37歳になる重度脳性マヒ者が老父に絞め殺されるという事件があった.
 朝日新聞の社説を始めとした多くのマスコミは「かわいそうな老父を救え」というキャンペーンを大々的に行ない,「障害者」の生存を根底から否定する「健全者」の論理を露呈していったが,その時の記事に「重症心身障害児を守る会」副会長北浦雅子さんの発言として次のような言葉が載せられている.

発言あり

親子

ページ範囲:P.513 - P.515

血縁だけが絆か
 「もらい子を,心をこめて育てても,大きくなって自分が実子でないことを知ったら,どんなに深い傷を受けるだろう」,「なんとか,もらい子であることを,一生気づかせずにすむ方法はないだろうか,私たち親は,実の子と思っていつくしみ育てるのだから」,「近所にも,ようやく妊娠したと触れまわり,毎月すこしずつ下腹をふくらませ,いよいよ臨月と称して実家に帰り,そうしてこの子をえて帰ってきたのです,いまさら,もらい子だなんていえますか,第一,子どもが可愛想ですよ」,「それでも戸籍の上に,どうしても残ってしまうのだ.どんなにかくしても,何かの機会に戸籍を見ることがあったら,一切の努力も消えてしまう」,「いっそのこと,戸籍そのものを,実子と記載できるように,工夫すればいいのよ」「だけどそれは違法でしょう」,「なにいってんのよ,法律は人は生かすためにあるのよ」,「もらわれた子,育てた親,みんなしあわせになるのだから,法律を変えるのが本当だ」,「そうよ,養子でも実子とできるようにすればいいのよ」.
 以上のいくつかの会話的短文の,共通の底流をなしている論点はなにか.第一に,もらい子は不幸であるという不動の前提がある.おそらく,このような会話をかわす人ほど,「あの子,もらい子だってね」,「奥さん,二度目らしいわよ」,「だから下の子は連れ子よ」,「ほら,お父さんに全然似てないでしょ」などの詮索に熱中するのであろう.

シンポジウム

内陸部へき地の保健医療の実態と対策—群馬県を中心として

著者: 第5回日本僻地保健医療研究会

ページ範囲:P.559 - P.564

司会(辻達彦・群馬大学公衆衛生学)のことば
 いままでの研究会の傾向を省みると,高いレベルからの"わが国のへき地保健医療はどうあるべきか"といった高踏的な論議がかわされて来た.しかしながら,それは,しばしばデッド・ロックに乗り上げ,結論ないし名案は得られないで終るという批判もないではなかった.
 第5回研究会を群馬で開催する企画がもたらされ,標題のごときテーマで,副題として「とくに群馬県を中心として」のシンポジウムをとりあげた.

研究

疫学的立場からみた胃癌の早期診断をめぐる諸問題

著者: 川井啓市 ,   阿部達生 ,   三崎文夫 ,   中島正継 ,   宮岡孝幸 ,   山口希 ,   木本邦彦 ,   池原英夫 ,   林恭平 ,   田中多恵子 ,   佐々木善二 ,   福本圭志 ,   田原直広 ,   赤坂裕三 ,   村上健二 ,   青木信雄 ,   森靖夫 ,   金英一 ,   奥田順一 ,   島本和彦 ,   増田正典 ,   郡大裕

ページ範囲:P.565 - P.570

 胃癌の早期診断に関するX線的な,または内視鏡的な方法論についてはすでに確立され1)〜7),臨床的には所謂,ほぼ完治を期待できる意味からも,早期胃癌の概念が本邦のみならず,諸外国でも8)受け入れられて来た.
 この胃癌の早期の粘膜所見については肉眼病理学的に隆起型・平坦型・陥凹型が区別されるが,これら「早期胃癌」が所謂進行胃癌の早期のものであろうことについては,胃癌の逆追跡の立場から,また誤診例,手術拒否例の検討からほぼ解決されるに至った9)〜13)

蛋白尿・腎疾患の健康管理—九州大学保健管理センターでの蛋白尿スクリーニング・管理システムとその5年間の成績を中心として

著者: 高杉昌幸 ,   武谷溶 ,   宇都宮弘子 ,   堺玉子 ,   森田ケイ ,   西山スガ ,   井上幹夫 ,   上松弘明 ,   寺田栄男

ページ範囲:P.571 - P.575

 近年,職場のみならず学校においても健康管理に力が注がれ,定期健康診断時に検尿が広くおこなわれるようになった.このような集団検尿による蛋白尿・腎疾患のスクリーニング法や実施上の問題点,事後措置などについて,われわれは先に本誌に九州大学保健管理センターでの方法を報告しだ1)が,最近定健成績の処理などにコンピュータが導入され,保健管理業務の能率化とともに,その内容をシステム化して明確にとらえることが必要となってきた.
 ことに内科的腎疾患には慢性に経過するものが多く,長期の経過観察・健康管理を必要とする対象が多いために,スクリーニング・管理システムを長期維持することが必要となってくる.この目的のためには一定の方法を毎年続けて,年毎の大幅な変更を避けた方がよいので,スクリーニング法・管理システムそのものも問題となってくる.

保健所・46

北海道名寄保健所—市町村・団体との連携のもとに

著者: 厚谷純吉

ページ範囲:P.557 - P.557

概況
 名寄保健所は,北海道の北部に位置し,北海道でも有数な寒冷・積雪地帯の1市4町1村を管括区域とするL4型の保健所である.管内人口は74,450名(45年国調)面積2,726平方キロで,保健所よりもっとも遠い町の役場所在地まで約90キロもある.広大な地域をかかえている.
 管内の産業は,農業・林業が中心で,他には銅鉱山1カ所,製紙工場1カ所ぐらいが大きな産業である.必然当所管内も人口は減少しており,1町1村では40年から45年にかけて,4分の1以上の人口減少がみられている.

医師会

千葉県柏地区医師会—ドーナツ圏の地域医療活動

著者: 野崎恭勝

ページ範囲:P.558 - P.558

 既存の都市を中心として,その周囲に住宅地域がドーナツ状に拡大されている現象は何処も同じであるが,東京を中心としたそのドーナツは巨大な怪獣の様にその周辺にあった古い小都市をそのまま鵜飲みにして益々拡大を続けている.しかもその拡大膨張の方法が極めて急速且つ無計画の上に進められているために,その中に包含されている市,町の自治体は種々の困難な事象に当面している.
 私達,その巨大なドーナッツの中に,あるいは居を構え,そして職場としての診療所を開設しているものは,勢い好むと好まざるとに拘らずその地方都市の不備を補う役にまわる事になるのである.裏を返せば私共医師会員の協力と献身的な努力がなければ,現在,これらの地域の医療行政は全てその日から機能を失うことになるのである.そのために,私共は時として自らの仕事を放擲してまで,これらの仕事に協力しているのである.

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第23回総合医学賞入賞論文

ページ範囲:P.556 - P.556

 第23回総合医学賞論文が別記14論文に決定した。総合医学賞論文は1949年に第1回入賞論文を選定していらい優秀原著の顕彰の役割をはたし,受賞者の中から第1回の東大内薗耕二教授を初めすぐれた学者や臨床家を輩出して今日に及んだ。今回選定された14論文は昨年中に発行された小社の全雑誌中から,それぞれ各誌1篇の最優秀原著を慎重審査の結果選定したもので,各論文に対し賞牌・賞状・賞金10万円,および副賞が贈られる。
 入賞論文のなかには英文雑誌「Japanese Journal of Microbiology」から選ばれた英文論文も含まれている。まだ外国人学者の寄稿者からの入賞論文は出ていないが,今後の国際的な学術文化交流の趨勢の裡では,そのような可能性もはらまれているわけである。今後もこの賞の優秀論文の寄与によつて研究の進展が期待される。

基本情報

公衆衛生

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1170

印刷版ISSN 0368-5187

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