文献詳細
追悼
文献概要
3月8日(火)午後,豊川先生が午前10時過ぎに急逝されたとのお報せを受けて凝然とした.先生は一昨年来,産業医科大学学長予定者として,産業医大設立財団の理事に就いておられ,大変御苦労をなさっていたことや,昨年がん研病院で手術を受けてから駒込病院で受療していたことは承知していたものの,こんなに早く亡くなるとは夢にも考えていなかった.その後,聞くところによると,腹水が溜り苦しくなったので前日再入院されたが,心臓発作で急逝されたとのことである.
先生との出合いは,筆者が東大医学部衛生学教室に入った昭和19年のことである.当時はまだ兼任講師として,週に何回か夕方になって研究室にお見えになり,研究室のS先生やH先生と研究上のことばかりでなく,色色と懇談されていたことを覚えている.やがて終戦を迎えると,本務の技術院を辞めて専任講師として毎日出仕されるようになった.当時,医学部長や伝染病研究所長として,忙しい日を送っておられた主任教授の田宮猛雄先生を補佐しておられ,進駐米軍との折衝などについてもよく教室に意見を具申しておられたようである.田宮教授が定年退官され,羽里彦左衛門教授が着任されてからも,よく教授を援けて教室の教育研究を指導する傍,ラジオドクターや日本医師会の仕事を引受けて対社会的活動にも参加されるようになった.
先生との出合いは,筆者が東大医学部衛生学教室に入った昭和19年のことである.当時はまだ兼任講師として,週に何回か夕方になって研究室にお見えになり,研究室のS先生やH先生と研究上のことばかりでなく,色色と懇談されていたことを覚えている.やがて終戦を迎えると,本務の技術院を辞めて専任講師として毎日出仕されるようになった.当時,医学部長や伝染病研究所長として,忙しい日を送っておられた主任教授の田宮猛雄先生を補佐しておられ,進駐米軍との折衝などについてもよく教室に意見を具申しておられたようである.田宮教授が定年退官され,羽里彦左衛門教授が着任されてからも,よく教授を援けて教室の教育研究を指導する傍,ラジオドクターや日本医師会の仕事を引受けて対社会的活動にも参加されるようになった.
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