icon fsr

雑誌目次

雑誌文献

公衆衛生41巻8号

1977年08月発行

雑誌目次

特集 戦後30年の公衆衛生と私

健康にかかわる社会的側面を追って

著者: 相澤龍

ページ範囲:P.534 - P.535

 主題は「戦後30年の公衆衛生と私」であるが,少しく戦前の私の研究歴にふれる.私が衛生学(公衆衛生学講座の開設は戦後)を志して戸田正三先生の門を訪れたのは,京大卒業の秋(昭12)であった.当時の衛生学教室では全国的規模で国民の衣住生活の実態調査が始められていて,住宅問題が私の研究の最初の歩みとなった,目標の一つは,住居衛生学的にみた日本住宅の特質を地域別,したがって気候帯別に比較検討すること,他方では地域別(都市農漁村別),生活程度別に就寝密度,居住密度の実態の解明,そこから住居の広さの適正基準を求めることにあった.そして昭和14年の夏と冬には北支の住宅調査となり,中国大陸の気候風土とそこでの住生活の実態を学ぶことになった.しかし昭和15年春の応召入隊で,私の研究生活は中断を余儀なくされた.

30年の軌跡

著者: 安倍三史

ページ範囲:P.536 - P.537

■中国医科大学に公衆衛生学部を創設--
 私の30年は,中国の5年(1948〜52)と日本の25年(1953〜77)から成り立つ.前の5年は後の25年に大きく影響した.ソ軍から中国側に引き渡された私は,中国医科大学(旧満州医科大学)に公衆衛生学部を創設させられた.前からの私の夢でもあったので積極的に行動した.構成は疫学,環境衛生,栄養,母子衛生,学童保健,労働衛生,農村衛生,衛生教育の8講座だった.36名の教員(日本人・中国人)は専科(公衆衛生200名)と副科(臨床各科800名)の教育に追われて,研究どころではなかった.環境衛生は,三浦運一教授の残した機器・標本・図書を利用した.小松富三男,永田捷一の名のノートもあった.私は労働衛生を担当し,教務長を兼ねた.教学の思想は「予防を先とし治療を後とする,そのためにもソ連医学を学べ」ということであった.ソ連から公衆衛生の専門家が6名きたが,学生と教員との激しい対論に抗しきれずに,いつか消えた.鞍山製鉄所,撫順炭鉱,大連工場の臨地訓練に油汗を流したが,私の人生にとって大きなプラスとなった.思想が悪いとレッテルを貼られた私だったが,毛沢東の『実践論』と『矛盾論』には心を惹かれた.「調査なくして発言なし,対案なくして反対なし,行動なくして理論なし」の文句は,今も頭に残っている.魚には海が見えないように,日本にいて日本が見えなかった私にも,12年の辛酸の中で日本を見る目ができた.

医学教育を通して

著者: 北博正

ページ範囲:P.538 - P.539

■はじめに
 戦後30年間のわが国の公衆衛生の発展を医学教育の面から回顧するとなると,最も重要なことは,医学教育に,従来の衛生学講座に加えて,公衆衛生学講座が新設されたことであろう.
 しかし,医師を養成するのに衛生学講座一つでは不十分で,第2講座増設が必要であるとの意見は,すでに大正末期から昭和の初期にかけて東大医学部から出されており,最近話題になっている国崎定洞氏が教授候補者とされていたが,思想問題がからんで実現せず,講座名が「社会」衛生学となっていたため,当局ににらまれ実現しなかった.

研究と実践と教育と

著者: 清水寛

ページ範囲:P.540 - P.542

■はじめに
 昭和7年に大塚健康相談所で結核予防の仕事に入ってから,北海道・東京と舞台は変わっても,私は結核の研究・予防・治療・教育・行政といういろんな角度から,ひと筋に結核と戦ってきた.
 35年に欧州諸国を歴訪して以来,公衆衛生の他の分野にも関心を抱き,次第に乳幼児保健や要員の教育に力を注ぐようになった.

『わが公衆衛生,あゆみのメモ』をめぐって

著者: 須川豊

ページ範囲:P.544 - P.545

■『あゆみのメモ』の思い出
 表題の執筆を依頼されて,今さらながら感慨無量,ふりかえってみて何を書こうかと迷うばかりである.
 数年前の年末休み,年齢を考え,今までの仕事を整理しておこうと思いついて,書いたものなどの目録をつくりはじめた.これが,あとになって保健文化賞に推せんされた時の資料になったのは,全くの偶然であった.そのおかげで,この資料を整理して『わが公衆衛生,あゆみのメモ』が印刷できたのである.

"社会衛生学"を求めて

著者: 西尾雅七

ページ範囲:P.546 - P.547

■公衆衛生との出会いから--
 私と公衆衛生の係わり合いは,昭和10年3月京都帝国大学医学部を卒業し,衛生学教室(戸田正三教授)にはいった時に始まります.しかし2年後には日支事変が勃発し,最初の充員召集にひっかかり,中国大陸の各地を転戦して,昭和14年8月に復員しました.ところが昭和16年7月に2度目の召集をうけ,昭和18年暮,大学要員として召集解除されるまで内地で勤務しました.したがって,この間実験室での研究を中断しながら続けていました.復員後は,敗戦前後の極端な物資不足の中での生活でしたから,到底実験室で研究などできる状況ではありませんでした.そして,何をすべきか考えあぐんでいた時に,幸い戸田先生が日本学術研究会議(日本学術振興会の後身)の会議員で,栄養能率委員会の委員長として戦時下の国民栄養の諸問題に取り組まれていた関係で,同委員会の幹事をおおせつかりました.そして,混乱した列車で敗戦後まで,月に1,2回京都と東京を往復することになりましたが,幹事としての仕事は委員会で決定された戦時下の日本人の性別・年齢別・職業別栄養所要量(熱量と蛋白質量)を用いて,日本人1人1日当たり栄養所要量を計算し,さらに戦争が継続されるとして,昭和21年度の日本国民の必要とする食糧(米,麦,いも,大豆および蔬菜等)を算出することでした.

"宇部方式"の生みの親として

著者: 野瀬善勝

ページ範囲:P.548 - P.549

■はじめに--
 終戦直後の国民は,極度に疲弊し,名実ともに疾病と貧困に悩まされていた.これの回復,保全は並大抵のことではなかった.日本医事界は果たしてこれに応え得る用意があったかどうか,疑問である.
 (1)GHQ関係者からの批判として「日本の医学者は一般民衆の幸福を意図するよりも,自分自身の興味による科学としての医学の研究に耽ける傾向にあると言う.また,一般医家はこれと反対に,医学の進歩などに一向に無関心で,ただ自己の営利に汲々として居り,医師会の如きもただに薬品配給の業務と薬価の引上げを策する以外にほとんど何もしていない」というようなことが伝えられていた.このことは,針小棒大の言い草にしろ,若干その傾向のあったことは否めない事実であろう.

歯科衛生とともに歩む

著者: 宮入秀夫

ページ範囲:P.550 - P.551

 私の公衆衛生との出合いは,戦後,保健所法改正による新制保健所の発足にはじまる.昭和23年2月,全国の保健所整備に先だって厚生省のモデルとして指定された東京都杉並保健所に歯科衛生を設置し,これによって全国都道府県の衛生行政担当者に示説を行うことになり,その要員として東京都衛生局公衆衛生課所属の歯科医師となったのがきっかけである.当時の荒廃した国民の衛生状態を目(ま)のあたり見ては,医療従事者として誰もが,公衆衛生的意欲を奮い起こさずにはおられない時代であった.公衆衛生の第一線機関となった保健所の4課17係の新しい機構のなかで,私は歯科衛生係長として保健所活動を開始した.

公衆衛生指導者として山陰地方の住民と歩いた30年

著者: 村江通之

ページ範囲:P.552 - P.555

■後進の山陰へ赴任--
 終戦後,私は熊本医科大学の衛生学担当の助教授として赴任したのであったが,リウマチの発作の来る回数があまりにも多いので,やむを得ず請われるままに,米子医学専門学校教授として転勤した.開校3年目のこの学校は医学校とは名ばかりで,全く敗戦後の物質欠乏の影響を受けて,ほんとに何もない学校であった.
 昭和22年7月17日から出勤した.校長の希望は「日本一の公衆衛生の作業の展開」であった.3日間熟考して取りあげたのが,学校保健の作業の展開であった.

大学で公衆衛生を歩みつづけた30年

著者: 柳沢利喜雄

ページ範囲:P.556 - P.557

■はじめに--
 戦後30年は,医学における公衆衛生時代だったともいえる.それほどわが国の公衆衛生が,この時期に画期的発展をとげた.この輝かしい時代に私は,3つの大学の公衆衛生学教室の創設のお手伝いをやった.群大,千葉大,自治医大がそれである.今その経緯を顧みると,感無量である.
 だが,いたずらに過去の思い出に耽りたくない.なぜなら,歴史は過去のためにあるのではなく,ただ未来のためにあるからである.この機に私は,将来の希望を述べる目的で,一応過去を振りかえることにする.

行政畑を歩んだ私の30年

著者: 山口正義

ページ範囲:P.558 - P.559

■最初に取り組んだ引揚者の検疫業務--
 第二次世界大戦終結後,最初に私が取り組んだ公衆衛生上の問題は,数百万に上る海外からの引揚者に対する検疫業務である.その中でも特に強く印象に残っているのは,浦賀におけるコレラ検疫である.昭和21年2月5日付で引揚援護院の検疫課長を命ぜられて間もなく,4月の初めに南方からの引揚船の中にコレラ患者が発生しているとの情報が入った.連合軍総司令部の指令によって,従来の海港検疫法では考えられない船内停留や病院船の方式がとられ,患者が発生した船の同船者はその日から2週間は上陸を禁止され,しかも衛生状態の悪い船内に閉じ込められた人たちの中からは,次から次へと患者が発生するため,結局なかなか上陸は許されず,一時は浦賀沖に引揚船が群をなし,引揚者が数万人を数える海上都市ができ上がった.
 現在とは比べものにならない国内の環境衛生の状態を思えば,GHQの採った措置には理はあったかも知れないが,懐かしの故国を眼の前に見ながらその土を踏むことができず,船内で亡くなられた人々のことを考えると,断腸の思いである.

川崎市における戦後の公衆衛生を回顧して

著者: 依田源次

ページ範囲:P.560 - P.561

■はじめに--
 憲法記念30周年は,地方自治が発足してから30年経たことにもなる,この機会に地方自治体のなかで,その行政の一部である公衆衛生に関わりつづけてきた者の一人として,30年間の公衆衛生の変革を回顧し,また私自身の反省の糧としてこの間の遍歴をしめくくってみたい.
 昭和23年の川崎市の人口は約29万人,30年後の52年には102万人に達しているが,地域的には町村合併は全くなく,同一面積のなかでこれだけ過密化し,併せて,川崎市といえば公害都市の代表格になるほど工業地帯として環境が悪化し,公衆衛生の面でもいろいろな問題をかかえながら成長してきた.この発展の過程を同じレンズで経時的に捉え,そのフィルムを私の頭のなかで再映してみるわけであるが,ディレクターである私自身は,30年間公衆衛生の深淵にどっぷりつかって,その道一筋に公衆衛生と運命を共にしてきたと自惚(うぬぼ)れるほど純真ではなく,臨床への未練が断ち切れず,泥くさい人間関係に嫌気がさし,いくたびか離脱の機会を求めて迷走しつづけながら,いつのまにか30年を迎えてしまった.

予研30年の歩み—伝染病の推移

序説

著者: 福見秀雄

ページ範囲:P.563 - P.563

予研の発足■
 国立予防衛生研究所(以下・予研と略称)が発足したのは1947年で,爾来すでに30年の星霜が去来した.太平洋戦争から終戦にかけて社会状態,とくに衛生環境の混乱,それに伴う伝染病の多発の時期から,やがて諸条件の改善にしたがって,遂に現在のような経済大国となり,世界一流の文明国の仲間入りをするようになった.その30年の間に予研は創立され,伝染病の混乱期と戦いながら努力し,発展し,現在に至った.その間における予研の功罪について,ここに回顧し,反省するのも無意味ではないと信ずる.
 予研は元来,米軍占領政策の落とし子だなどといわれる.その出生がどうであろうと,それが正しく,かつ必要な目的のために誕生し,発展したのであるならば,別にそのことをとやかく穿さくすることはあるまい.当時の伝染病猖獗の状況から見て,病原微生物学研究の中心となる研究所はまさに必要であったのである.その頃,確かに東京では伝染病研究所,大阪では微生物病研究所があり,それぞれその方面の研究に業績を挙げてはいたが,それらはいずれも大学付置研究所である.厚生行政と直結する業務が関係する場合には,やはり厚生省所管の研究所である必要があったのである.

腸管感染症(食中毒を含む)

著者: 福見秀雄

ページ範囲:P.564 - P.565

伝染性下痢症の流行■
 過去30年の間にわが国の腸管感染症の発生の状況が変遷していった様相は,まことに顕著である.腸管感染症といってもいろいろある.まず最初に我々を驚かせたのは,終戦直後,すなわち1947年から数年にわたって流行した伝染性下痢症である.この病気は外来性のものであったと思う.当時アメリカでも,ある地方で本病が流行していたことから勘案し,また占領軍のわが国への往来から見て,その由来,渡来の経路が推測される.
 伝染性下痢症は2年か3年の間わが国の特に農村部において,かなりなスケールで流行を展開した.しかし,私の存知する限り,遂に都会地に侵入することはなかった.予研では日本医科大学の協力者とチームを作り,ボランティアを募って,その病原体の検索に努力した.その病原体が濾過性であること,感染後に免疫状態になること,アメリカにおいてこの病原体を研究していたゴードン等のそれと交換し,両者が免疫学的に共通すること,などを確認した.伝染性下痢症はしかし,やがてその大規模の流行を終息し,爾来何年かの間僅かにここかしこに報告が見られたが,遂にわが国では影を没せしめるに至った.

ポリオ

著者: 多ケ谷勇

ページ範囲:P.566 - P.567

生ワク投与により制圧に成功■
 予研創立から現在に至る30年間のわが国のポリオの推移は,わが国の防疫史の中でも極めて特徴的であり,伝染病予防への関与を使命として発足した予研の歴史の中でも,大きな位置を占めている.予研創立の1947年の9月から,伝染病届出規制に基づいて急性灰白髄炎(ポリオ)が公式に届け出られることになった.初期には届け出もあまり多くなかったが,1949年以降は,図1に示すように届け出も順調に為されていた.1951年をピークとしてかなり多数の患者が発生したが,その後次第に減少し,55年を最底として再び上昇へ向かった。そして60年には,記録始まって以来の多発をみ,翌61年春から初夏にかけて前年同様の患者発生の急増がみられたので,生ポリオワクチン(セビンワクチン)の緊急投与が行われ,流行阻止に成功した.以後,毎年の生ワクチン投与により,ポリオはわが国からはほとんど姿を消すに至った.

日本脳炎

著者: 大谷明

ページ範囲:P.568 - P.568

発足直後日本脳炎の大流行■
 予研が設立されたのが昭和22年5月21日,その翌年の昭和23年夏には,全国の日本脳炎患者報告数4,757人(罹患率,人口10万人当たり5.9)という大流行が起こった.その2年後の昭和25年夏には患者数はさらにふくれ上がり,5,196名(罹患率6.2)に達した.日本脳炎の制圧が,発足後間もない予研の最重点課題の一つになったのも,故なしとしない.
 当時予研では,細菌第1部(安東清部長)とリケッチア・ウイルス部(北岡正見部長)が,日本脳炎を研究課題として取り上げていた.前者では主として患者の診断技術の開発,後者では疫学と予防を主とした研究活動が行われていた.この頃には日本は米軍の占領下にあり,当然のことながら日本脳炎はアジアの地方病として彼らの脅威であり,疫学および予防への積極的な研究活動が米軍406研究所を中心に行われ,予研も彼らと協力態勢を組みながら進んだのであった.

インフルエンザ

著者: 福見秀雄

ページ範囲:P.569 - P.569

予研の中にインフルエンザセンター設置さる■
 ちょうど予研ができた頃,A型インフルエンザのウイルスのH抗原がH0からH1に変わった.1947年である.その頃イギリスのアンドリウス博士の提案で,WHOのインフルエンザ情報のネットワークとして世界各国にインフルエンザセンターができ,それに応じてロンドン,ミルヒルの国立医学研究所にインフルエンザの世界センターが設立された.インフルエンザの流行は元来しばしば世界的で,国境を越えて拡大する.その伝構拡大の正確かつ迅速な情報を得,その流行の惨禍に対処するうえで,どうしても世界的なネットワークが必要である.インフルエンザセンターの構想が生まれ,WHOがその線に動いたのである.わが国のインフルエンザセンターは予研の中に設置された.

ワクチン

著者: 黒川正身

ページ範囲:P.570 - P.570

終戦後10年のワクチンの状況■
 筆者の手元に,1949年から50年頃にわたって制定された生物製剤基準の綴りがある.そこに基準のある製剤としては,細菌ワクチンでは腸パラ,コレラ,百日咳の各ワクチン,ジフテリアと破傷風の各トキソイドのほか,ウイルスワクチンでは痘苗とインフルエンザワクチンがあるだけである.別に,1947-1948年度の予研年報の検定品目には発疹チフスワクチンがある一方,上記の製剤中,百ワク,フルワク,破トキはまだ現われていない.この時期の予防接種の主要対象の反映であろう.ついでであるが,1947年度の年報の検定件数の記録によると,腸パラワクチン2,864件中667件(約23%),コレラワクチン160件中67件(約42%),発疹チフスワクチン156件中42件(約27%)が不合格となっている.これらの数字にもいろいろ話題があるが,その頃の製品と品質の一端をうかがえるだろうという指摘と,それぞれの合格量は約14万l,5,000l,5,000lであったことを附記するに止めておこう.
 このあと数年を経た1956年の生物学的製剤基準には,BCGとワイル病ワクチンが載って細菌ワクチンは出揃ったことになる.一方,ウイルスワクチンは狂犬病と日本脳炎の各ワクチンが顔を出しているだけである.この辺が戦後10年目頃の状況である.

結核

著者: 室橋豊穂

ページ範囲:P.571 - P.571

予研創設後の10年間■
 「結核予防法」が制定されて,結核検診とBCGによる結核予防接種が全国的に行われるようになったので,診断用旧ツベルクリン(以下「ツ」と略す)液の製法と力価の標準化,「ツ」反応判定基準の設定・確認と普及,凍結乾燥BCGワクチンの製法の改善と品質管理のための研究などに力が注がれ,全国的に統一された方式による結核予防対策が講ぜられるようになった.
 他方,ストレプトマイシン,イソニアチッド,パスなどの登場は,結核治療方式に一大革命をもたらしたが,これらの薬剤ならびに相次いで開発,登場が予測される治療剤に対する結核菌の感受性試験法の標準化や,製剤として実用化に至るまでに必須なスクリーニング方式などが研究されて,以後の新薬登場への大きな備えとなった.カナマイシンも,このような時代に誕生し,その有効性が我々の手で確認された.また,結核と癩との関係が研究され,レプロミン反応の判定基準の設定,BCGの癩予防効果の証明などが行われた.したがって創設後の約10年間は,主として旧「ツ」および凍結乾燥BCGの研究,結核化学療法の基礎的研究,結核および癩に関する疫学的研究に重点がおかれていたといえるであろう.

麻疹・風疹

著者: 宍戸亮

ページ範囲:P.572 - P.572

予防対策の施行は最近■
 麻疹および風疹は,小児の伝染病として古くからその存在が知られている.その病原体はヒトの社会に長く定着して生存しつづけてきたが,それに対する特別の予防対策はほとんどとられていなかった.ヒトは麻疹に対して感受性が高く,90%以上のヒトは顕性に発病するが,小児にとっては麻疹は決して軽い病気ではない.風疹は「3日はしか」ともいわれ,臨床的には麻疹によく似ているが,症状はそれよりははるかに軽い.病原学的には両者は全く違った病気であるが,それが明瞭に区別できるようになったのはむしろ最近で,それは,最近になってようやく両者の病原体(ウイルス)が確実に分離,培養できるようになったからである.したがって,病気の血清学的診断,予防接種など,これらの病気の予防対策が実際的に行われるようになったのも,極めて最近のことである.

抗生物質

著者: 梅沢浜夫

ページ範囲:P.573 - P.573

 1938年のDubos博士のTyrothricin,1941年のWaksman博士のActinomycinの発見は注意されたが,Florey,Chain博士らの1941年の"Lancet"誌上のPenicillinの効果の発見は,当時ほとんど注意されなかった.1948年の"KlinischeWochenschrift"誌上の英国の研究の紹介報文がその年の暮に日本に送られて,はじめてPenicillinの研究に驚かされた.そこで,1944年2月に当時の陸軍軍医学校にPenicillin研究委員会がつくられ,当時伝研の細谷教授と筆者(当時,助教授)はこの研究に参加し,それを推進することとなり,その年の10月に日本の青カビからPenicillinをつくることができた.さらに,1946年10月にはFoster博士が米国のPenicillinの研究を紹介し,国を挙げてその生産に努力した.予研設立に関係のある問題が伝研の所員会議にはじめて提出されたのは,1946年の12月のことである.それから数カ月して筆者は矛研に抗生物質部をつくり,部長としてその研究と業務に専心することになった.筆者のその後の研究方向は予研抗生物質部の設置によってきめられた,ということもできる.

寄生虫

著者: 石崎達

ページ範囲:P.574 - P.574

 予研発足当時のわが国は,寄生虫により全国的に汚染されていた,戦前の統計と比較して極端に悪化していた.これは,敗戦で生活水準が著しく低下し,公衆衛生上も最悪の状態であったことを物語る.これと現在の優れた状態とを比較して,予研の果たした指導的役割を考えてみたい.

座談会

国立予防衛生研究所の30年

著者: 佐々木正五 ,   村田良介 ,   大谷明 ,   石崎達 ,   福見秀雄

ページ範囲:P.575 - P.584

 戦後しばらく猖獗を極めていた結核をはじめ各種感染症は,その後衰退の一途をたどり,国民の死亡率や疾病構造を大きく変えてきた.これには国民の生活環境の改善や食生活の向上が大きく寄与しているとはいうものの,終戦後に始まった予研を中心とする予防接種やワクチンの開発,各種疫学調査などの予防活動が大きく寄与している.そこで予研が創立30年を迎えたのを機会に,伝染病撲滅の30年を当時予研の中心的役割を担われた先生方に語っていただいた.

連載 図説 公衆衛生・8

循環器疾患の現状と課題(Ⅰ)

著者: 安西定 ,   高原亮治 ,   川口毅

ページ範囲:P.527 - P.530

 医学,薬学および周辺科学の発展はめざましいものがあるが,心臓血管系を中心とする循環器系疾患,ことに高血圧疾患,脳卒中,心筋梗塞などは老年人口の増加等もあり,有病率や受療率がかえって増加の傾向を示している.
 死亡については,全国死因統計でも明らかなように,わが国の国民死亡原因の第1位は脳卒中であり,第3位の心筋梗塞,心不全などの心臓病とあわせると,これらが成人の死亡原因の約半数を占めている現状である.しかも,これらの循環器疾患は社会的に重要な立場にある働きざかりのものに多発しており,その対策は社会的にも極めて緊急のこととなっている.

発言あり

輸入伝染病

著者: ,   ,   ,   ,  

ページ範囲:P.531 - P.533

わが国の検疫はほんとに大丈夫か
 予防接種法の改正と関連して,輸入伝染病があらためて論議されている.そのおり,うかつであったというか,筆者は一つの法律に気がついた.
 それは,軍用艦船に対する国際慣例にもとづくものであろうが,わが国には「外国軍用艦船等に関する検疫法特例」(昭和27年6月18日,法律第201号)によって,外国軍用艦船に対しては,検疫法の主要条項を適用または準用しない定めがある.

研究

肝疾患死亡の疫学的研究(1)—血清GOT,GPTの分布と正常範囲

著者: 藤井正信 ,   三好保 ,   中田久世

ページ範囲:P.585 - P.590

はじめに
 公衆衛生学の分野において,多数の住民に健康調査の目的でスクリーニング検査を採用し,種々の血液学的検査を利用する機会が増加してきている.
 一般に,多数の健康者から得られた血液値はある一定の規則的な分布を示すことが知られており,この分布から統計的な方法によって健康者集団の占める範囲を求め,この範囲を正常値としてスクリーニング検査の基準として用いることが多い1).一方,集団の正常範囲とは別に個人の血液値には個体差があり,恒常性をもってある狭い範囲にとどまっており,各個人の生理的正常範囲内の変動を健康状態を把握するのに用いることが課題となってきている2)

調査報告

保健所で把握された精神発達面での問題児の追跡調査—昭和51年度就学予定児を対象に

著者: 滝沢広忠

ページ範囲:P.591 - P.594

はじめに
 当保健所では,毎週2回にわたって3歳児健診を行っている.保健婦による予診・計測,医師による内科検診,そして歯科検診というシステムで,最終的に再び保健婦のもとで,予防接種を含めた全般的な指導が行われる.さらに,栄養相談が必要とされるケースについては栄養士に指導を依頼し,精神発達面で問題があると思われるケースは,精神衛生相談員のところにまわされてくる.
 3歳という時期は,幼児期におけるひとつの転換期であり,身体発育,精神発達の面からみても重要な時期である.運動能力の発達にともない,行動半径は広がり,言語の発達が促進されるにしたがって,言語を手段としたコミュニケーションが増大してくる.そして自我が芽生え,自己を主張するようになる.しかし反面,親から分離することによる不安もみられるといった不安定な時期であり,精神構造が複雑化するにしたがい,習癖や問題行動が現われやすい.

日本列島

札幌市衛生調査専門委員懇談会の答申書について

著者: 吉田憲明

ページ範囲:P.543 - P.543

 昭和51年12月27日の日付をもって,札幌市厚生局長から岩内保健所長宛に表記の書類が送られてきた.これは,札幌市において昭和51年11月から9回にわたって,表記懇談会を開催し,審議を続けてきた結果,今回第1次の意見具申がなされたので送付してきたものである.
 当時,筆者が札幌市東保健所在職中の出来事で,その後の答申の内容に関心をもっていたし,またその委員会のためにも,いささかでもお役に立てばと思って,51年の7月に札幌市東保健所より『地区診断のための計数的考察』なる冊子を発行しておいた.

岐阜県神岡町のスモン問題

著者: 鈴木大輔

ページ範囲:P.562 - P.562

■キャンペーン・ショック
 本年3月25日,中日新聞の朝刊の第一面の,「スモン患者ひた隠し,神岡鉱山病院35年から54人」というセンセーショナルなスクープ記事を皮切りに,マスコミの福岡スモンのキャンペーンが大々的に展開された.この強烈なスモンのキャンペーン・ショックに,行政および鉱山病院の狼狽は大きく,関係者は対策に東奔西走する事態に追いこまれた.県の保健所長会議,県議会,さらに衆議院社会労働委員会でも,神岡のスモン問題が取りあげられ,白熱した論議をよんだ.
 今回の事件の発端は,神岡町の1スモン患者から,全国スモンの会岐阜県支部へ「町内にはスモン患者がかなりいるようだが,名乗りでる患者がいないため地元でもわからない.調べてほしい」という手紙があったということらしい(3月25日付中日新聞).

今月の本

益子 義教・野村 拓 編『地域医療—国民のための地域医療を』〔1〕〔2〕—国民本位の医療のあり方を追求する立場で書かれた著

著者: 金子勇

ページ範囲:P.596 - P.597

 「70年代後半の日本の医療を真剣に取組む人たちへの足場を提供」する目的で,国民のための地域医療を築く立場から編まれた本書は,保健医療矛盾が噴出する今日,まことに時宜ふさわしい内容を含んでいる.
 〔1〕では,地域医療についての,総括的,原則的な理論が展開されている.

日野原 重明・木島 昂 編『老人患者のマネージメント』—老人を対象とする保健婦活動のための必読書

著者: 三井恂子

ページ範囲:P.597 - P.597

 寝たきり老人に対する地域看護サーヴィスの要請が高まっている昨今であるが,保健婦の老人問題への対応も,年ごとに増していることを学会や雑誌等をとおして感じる.
 これは,結核患者や乳幼児から精神障害者の保健指導へと歩んできた保健婦活動の中に,新たな課題となった老人保健が,地域社会にあって看護活動をするものにとり,避けられない問題として,積極的に取り組まれていることのあらわれではなかろうか.

--------------------

用語欄

著者: 西川滇八

ページ範囲:P.542 - P.542

▶濃縮係数(concentration factor)
 生物濃縮の割合を表わすのに利用される用語で,ソ連の地球化学者A. P. Vinogradovが初めて使った.彼は海洋生物の元素組成についてのデータをまとめるに際して,重金属類やヨウ素などの海水中の濃度で海藻中のそれらの濃度を割った商を,こう呼んだ.水銀やカドミウム,あるいは放射性物質の海洋放出による環境汚染に関連して使われるようになったものである.

基本情報

公衆衛生

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1170

印刷版ISSN 0368-5187

雑誌購入ページに移動

バックナンバー

icon up

本サービスは医療関係者に向けた情報提供を目的としております。
一般の方に対する情報提供を目的としたものではない事をご了承ください。
また,本サービスのご利用にあたっては,利用規約およびプライバシーポリシーへの同意が必要です。

※本サービスを使わずにご契約中の電子商品をご利用したい場合はこちら