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雑誌目次

雑誌文献

公衆衛生46巻1号

1982年01月発行

雑誌目次

特集 国際保健協力

新しい国際保健協力への期待

著者: 小野寺伸夫

ページ範囲:P.4 - P.8

 ヒンドゥー・マドラス記者のK.V.ナラインは,「インド人の日本観」と題し1981年8月の月刊NIRAに次のような論をのせている.
 「今日日本はソフト面で世界で最も発展途上国に対して援助を供給している国の1つであるが,途上国側はこれを歓迎しつつもいつまでもこのパターンが続いてほしいとは思っていない.なぜならばどんな国でも自国の貿易の発展を願っているからである.

国際保健協力に参加して—インドネシアでの体験を通じて

著者: 金光正次

ページ範囲:P.9 - P.14

 私が開発途上国の保健医療に関心を抱いたのは,昭和33年インドで開かれた第2回アジア保健会議に出席した後,中近東とアフリカの医療事情を視察したことに始まる.インドでハンセン氏病患者の多いのに驚き,鎖国を解いて間もないネパールに米国とソ連が医療援助を競い合うのを見,この僻遠の山国にも米ソの勢力が相争っているのを感じた.西パキスタンのカラチ郊外にはカシミール地域から追い出されたイスラム教徒の難民が溢れ,宗教による対立の深刻さを教えられた.イランでは砂漠の下にカナート(地下水道)を作った住民の智恵に感嘆し,エジプトのギザ保健所を訪ねた時は,保健婦の案内でピラミッドを望む農村をめぐった.アレキサンドリアのWHO支局は,長年エジプトの農村衛生の改善に力をそそいで来たが,生活環境と農業生産力があるレベル以下の農村には効果がなく,もっと条件の良い土地に全村を移す以外にないといっていた.

生きるとは分かち合うこと

著者: 岩村昇

ページ範囲:P.15 - P.19

「日本はアジアを必要としているかもしれないが,アジアは日本を必要としない,若し日本がアジアの問題解決に共に関わろうとしないなら.」
 Mr. Hari Danielは言った.彼はインド人.太平洋戦争中から母国インドで,"貧困と疾病の悪循環" とたたかって来た社会事業家であり,戦後はアジア各国の "社会不公平" とたたかって来た国際運動家である.

タイ国地域保健活動向上計画

著者: 熊岡爽一

ページ範囲:P.20 - P.28

 タイ国における地域保健活動向上計画はタイ国社会経済第4次5ヵ年計画に沿って,日本国が技術援助を行うという協力体制に基づいて,昭和51年4月1日より昭和56年3月31日までの5ヵ年間行われた.この計画においては,初年度は昭和52年1月まで日本人専門家の派遣は行われず,プロジェクトリーダーは昭和52年4月より派遣されたので,全体的に計画が遅延し,そのため計画は3年延長されて昭和59年3月末まで続行されている.筆者はリーダーとして昭和52年4月23日より昭和56年4月30日まで現地に滞在して,カウンターパートと共に計画実現のために働いた.現在も7人の日本人専門家がカウンターパートと共に着々と実績をあげている.この小文に紹介するのは筆者が日本人専門家やタイ国カウンターパートと共に働いて本年3月末までに得た成果の一部である.現在も仕事は活発につづけられているので,成果は飛躍的に拡大しつつあるものと期待している.

ネパール王国西部地域公衆衛生プロジェクトの場合

著者: 梅村典裕

ページ範囲:P.29 - P.35

 ネパール王国に対する医療・保健協力は,日本を含めた世界の先進諸国並びに国際機関により多数のプロジェクトが実施されている.我が国でも政府間のほか古くから大学や民間団体等によって,協力期間の長短はあるが,内容は多岐に亘って行われている.
 政府間レベルの援助では,現在は昭和47年からの西部地域公衆衛生プロジェクトとトリプバン大学医学部の医学教育に対する協力が昭和55年から行われている.最初は昭和40年に医師,X線技師,検査技師と保健婦等により編成された巡回診療団が間接撮影装置を登載したX線車と合わせて巡遣され,カトマンドゥ盆地を中心として間接撮影方式による結核の集団検診の技術指導も行われ,高い患者発見率から結核の蔓延が推測された.その後昭和44年に国立中央病院であるビル病院,ビラトナガールの県病院とジャナカプールの郡病院にX線装置と300万人分の痘苗が供与された.

フィリピン熱帯医学研究所の発足

著者: 金子義徳

ページ範囲:P.36 - P.40

 フィリピンは成田空港からジェット機で約4時間,今日では多数の日本人が活動しているのみならず,入れかわり立ちかわり多数の観光客が訪れている.日本海外協力事業団(JICA)関係についても約70名の専門家が医学,林業,漁業,交通,港湾,電気,窯業等の技術協力に従事しており,家族を含めると約150名くらいが滞在している現状である.聞くところによると日本人会に入会している人数は約1,600ということであり,観光客などを含めると常時約4,000人の日本人が滞在していることになる.したがって日本人子弟のための小学校,中学校もあって約400人の学童が在籍し,日本人の先生も約20人在勤されているようである.マニラではしばしば国際会議が開かれ,日本政府の要人の来比も少なくない.またWHOの地域事務所やアジア開発銀行などの国際機関もあって,日本人が大いに活躍していることは周知である.
 フィリピン自体については経済事情はいぜんとしてきびしい状況にあるが,私が過去数年間,来比する毎に新らしい建物に気付くくらいで,これが発展途上国かと疑う場合も少なくない.私が滞在したMakatiはフィリピンのいわば経済の中心であり,立派な建物が林立している.フィリピンの個人所得はすでに500ドルを越えたといわれるが,問題はその富の分配にあるといわれており,貧困な人々が多いことは事実である.

ナイジェリア大学に赴任して

著者: 佐藤喜一

ページ範囲:P.41 - P.45

 国際協力事業団(JICA)がこれまで行ってきた多くの業績の中で,「中近東アフリカ技術協力」という大きな事業は長く継続している方であろう.この中にナイジェリア国に対する医療技術協力とよぶ項目がある.筆者がこの膨大なテーマを聞いたのは1963年であり,また筆者自身が参加したのが1973年で,その後1978年までの間に何らかの形で協力者の1人として加わっていた.最近になって再びナイジェリアの北部にあるジョス大学への協力が決定したと聞いている.数えてみると既に20年に近い技術協力ということになる.この期間にナイジェリアへ渡った医師は延べ100名を越えているであろう.筆者は1973年11月から1年間ナイジェリア大学での医学教育に参加し,その後75年に2回,76年78年と計5回,同じナイジェリア大学を訪ねる機会を得た.この間,見聞したり経験したりしたことを思い出しながら,私見を加え印象を綴ってみたい.

サルバタムピトの村

著者: 角田正恵

ページ範囲:P.46 - P.51

 ネパールとの出合いは,もう15年ほども前になります.当時,ミッションスクールの食物科の学生であった私は,寄宿舎での夕拝の時間に視た日本人医師夫妻のネパール医療協力の映画に強い感銘を受けました.(それは20年にわたる岩村昇先生のネパール医療協力の第1期の記録映画「ネパールのひげドクター」でした.夫妻の若々しさにその年月の長さが偲ばれます).いつの日か,私にもそのような活動の場が与えられないものだろうか,と自分の将来に夢を描いたことも忘れられません.一体あの感激はどのようなものなのでしょう.今でもしばしば振り返ってみます.風土,文化,生活習慣の違いといった困難さはそれが故に青年の心をより強く高く夢想へ駆り立てるもののようです.島国日本の若者には抗し難い白き峰のふもと,未知の国ネパールでした.
 さて,それから7年後,私は日本キリスト教海外医療協力会(The Japan Overseas Christian Medical Cooperative Service=JOCS)よりネパール合同ミッション(United Mission to Nepal=UMN)に派遣されることになります.1973年1月のことでした.

講座 公衆衛生学の最近の進歩・13

人口問題・保健統計—高齢化社会へ向かって

著者: 重松峻夫

ページ範囲:P.52 - P.61

 わが国の人口は近年急速に高齢化しつつあり,西暦2000年には現在の西欧諸国のレベルに達し,その後も高齢化がすすむと予測されている.この高齢化に対応する施策を論じる時,しばしば西欧老人国の福祉施策の例が引かれるが,これらの諸国はすでに高齢化の段階をすぎ,高齢社会であり,またわが国の高齢化はその速さが西欧諸国がかつて経験したものの数倍であり,その程度も未だ経験したことのない高度のものとなる点を十分に考えておかねばならない.
 高齢社会はaged populationであり,高齢化があるレベルに達し,高齢者の割合がほぼ安定した社会で適切な高齢者対策が樹立されれば,基本的には将来にわたって対応が可能である.しかし,高齢化社会—aging of population—は高齢化が進行中であり,将来を予見した高齢者対策が樹てられなければならない.公衆衛生領域における保健福祉の問題とは特に大きな関係がある.予測されるわが国の高齢化は,速度も程度もともに人類未経験のものであるので,将来の予見を誤れば今日の対策も明日の現実に適応しなくなる惧れが多分にある.

発言あり

おせち料理

著者: ,   ,   ,   ,  

ページ範囲:P.1 - P.3

おせち料理で地域も吟味
 大都市で生活していると,季節や風土といったものには無関心になり,地域や家庭内の因習なぞというものには,まったく無感覚になりがちである.季節,風土や因習が再認識されるのが,正月だ.師走ともなると,のどかな正月が待ち遠しい.街全体が清められ,門松やしめ飾りで化粧される.あたかも新しい年への希望を示しているかの様である.
 正月には,着物を身に付け,礼儀正しい挨拶をかわし,特別な食事をとる.こうしたことに,疑問を感じる人は少ない.正月にかぎっては,生活が不規則だとか,酒や塩分のとり過ぎだとかいう人も少ない.それは,街全体の雰囲気が,人の心をなごませるからかもしれない.雰囲気作りに一役買っているのが正月料理,とりわけおせち料理だ.おせち料理とは,五節句の煮しめ料理らしいが,今では正月料理と同意語になっている.

人と業績・19

相良知安—1836-1906

著者: 西川滇八

ページ範囲:P.62 - P.63

 1870年(明治3年)2月に明治新政府はドイツ医学の採用を正式に決定した.この決定は相良知安らの意見が,「オランダ医書はドイツ医書の翻訳であり,ドイツの医書は英米のものよりすぐれ,ドイツ医学は世界一である」ということに拠るものであった1).これより先,1868年(慶応4年)の布告により,わが国の医学・医術には西洋医学を採用するとの基本方針が決定していたが,欧米のどこの国の医術を採用するのかは具体的に決まっていなかった.そこで明治2年に政府はわが国の医学教育の確立を建議した岩佐 純(越前藩)を徴士権判事に任命し,医道改正御用掛(医学取調御用掛)を命じた.この時に,「相良知安は才能共に備わりし人物なりしを以て,其際登用して大学経営の任に当たらせたしと申請して,共に医道改正御用掛を命ぜられ……」と岩佐がいうごとく,岩佐の推薦によって同時に任命されたということである2).そして岩佐と相良とは同年2月に京都から東京へと東下したのであった.当時は両者ともに新政府に認められるほどの地位も実力も備わっていた訳ではなかったが,ともに蘭医ボードインの教えを受けたことがあったのが機縁であるといわれている3)

海外事情

アフリカの僻村における衛生教育−3——衛生教材の内容(2)—腸内寄生虫と栄養

著者:

ページ範囲:P.64 - P.68

■腸内寄生虫
 レッスン1 回虫(Round Worms)
 ある日,1人の医者が都会からやってきて,エルワという町はずれの村を訪れた.彼は,村長と村の長老に挨拶を述べたのち,私たちみんなに向かって「みなさん,どこかお体の具合いの悪い方はいらっしゃいませんか」と問うた.もちろん私はみな同意して一人の人が私たちを代表して,お医者さんに「私たちの子供たちはみんな虫を持っています.私たちはよく彼らのウンコの中に虫が出て来るのを見かけ,また多くの子供達は大きな腹をかかえていますが,子供達はよくセキをするし,体がひどく痩せ細っています」と答えた.

大学とフィールド

農村保健から国際保健へ—〈新潟大学医学部公衆衛生学教室〉

著者: 須永寛

ページ範囲:P.69 - P.71

 フィールドと研究室は車の両輪のごとく,両者あいまってはじめて公衆衛生学は成り立つということができよう.いうまでもなく,公衆衛生学の野外研究は単なる研究者の学問的欲望を満たすためのものではなく,地域社会のニードに沿うものであると同時に,得られた成果が地域住民の健康の増進に生かされなければならない.またフィールドは公衆衛生学教育の場としても極めて重要な役割をもつものである.ここに公衆衛生学の野外研究の意義が存在し,適当なフィールドの選定とその維持に対して,われわれが常に努力しているところである.

日本列島

第29回日本病院管理学会総会開催される—沖縄

著者: 伊波茂雄

ページ範囲:P.35 - P.35

 第29回日本病院管理学会総会が昭和56年11月19,20日の2日間,那覇市内で関係者約300人余が集まり開催された.同学会が沖縄県で開催されるのは初めてのことである.学会では病院の機能をどう向上させるか,病院の財政,離島医療システムなどについて発表,討議がなされた.また25の研究発表が行われたが,東北大学医学部車田助教授は「医療危機と医療倫理」と題して講演し,そのなかで「現在一部の医療機関において患者の医療不信の原因になるような一連の医療行為がなされ,医療に対する社会の関心も高まり,医療危機が叫ばれている.本来1対1の医師対患者関係であるものに第3者の介入が生じ,また医療技術が商品化され,人間が対象化される傾向にある.医療が内部崩壊しないために医の倫理が問われている」と述べた.
 2日目には「離島医療システム」と題してシンポジウムが行われたが「離島性」,「離島等における受療様態」,「離島駐在保健婦の業務を通して」,「離島勤務医の立場から」,「沖縄県の離島医療状況と,へき地包括医療情報システム」,「長崎県の離島医療」,「へき地医療と病院」などが発表された.

空きかん回収条例の成立—京都

著者: 山本繁

ページ範囲:P.40 - P.40

このたび,京都市では,散乱ごみ対策の一環として約2年6ヵ月にわたって自主制定に努めてきた「空きかん回収条例」(京都市飲料容器の散乱の防止及び再資源化の促進に関する条例)が議会の承認をえて成立した.(施行は昭和57年4月1日である.)
 まずこの条例の特徴は,第1に散乱ごみの規制というより回収・再資源化に重点がおかれている点である.

保健医療協議組織—岐阜

著者: 井口恒男

ページ範囲:P.51 - P.51

 岐阜県では昭和52年より,学識経験者,医療機関代表,住民代表等よりなる保健医療対策協議会を設置し,保健医療全般にわたる地域計画の協議を行っている.保健医療圏の設定をはじめ救急医療やへき地医療など緊急課題についての専門委員会を設置し中間答申も出しており,さらに保健医療全般に係わる整備計画の協議にも入っている.
 国(厚生省)に於ても,従来県レベルの救急医療対策協議会を昭和55年度より拡大し,県レベルおよび広域市町村圏レベルでの救急医療,へき地医療,医療情報システムについて総合的な医療供給体制の推進を目的とする基本計画の策定と実施体制の確保をはかるため医療対策協議会の設置をすゝめており,富士見病院事件を発端とした医療相談事業も対象としているようである.56年度にはさらに,最近の技術革新に伴う高額医療機器の共同利用についても,その対象事業としている.

基本情報

公衆衛生

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1170

印刷版ISSN 0368-5187

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