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雑誌目次

雑誌文献

臨床眼科1巻2号

1947年05月発行

雑誌目次

〔Ⅰ〕原著及臨牀報告

自家血液と「ズルフォン」劑との併用療法—其の一 急性眼窩骨膜炎に就て

著者: 渡邊徹郞

ページ範囲:P.65 - P.66

緒論
 從來感染病竈には觀血的或は非觀血的に操作が行はれ同時に血清或はワクチン療法化學製劑等による大淨芽療法が行はれて居た。然しズルフオン劑(以下ズ劑と略記す)が一旦世に現はれるや一變し,一般化膿性疾患に對しズ劑が醫療界を風靡して居るのが現状である。然しズ劑の作用機轉に關しては諸説紛々として歸する所を知らない。從つて之が使用に當つて我々眼科でも内服,靜注,點眼,軟膏塗擦の外,頸動脈内注射(淸水教授),局所浸潤注射(山中,淸水兩教授)血液加ズ劑の局所浸潤注射(山中,淸水兩教授)等が報告せられて居るが,私達は治療に或は其の後貽症に難澁する眼窩骨膜炎に對して,一療法を試み稍ゝ見るべきものがあつたので報告する次第である。

角膜脂肪變性を伴つた蠶蝕性角膜潰瘍

著者: 堀田俊雄

ページ範囲:P.66 - P.68

 蠶蝕性角膜潰瘍は今日まで多數の報告例があるが,著明な角膜脂肪變性を伴つた例は,私の文獻調査の範圍では見當らないので,茲に報告する次第である。

視交叉蜘網膜炎の種々相

著者: 生井浩

ページ範囲:P.69 - P.72

 視交叉蜘網膜炎(Arachnoiditis opto-chiasm-aticus)に就ては,我國にも既に井街(讓),荒木,竹林,井街(謙)氏等の報告があり,私もまた二三の症例報告をしたが,今後この方面の研究が大きな發展をみることは疑のない所である。急性或は慢性球後視神經炎.鬱血乳頭.各種の視神經萎縮の場合に,開頭手術をおこなつて,視交叉部を調べてみると,その部に實に種々な病變を發見して驚くのであつて,而もその所見は開頭して確めるまでは,容易に豫斷を許さないのである。私が種々な視神經疾患に開頭手術を試みて得た所見については,別に一括して報告するが,こゝには最近經驗した興味のある數症例を摘録記載しようと思う。

眼窩緑色腫の一例

著者: 畠山靖

ページ範囲:P.73 - P.75

緒言
 所謂緑色腫はAllan Bruns (1821)の記載に始まり,King (1856)に依りChloromと云ふ名稱が附せられ,比較的稀な疾患と云はれてゐる。然し我國では,林(明治37年),菅沼(明治42年)氏等の詳細な剖檢報告以來50有餘例に達したが,今尚其の本態に關しては不明の状態である。
 私は最近本症と考へられる一例に遭遇したので,短期間の觀察ではあるが其の臨牀所見の概要を述べたいと思ふ。

角膜組織の呼吸に就て

著者: 笠原幹夫

ページ範囲:P.76 - P.81

 角膜組織の試驗管的保生のための適當な條件を求める目的を以て.家兎の角膜の組織呼吸を對稱として,數種の實驗的觀察を行つて,次に要約する様な結果を得た。
 1)家兎の角膜(全層として扱ひ)の呼吸値は平均Qo2=−0.91である。これは他の二三の動物の角膜に較べて,特に高くもなく,又特に低いものでもない。
 2)低温で血清中に保つならば,家兎の角膜は240時問に瓦つてもなほ其透明性を保ち,呼吸量はなほ初めの量の50%以上を維持してゐる。48時間以内にあつては,むしろ一時的に呼吸の高まつてゐる時期がある。
 3)これを他の二三の臓器の保生切片に比較して,顯著な差異を認めた。
 4)角膜を構成してゐる三層のうち,内被層及び上皮暦の呼吸量は,實質層のそれに較べて,著しく高い。かく剥離した各單層を,低温血清に保つた場合,最敏感に呼吸量を失ふのは内被層である。實質層の抵抗が最高いが,上皮暦の抵抗も又相當に高い。
 5)角膜の呼吸切片の各種媒體液中の呼吸量を比較すると,Rlnger液,血清,前房水,燐酸鹽Ringer液の順に高い。しかしこの差は特に顯著なものとは言ひ難い。
 6)滷性側の方が酸性側に於けるよりも角膜呼吸量が高い。中性から酸性に傾くにつれて,呼吸量は急に低下する。
 7)角嗅の呼吸は,Vitamin B2及び青酸に反應する。前者によつて呼吸は高められ,後者によつて抑制をうける。但,これらの影響を特に顯著なものとは見做し難い。

學校近視の治療法

著者: 筒井德光 ,   三井幸彦

ページ範囲:P.82 - P.83

 近視に對する私共の見解は最近數年の間に隨分變つて來た。これは主に學術振興會の近視委員會の研究のたまものである。尤も私共は最近の外國の文獻に精通する機會がないので外國でどんな進歩をとげてゐるかよく分らない。日本では現在トラコーマの初發症状が通常急性𢐸胞性結膜炎の症状でおこると云う考へが有力化してゐるけれども未だ眼科學界のすべてがこれを承認する迄には至つてゐない樣である。所が最近のアメリカ陸軍の軍陣眼耳鼻科學の本を見るとトラコーマは急性に發病し1,2ケ月の後に慢性症状を呈するものであることが簡單乍ら明瞭に記載され又,トラコーマの分類も日本學術振興會トラコーマ委員會で選定した急性期慢性第1,2,3期と殆ど同じ意味で第1,2,3,4期と云う分類法が掲げてあるのにおどろいた。此の分類法はMac Callanの分類法に準據したものであることが知られたが併し同氏の1936年に發表した内容よりずつと進んでゐる。これ等の考へ方が日本の研究とは關係なしに發展したものであることは想像されるが記載が簡單で詳細な根據を知り得ないのが殘念である。これについては外國の研究の進歩と云ふこと以外に歐米人が古い考へにこだわらず他人の研究の良いところは卒直にどんどんとり入れてゆくと云ふ態度に大いに教えられる所がある。さて近視の話にもどつてみると昔は近視と云ふものは眼軸が延長しておこるものだと考えてゐた。

遠見複視の一例について

著者: 德田久彌

ページ範囲:P.83 - P.84

 患者は35歳の男で職業は工員,初診は昭和21年10月7日である。9月28日夜祭を見に行つて舞臺の灯や踊る人がふたつに見えるのに氣がついた。驚いて翌日醫者を訪れたら亂視だらうと云はれた。複視は遠くを見る時だけ現れる。10日經つが複視は消えないので外來を訪れた。複視が突然出現する迄に何ら病氣らしいものを經驗したことはなく熱性病に罹つたこともない。只10年前頃性病にかゝる機會があつたが血液檢査はしたことがない。診ると視力は右0.1(0.8×−1.5D)左0.4(0.8×−1.5D)で開散麻痺の患者によくみられる遠視はない。外眼部は總べて正常で瞳孔左右同大,對光反應,輻輳反應も正常である。眼位も正常で遮蔽法によつても眼球の整復運動は起らない。眼球運動も總べての方向に異常を認めない。1.5m位離れた物體を固視させると,同名性複像が現れ,直立しており,高低の差はないが,外方で僅か開大する樣である。物體を近づけて行くと1m位で複像は消失する。逆に物體を50cm位から遠ざけてゆくと1mでは複視は現れず1.2m位で出現する。マドツクス小桿をかけると5mで5°の内斜位がある。2°の外轉性プリズムで複視は消失する。注視野は兩眼とも狹窄してゐない。2mの距離で檢査點間隔50cmにして複像檢査をすると同名性複像が現れ正面4cm側方5-6cmの間隔を示す。W.Rは強陽性であつた。

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Ⅵ.(1)醫局だより,他

ページ範囲:P.84 - P.84

慈大眼科
 終戰1年有餘我が慈惠醫大眼科學教室に於ては復員者,最上一男,岡田正久,菅谷武雄,堀田倶寬助手を迎へ,附屬病院も青砥に青砥病院が新たに開設され,9月より診療も開始され大いに張切つてゐます。
 11月3日に教室諸先輩及び醫局員の第1囘復興懇話會を開催し次いで11月15日教室に於て第128囘慈眼會例會を開催致します。現在,附屬東京病院は一部病棟戰災に合つたが他殆ど無事で村上教授,大橋助教授の下に醫局員一同大いに頑張つて居ります。

〔Ⅴ〕外國文獻抄録

著者: 樋渡正吾

ページ範囲:P.97 - P.108

American Journal of Ophthalmology.Vol 29.No 5(1946)
 1.結膜のBowen氏病V.R.Khanolkar.
 70歳男子,1937年1月頃より3-4月に一度急性結膜炎を患ふ,1937年7月結膜炎の後角膜縁と外眥の中間に充血斑を殘し周圍より太い血管が侵入し輕い異物感あり。3月後に表面より少し隆起し赤味を帶び境界不規則となり,數週後に急に擴がり初め角膜縁に近附いた爲結膜乳頭種の診斷の許に19・8年1月腫瘍を切徐し鞏膜を掻爬,腫瘍は深部と癒着なし。その組織際は薄化せる健康結膜より急に數層の上皮細胞に移行し此の部では上皮表面は多少角化し上皮の排列は亂され巨大細胞が一個乃至數個不規則に分布す,巨大細胞は通常の多角形細胞の6-10倍,核には不定型分裂像を示すもの,數個の核,細胞質の中央に集れるもの,核周圍に透明なる一層を認むるもの等あり。上皮細胞の境界に明瞭なる線を認め厚化せる上皮層に多數の有絲分裂儀を見,上皮下組織は血管に富む結合組織よりなり淋巴球,組織球よりなる炎性滲出物を見,總じて前癌性變化を思はしむる像なり。以上の所見はBowen氏病に定型的にして結膜に生じたるものとしては最初の報告なり。其後2度再發その都度切除す。3囘目の再發の組織像は紡錘状細胞癌と診斷されラヂウム療法を受け以後死亡迄再發せざりき。

〔Ⅱ〕臨床講義

續發緑内障に就て

著者: 畑文平

ページ範囲:P.85 - P.87

1.緑内障性虹彩炎(Iritis glancomatosa)
O.K 62歳,女子,農,初診2月13日
 既往症約3年前より兩眼虹彩炎に罹り醫療を受けたるも輕快せず,白内障を合併して左眼は遂に失明し,眼球剔出手術を受けた。右眼は輕快したが1個月前から再發して視力不良となり,殊に2-3日前から片頭痛,嘔吐,食思不振等の全身症状を來した。

外傷後の緑内障のメカニズム

著者: 庄司義治

ページ範囲:P.87 - P.88

 外傷後におこる緑内障のメカニズムに就ては種々考へられるし又色々の説もあるので,臨牀例の詳細な觀察が望ましい。
 私の最近の1例は,50j女子で薪割りの時に本が右の眼にあたつて疼痛と視力障碍が來たと云ふ。外傷して10日後に初めて診察した。その時視力右0.03(0.1×−1.5D)左0.6(besser×+0.5D)左眼は他覺的に變化はない。

〔Ⅲ〕私の研究

角膜周擁毛細血管の諸種藥劑及び炎症に對する態度に就て

著者: 呉基福

ページ範囲:P.89 - P.91

 角膜には血管も無く,内被細胞で圍まれた淋巴管も證明されない。此の無血管,無淋巴管の膜に於て榮養問題が如何樣にして解決されてゐるかといふ事に就ては同じく無血管組織である網膜黄斑部の榮養問題と共に吾が教室の多年に亙る共同研究題目であつた。
 著者は此の問題に重要なる役割を演じてゐると考へられる角膜周擁毛細血管の詳細なる研究を生體顯微鏡的部門に於て擔當し成果を得たので茲に其の内容を報告する次第である。

〔Ⅳ〕私の經驗

水泳槽結膜炎に就て,殊に流行性角結膜炎との關係

著者: 大塚任

ページ範囲:P.92 - P.93

1,緒言
 毎年夏になつて水泳が盛になると,水泳槽使用者間に,水泳槽結膜炎の發生を見るが,昭和17年夏は殊に多數の患者が發生し,私も水泳槽遊泳後罹患した者46例,家族傳染者6例,合計52例の水泳槽結膜炎を觀察し得たので,之を總括的に觀察し,尚本症と流行性角結膜炎との關係に就て私見を述べる。

「ものもらい」の手術と「よーどちんき」

著者: 井上達二

ページ範囲:P.94 - P.95

 「ものもらい」は通俗語で,眼瞼にできる腫れ物を總稱する言葉であるが,こゝでは術語のHorde-olum (Hordと略)麥粒種とChalazion (Chalと略)霰粒腫の手術を取りあげて,筆を進めることにする。
 一般にHordの手術療法としては,なるべく痛くない樣にするはもちろんであるが,瘢痕を殘さぬ樣にすることは一層大切である。この病のごく初期には温罨法や點眼などで時期を見送ることもあるが,既に膿點が見えて來れば,その頂點を鋭利なGraefe刀で一突き突くだけに止めることがある。切ると云う程でもないから,手術を好まぬ子供などでも,あつと云う間に處置は濟んでしまう,排膿を促し經過を短縮するためである。しかしその切り口は自然に破れて來る孔よりも大きくならぬ樣に注意する。その翌日もし硬い膿が創口に引つかかつて,排膿を妨げて居れば,1-2囘小鋭匙でその膿だけを抄い出すことも,稀には要するが,普通は掻把せずとも,そのまゝで治つてしまう。

〔Ⅵ〕温故知新

中村文平博士の近況

著者: 宇山安夫

ページ範囲:P.109 - P.110

 中村先生は一昨年3月の大阪大空襲の前に東區伏見町の診療所を引拂はれて,吹田の御自宅へ移られました。それから間もなく伏見町のあの界隈は灰爐になつてしまひましたから,今から思ふとよくも早く引さ上げられたものだと思ひます。あそこの診療所は内科の福島教授が住んでゐた家で,先生の師匠の水尾博士が住んでゐられた診療所跡から1町と距てぬ距離にあつたことも,洵に不思議な因縁であります。吹田のお家は庭も廣く餘程先生のお氣に入つたと見えて,庭のそここゝに咲く草木の花日記をつけて,時には醫局の書飯時に披露されたり,同窓會誌に書かれたり,あの家が僕の死に場所だなど洩らされたことを記憶してゐます。そこで暫く來る患者を勃々診て居られた樣でしたが,空襲が日に増し烈しくなつたので,到々長野の御郷里へ引き上げてしまはれました。
 當時は空襲の烈しい最中であつたので,私も御郷里へ歸られた模樣は詳しく知ることが出來ませんでした。幸ひ吹田の御自宅は戰災から免れ,それ以來ずつと弟さんがそこの留守居をしてゐられます。

最近の越智貞見先生

著者: 藤山英壽

ページ範囲:P.110 - P.112

 御退職後の越智先生の御動靜を書くようにという御依頼なので,短文をものして責をふさがしていたゞくことにする。
 先生は昭和17年3月末日を以て,停年制により北海道帝國大學醫學部を圓滿に御退職になつた。そしてその翌日からせつせと研究室通いをお始めになつたのである。違つたところは,常然のことながら,教授會とか講義とかと關係がなくなられたということだけである。そしてそれだけ研究室でお見受けする時間が多くなつた。こうして解放されたことを心がらお喜びの風であつた。研究室でだけの明暮れ,これは先生が最も愛着をおぼえて居られる生活であろうと思われる。しかし解放されたと言つても,昭和17年は引續き講師として診療にだけは關係して居られたのである。

基本情報

臨床眼科

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1308

印刷版ISSN 0370-5579

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