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雑誌目次

雑誌文献

臨床眼科11巻10号

1957年10月発行

雑誌目次

日本トラホーム予防協会会誌

台灣に於けるトラコーマ集団治療成績(第1報)

著者: 沈啓文 ,   張栄茂 ,   陳振武 ,   施振押

ページ範囲:P.55 - P.57

 1)台北市に於ける各学校生徒のトラコーマ有病率及びTerramycin又はAureomycm軟膏(1日4回点入法)による治療成績。
 Terramycin,Aureomycinがトラコーマ治療に画期的効果をもたらすものである事は,今や周知の事実であつて,多くの報告が見られるが,著者等は,今回,台湾に於けるトラコーマ予防治療を開始するに先だち,台北市内の国民学校の学童組,男子師範学生組,女子師範学生組,師範大学学生組の,年齢,性別を異にせるトラコーマの罹患率を調査し,更に1%Terramycin Ointment又は1%Aureomycin Ointmentによる集団治癒率を比軟検討して見た。

Trachomaの発病に関する最近の三井氏の説に対する疑義,特に急性,慢性と云う言葉について

著者: 窪田靖夫

ページ範囲:P.59 - P.61

 Trachoma (以下Tr.)が急性に発病するか,慢性に発病するかと云うことは,最近内外に於いて活発に論議されている処であるが,この場合の急性,慢性と云う言葉の解釈に柳か混乱があり,国内に於いても,又対外的にも誤解の因となつている様に思われる。殊に我が国に於けるTr.急性発病説の首唱者である三井幸彦氏の所説に柳か理解し難い点があるので,其の疑問を述べて三井氏の答を期待し,これ等の言葉の上の混乱を少しでも整理しておく事は今後の混乱を避ける為にも是非必要と考えるものである。

徴兵検査より観たる「トラホーム』に就て—久留米師団管内

著者: 南熊太

ページ範囲:P.61 - P.65

緒言
 日支事変及び大東亜戦争に際して,小倉陸軍病院及び久留米陸軍病院に応召中に,徴兵検査及びその他の色々の検査に於ける眼の検査を相当多数の人に就て行う機会があつたのであるが,今回は徴兵検査より観たる久留米師団管内のトラホームに就て報告せんとするものである。

乳幼児トラコーマ検診成績より観たる学童トラコーマ対策について

著者: 南熊太 ,   河野格

ページ範囲:P.66 - P.70

 学童「トラコーマ」の予防,治療の対策を考える時先ず問題となすべきは「トラコーマ」の伝染は何時頃起るものであるが。即ち小,中学校在学中に伝染を受けるものであるか,或は入学前に既に「トラコーマ」にかかつているものであるかと云う問題である。
 私達当時の久留米医大眼科教室員が検査した久留米市内学童「トラコーマ」でも小学校第1学年の者にて既に可なりの%にトラコーマが認められるものにして,即ち入学前より「トラコーマ」を持つて入学して来たことを想像される。そこで久留米市の乳児(生後満1年未満のもの)(特定の赤ん坊会とか,優良児表彰のための検査ではなく市役所,保健所等の通達,世話にて乳幼児全員検査のもの。)を検査した処,第1表に示す如く乳児にても可なり高度の%を示しており,小森野,長門石校区(共に筑後川にて囲まれた形であり日本住血吸虫症の多いことで有名な地区,共同浴場が多い)にては夫々66.6%,54.4%を示しており西国分,東国分,上津校区の如く市の周辺部にして新たに市に編入された農村地帯にては可成り多く,日吉,京町,金丸,篠山校区等旧市にして市の中心の商店街地区にては少いのであつた。

ロイコマイシンによるトラコーマ集団治療及びそのアレルギーについて

著者: 三宅正夫

ページ範囲:P.71 - P.81

 ロイコマイシンは北里研究所秦藤樹氏が放線状菌Streptomyces Kitasatoensis Hataから分離した新抗生物質でその性質と有効範囲はエリスロマイシン,カーボマイシン等に近いがそれ等とは異なつた物質であると云はれて居り,最近トラコーマ(以下トと略す)治療に効果ありとの報告を見る。本剤の長所は酒石酸塩が可溶性で患者の自宅点眼に便あり,然もその溶液は安定でpH4以上では室温で3カ月間殆んど力価が変らない。酒石酸塩化溶液のpHは50mg/ml…4.22,1mg/ml…5.04,10mcg/ml…6.23である。0.5%生食溶液のpHは5.4とされて居る。
 私は昨年夏神奈川県H市内の某小学校(以下H校と略す)の学童を集団検診した結果疑ト乃至トと思われ,治療を要すると認めた者に各種抗生剤を使用してその治療効果を検討した事があった。その中69名にロイコマイシン(以下L.Mと略す)を使用したがその副作用が甚だ高率である事を認めた。更にその後同県A市内の某女学校(以下A校と略す)トラコーマ生徒にL.Mを使用して主としてその副作用につき調査して見たが一応こゝに報告しようと思う。

連載 眼科図譜・36

須田卓爾から須田哲造への手紙と須田哲造の論文

著者: 須田経宇

ページ範囲:P.1235 - P.1236

 今回書類を整理中父故卓爾が明治26年5月14日留学先独国Heidelbergから祖父故哲造へ出した手紙が出て来た。その中の白内障に関するところをお目に掛け(第1図)併せて哲造の「内障翳手術」なる論文が既に古く(明治15年,1882年)印刷されていたことを御紹介する(第2図)。その白内障に関する手続のところは
 前略……眼科クリニツク上にては別段珍説も無之候へ共先日カタラクト手術の際(プリワート患者にして他生徒の傍観を禁ぜり)始めて先のエナ大学教授クーント氏の発明せる水晶嚢切開刀を目撃致し申候,既に御承知も有之候事と存候へ共一寸申上候,又御入用と被仰はば早速御送り申べく候,此の機は尖端に鋭歯を有する鑷子に御座候,即左図を御参照被下度候……後略(第1図参照)

綜説

色の表示と色彩調節

著者: 松尾治亘

ページ範囲:P.1237 - P.1244

 一昨年,私は本誌上に発表した,「色の調和に就いて」と題した論文の中で,色彩調節に就いても聊か触れたのであるが,今回与えられた機会に本題に関して少しく申し述べる事とする。
 色彩調節に就いて記述する前に,色の表示法,之は色彩調節に当つては是非必要な事項であるので,先ずその概略を申し述べる。

臨床実験

網膜色素変性症と停止性夜盲との関係についての補遺

著者: 本多英夫 ,   山本まち子

ページ範囲:P.1245 - P.1249

緒論
 昭和27年眼科臨床医報誌上に,著者の一人本多は,網膜色素変性症と狭義先天性停止性夜盲との関係を示す夜盲の一型式,として,当時私達の調べた文献では対応する記載のない型式の二症例に就いて報告した。その概略は,
 第1例視視力右0.5,左0.6共に矯正不能で,視野は明処で白に対し約20度の求心性狭窄,色神石原表で正常,眼底は定型的な網膜色素変性症である。

輻輳麻痺を伴う外傷性ノイローゼの1例

著者: 菅原叔子

ページ範囲:P.1251 - P.1253

 頭部外傷後の眼球運動障害は近年大いに注目され多数の報告例が見られるが,輻輳麻痺を合併する症例はいまだ少数であり,又外傷性ノイローゼに伴う眼症状に就いても輻輳麻痺を見る事は稀のようである。
 私は最近,後頭部打撲後に輻輳麻痺を発現し,その後の経過に於いて漸次典型的なノイローゼ症状を合併した症例を観察し,その発現機序並びに相関関係に就いて聊か検討を行つたので茲に報告する。

移植眼球並に摘出眼球における瞳孔の対光反応について

著者: 秋谷博

ページ範囲:P.1255 - P.1256

 先年,幼若な蛙の眼球移植実験を行い,移植後第11日〜第29日より(最高第54日迄の間)移植眼瞳孔に対光反応を認めこれを視的反射弓の恢復によると考えた所,先頃,萩原氏は,本誌その他において,摘出眼球の瞳孔運動について一連の実験を行い移植眼球の対光反応は摘出眼球瞳孔に起るそれと同一のもので視的反射弓によるものではないと述べられたので,この点に関し2,3の考案を述べたいと思う。

脊髄腔内空気注入が奏効したと思われる球後視束炎の1例—多発性硬化症との関係

著者: 春田長三郞 ,   楠研二 ,   田岡昭二

ページ範囲:P.1256 - P.1259

 球後視束炎の病因論に就いては,桑島の主唱以来多発性硬化症が1)2),従来最も重要視されて来たビタミンB1欠乏症に大きな揺ぎを与えているが,一方本疾病の原因的要素が多様性を有していることも現在否定し難い所である3)
 本症例は両眼性の定型的球後視束炎と診断されたもので,一側の腹壁反射を欠き,一側の膝蓋腱反射の亢進を示したものであるが,背髄腔内空気注入を契機として,急速な視力回復を見た。「多くの神経障碍症状がしばしば機能的回復を示すことは,多発性硬化症の特長であるから,殊殊治療の効果判定に頼つてその原因を推測することは,多発性硬化症を除外する根担になり得ない」(桑島)1)と云う事を充分考慮しつつ,本症例の経過並びに原因を述べて見たい。

トノグラフイーの臨床(第5報)—眼圧日差に就て(その1)

著者: 景山万里子

ページ範囲:P.1259 - P.1270

I.緒言
 眼圧に日差があり,特に緑内障患者に日差測定の重要なる事は,現在周知の事実となっている。これは1904年Maslenikowが発見して以来,Köllner (1916),Thiel (1923,1925),Löhlein(1926)等の業蹟によつて確立されたもので,眼圧は早朝起床前に最も高く,その後,就床迄漸次下降するという見解が一般に認められていた。その後Hagen (1924),Sallmann u.Deutsch (1930),Cordes (1937),Downey (1945),Kellerman(1947),Reese (1948)等の追試があり,更にLangley u.Swanljung (1951)によつて型についての修正が行われた。日差の値については,正常値の限界を略々4〜5mmHg (S)とするのが多くの研究者の認める所となつているが,緑内障については尚,かなりの異論がある。
 一方,眼圧日差と,房水流出,産生の関係を調べたものにtonographyによるGrant (1954),Roetth (1954),Horwich u.Breinin (1954),Stepanik (1954)の報告があるが,我が国では岸本氏が房水静脈についての論文(1956)で,これに触れているのみである。

プレドニゾロンの眼科的応用

著者: 湖崎弘 ,   坂口一之

ページ範囲:P.1270 - P.1274

1.序
 薬物療法の最近の進歩の中で最も大きいものの一つは,コーチゾン等の一連の副腎皮質ホルモンであろう。殊に膠原病等に対する基礎的な治療面に於て一新紀元を画したと云える。
 メイヨー・クリニツクのHenchがコーチゾンを最初に人体に使用し,その抗リウマチに輝かしい成績を納めたのは1948年で,その後各方面のステロイドホルモンの研究は目覚ましく,コーチゾンの合成,更に新しい合成ホルモンの出現が予測され,天然ホルモンに優る新しい合成ホルモンが次々と現われている(第1表,第2表)。

コルトシン(Cortocin)軟膏の眼瞼炎及び眼瞼縁炎に対する治療効果

著者: 市岡悦子

ページ範囲:P.1275 - P.1278

I.緒言
 1933年頃よりKendall,Reichstein等が副腎皮質ホルモンの化学的研究を行い極めて多数のステロイドホルモンが結晶として抽出された。その後Hench等が臨床的にCompound E (コーチゾン)の慢性リウマチに対する卓効を報告して以来,俄然重要視されるに至つた。次いでCompo-und F (ハイドロコーチゾン)が強い抗炎症性作用,抗アレルギー性作用を有する副腎皮質ホルモンの1つとして,コーチゾンより更に強く,且つ広範囲に効果を有すものとして注目されている。
 眼科領域においては,1951年池田教授の綜説発表以来,諸報告例相次ぎ,抗生物質に優るとも劣らず重用されている。ところで眼瞼炎,眼瞼縁炎は一見簡単に思われる疾患ではあるが,諸種の治療に執拗な抵抗を示すものが多い。之等の疾患に対するコーチゾン療法は,文献的に見ても充分であるとは云えない現状である。

水平斜視の手術について

著者: 佐藤勉 ,   加齢和男

ページ範囲:P.1279 - P.1293

I.前書
 以前我々は水平斜視の手術は次の如く行つて居た。すなわち強い筋に後転(筋を鞏膜に縫合せず)を行いその力を弱め,これに斜視角X度の効果を期待する。またMeller (J.Meller,J.Böck:Augenärztliche Eingriffe,Wien)の方法で作用の弱い拮抗筋に前転術を施してその力を強め,前転にはY度までの効果を期待する。単一な手術では効果不足な場合が多いから,両者を併用してX+Yの矯正量を獲得する。手術に当り前転糸を締める時に患者に両眼で正面を見させ,手術者の目測で視線が平行になるまで糸を締める。Mellerの前転法は筋がずれて効果が若干減じるものであるから,幾分の後退を予想してやや過矯正気味に糸を締めておく。
 佐藤は1954年の外遊で欧米の手術を見て廻つたところ,斜視は全部全身麻酔で行われて居た。これでは正面をみさせて糸の締め具合を加減する事は全然出来ない。ロンドンのT.Keith Lyleに至つては手術後斜視眼がどう向いたか改めようとしなかつた。

v.Hippel-Czermak病の1例

著者: 瀨尾孝之 ,   高石敏

ページ範囲:P.1295 - P.1297

 v.Hippel-Czermak病は網膜に極めて特異な変状,すなわち網膜動静脈が極度に拡張して健常網膜血管の数倍の太さとなり,その走行も迂曲蛇行して宛ら長蛇の這えるが如き観を呈すること,及び拡張した動静脈血管の色調は健常眼底の動静脈に甚だ相似して両者の識別が容易ならざること,さらに網膜表面にはやゝ隆起した赤色嚢腫状物(血管腫)を認め,動静脈血管が之に連絡していること,眼底が一般に帯黄灰白色を呈し所々,ことに周辺部並に血管附近に大小不規則な白色の斑点(グリアの増殖)を認めることなどの特徴を有する網膜疾患で,1903年v.Hippelにより詳細に報告されたものである。v.Hippel以前にもE.Fuchs (1882),Darier (1890),Treacher・Co-llins (1893),Goldzieher (1899)らの報告があるが,これらはただ概して珍らしい眼疾患として取り扱つたに過ぎないが,1903年v.Hippelが本症に就て精細に発表し,同氏はさらに1911年再び解剖所見に就て詳報したことにより爾後v.Hip-pel病と呼称されるようになつた。これより先Czermakもその解剖的所見を報告しているためv.Hippel-Czermak病又はCzermak-v.Hippel病と呼ばれている。

臨床講義

視束疾患

著者: 桑島治三郞

ページ範囲:P.1298 - P.1302

供覧症例(1957.6.25)
 〔第1例〕引○桂○,21歳,女。
 病歴:家族歴と既往歴に特別なことはない。

眠科新知識

最近の電気眼底血圧計(その1)—機械構造及び電気回路に就て

著者: 植村操 ,   川嶋菊夫

ページ範囲:P.1303 - P.1306

緒言
 測定器具の生命はそれが持つ忠実度如何にあり,これが目的に沿つて向上すればそれ丈け信頼性を持つ事となる。慶大式電気眼底血圧計も其後の研究及び臨床上の要求により変化して来た。そして幾分著者等が望んだ最終の姿に近づきつつあると確信する。飜つて見ると最初著者等が発表した電気眼底血圧計とは姿と内容に於いて大いに変化した,又之からも変るであろうが,これも日進月歩する科学の一つの現れとして観て載きたい。今日ここに一段階を劃したと考えられるので最近の電気眼底血圧計の姿を報告する。

私の経験

外傷に際し眼の鑑定例—両眼青色点状白内障例

著者: 南熊太

ページ範囲:P.1307 - P.1308

 飲酒,酪酊せる者より,顔部を強打されて受傷せしものの眼に就ての鑑定を昭和16年,当時の陸軍軍法会議より命ぜられ,鑑定せし場合の記録より「私の経験」として記載せんとするものである。
 大正7年生の従来健康なりし男子。昭和16年8月17日18時5分,飲酒,酩酊せる者より顔面を,鉄製の太き釘拔にて,強打されて受傷したと言う。

談話室

欧米旅日記(其の五)

著者: 萩原朗

ページ範囲:P.1309 - P.1317

 ニユーヨークからロンドンに向うPAAの航路は,暫くはLong Islandの海岸に沿つて進みますが,ボストンの東方海上で,北アメリカ大陸に別れを告げ,幽かに星の瞬く北大西洋上の闇を縫つて,真一文字に東進します。機内は満員で,生憎3人掛けの真中に挾まれたので相当に窮窟です。窓際の人は,何かの学会に出席する人でもあるのか,無津ケ敷い数式の入つた原稿を,頻りに調べています。スチユワーデスが廻つて来て,一通り寝具の世話を済ませて行くと,間もなく大部分の灯が消えました。
 何時間睡つたでしようか,機から地上への信号の音で眼を覚して見ますと,夜はとつくに明け放れて,窓下には英国の山や平野が展開して居ります。まだ醒めやらぬ夢心地で,ロンドン郊外の空港に降立つたのは,9時25分でした。ニユーヨークを発つたのが昨夕の5時30分でしたから,時計の面では,約16時間かかつているわけですが,大西洋上の時差が5時間ありますから,夏時間を考慮に入れて正味10時間の滞空ということになります。税関では,「英国の貨弊を持つているか。」と聞かれ,「ノー」と答えたたけで簡単に済み,直ちにバスでVictoriaAir Terminalに向いました。

南米移住者とトラコーマ(其の1)

著者: 大石省三

ページ範囲:P.1317 - P.1318

 我国の南米移民はかなり古く,私の子供の頃(大正10年前後)村の役場の掲示板に「さあ行こう,一家をあげて南米へ」と書いた,ポスータのはられているのを憶えている。と同時に当時既にトラコーマ患者の入国が禁止され,無情にも雄志空しく送り帰えされたりしたと云う。石川達三著小説「蒼怋」を待つまでもなく我国の移民史とトラコーマは因果のきずなにつながれながら現在に到つていると云える。戦後再び南米移住(移民とは云わない)の問題が取り上げられ,昭和27年12月28日第1回のアマゾン移住者5千名を乗せたサントス丸が,神戸を出帆してから,年を追つてその数を増し,ブラジルのみならず各中南米諸国に移住する人々は毎月1〜2回の船便を利用して渡洋しつつある現況である。その主なる移住たるブラジル入国者数を見ると1946〜1954年の9力年間の統計では,ポルトガル,イタリー,スペイン,ドイツに次いで我国は第5位を占め,1954年の1年間にはドイツを追越して第4位に進出しているのである。この傾向は漸く政府,海外移住協会の斡旋,指導と共に近年30〜40年の彼の地の生活で所謂成功者となつた人々の久々の帰国談等に依り我国のすみずみまで一大関心を持たれつつあり,狭隘な国土に過密人口をもてあます我国としては人口問題の解決にも,将又経済発展の上からも重要国策の一つとして慎重に取扱う必要がある。私はここに改めて開拓医学の必然性を提唱するものである。

集談会物語り

九州眼科集談会に就いて

著者: 南熊太

ページ範囲:P.1319 - P.1320

 昭和20年終戦後より,昭和29年までの九州眼科集談会に就て,紹介しよう。昭和20年,昭和21年は,戦後まだ開会に至らず。会員名簿記録など総て戦災にて焼失せし由であり,九大の御世話により,昭和22年,16回集談会を,開催する事が出来る様になつたのは幸であつた。

第26回九州眼科集談会に就て

著者: 南熊太

ページ範囲:P.1321 - P.1322

 昭和31年6月10日,長崎大学医学部北講堂に於いて第26回九州眼科集談会が行われたが,本年からの初めての試みとして,集談会の前日である6月9日に懇親野球大会が行われたことと,そしてこの野球が懇親に非常に役立つた事はすでに述べた。それで今日は10日の集談会の事についてのみ記することにする。会費に就ては一般会費200円,写真代100円,昼食代100円,懇親会費400円であつた。猶受付近くに鼈甲細工,絵葉書その他長崎の土産物等の出張販売があつていた。
 8時30分開会。司会者広瀬教授の挨拶の後,広瀬教授座長となり,第1席から第7席迄一般講演,長崎に於ける原子爆弾被爆者の調節力について,原爆被爆者の眼外傷について,諸種治療に頑強に抵抗する難治の角膜疾患の症例等の講演があつた。

基本情報

臨床眼科

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1308

印刷版ISSN 0370-5579

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