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文献概要
追悼
中泉行正先生を偲んで
著者: 桐沢長徳1
所属機関: 1日本専売公社東京病院
ページ範囲:P.354 - P.354
文献購入ページに移動 中泉行正先生とのおつきあいは,筆者が大学を出て石原忍先生の眼科教室に入つた昭和6年以来であるから,約50年に近い年月といえる。先生は大正11年(1922)に医学部を卒業されたので,筆者の9年先輩に当られるわけで,いわば大先輩であつた。従つて入局当時は東大眼科の同窓会や,医局の催しでお目にかかるぐらいで,親しくおつきあいを願えるという間柄ではなかつた。
しかし,昭和12年に筆者が石原先生の下で助教授を拝命してからは教室の種々な問題について先輩との間の交渉役のような役目を引き受けることになり,中泉先生とも頻繁にお会いする機会があるようになつた。当時の先輩の中で石原先生の信任の最も厚かつたのは黒沢潤三博士であつたが,同博士は医政にも広く活躍をされた方で,後には日本医師会長にもなられたぐらいであるから,何かにつけ石原先生の相談役になつておられた。その黒沢博士に常に密着して「影の形」に対するように行動しておられたのが中泉先生であつた。黒沢博土は中泉先生の1年先輩であつたので,恐らく中泉先生は眼科教室員として入局後,何から何まで黒沢博士の指導を受けられたのであろう。従つてお二人は兄弟のような形で万事行動を共にされたようである。その黒沢博士が案外早く,病魔にたおれられたので(昭和41年),中泉先生はそのあとの多くを引継がれることとなり,日本眼科医会会長になられたのもその一つであつた。
しかし,昭和12年に筆者が石原先生の下で助教授を拝命してからは教室の種々な問題について先輩との間の交渉役のような役目を引き受けることになり,中泉先生とも頻繁にお会いする機会があるようになつた。当時の先輩の中で石原先生の信任の最も厚かつたのは黒沢潤三博士であつたが,同博士は医政にも広く活躍をされた方で,後には日本医師会長にもなられたぐらいであるから,何かにつけ石原先生の相談役になつておられた。その黒沢博士に常に密着して「影の形」に対するように行動しておられたのが中泉先生であつた。黒沢博土は中泉先生の1年先輩であつたので,恐らく中泉先生は眼科教室員として入局後,何から何まで黒沢博士の指導を受けられたのであろう。従つてお二人は兄弟のような形で万事行動を共にされたようである。その黒沢博士が案外早く,病魔にたおれられたので(昭和41年),中泉先生はそのあとの多くを引継がれることとなり,日本眼科医会会長になられたのもその一つであつた。
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