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追悼
桐沢長徳君を偲んで
著者: 河本正一1
所属機関: 1日本ウイルス眼炎トラホーム予防協会
ページ範囲:P.268 - P.268
文献購入ページに移動 桐沢君は昭和6年東大眼科に入局されましたが,この年には8人もの入局者がありました。今のこつている国友・田野辺・小生も一緒でした。当時は臨床研修2年がすむと医局を出て,就職したり,博士論文作製の研究をするという制度でした。世間知らずのものが,8人と大量に入つて来たので,医局が混乱したのでした。その収拾には桐沢君は大へんつくされたのでした。
桐沢君は入局3年後,岩手医専教授に任ぜられましたが,眼科の神様という評判が立ちました。石原教授のご信任が厚く,昭和12年東大助教授になられました。その頃,今はない松本神三郎君と一緒に,時々学士会館で撞球を楽しんだことが思い出されます。私事ですが,昭和13年の関西水害の時,弥生町のお宅から,下谷清水町の小生宅まで,ふとんをご持参になつて,お見舞に来られました。玉のようなお人柄に接して,看護婦さんに至るまでみんなの者が敬愛しました。最近のことでしたが,台湾の陳新連氏のお世話もなさつていました。
桐沢君は入局3年後,岩手医専教授に任ぜられましたが,眼科の神様という評判が立ちました。石原教授のご信任が厚く,昭和12年東大助教授になられました。その頃,今はない松本神三郎君と一緒に,時々学士会館で撞球を楽しんだことが思い出されます。私事ですが,昭和13年の関西水害の時,弥生町のお宅から,下谷清水町の小生宅まで,ふとんをご持参になつて,お見舞に来られました。玉のようなお人柄に接して,看護婦さんに至るまでみんなの者が敬愛しました。最近のことでしたが,台湾の陳新連氏のお世話もなさつていました。
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