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これら3書は各項目に従って,その症状(證候),起因(原由),治法あるいは手術について順次説明し,「西説眼科必読」にはさらに良斎の補足を[按],[補]の形で付け加えられている.また,この3書は訳文において多少の差異が認められるものの,内容的に同じであるところより蟄篤満原著「外科書」の福鳥杜蘭訳本を各別々に翻訳したものと解するが,その翻訳時期については明らかでなく,高良斎は文政11年(1828)9月(高於菟三,高壮吉著「高良斎」),永章は不明,箕作阮甫が翻訳したのは関場不二彦氏によれば天保10年(1839)以後のことと推定されている(阿知波五郎氏 日本医史学雑誌12:2)といわれ,何れも刊行はされず写本で伝えられている.
この「西説眼科必読」はその後記によれば,小川剣三郎博士が大正5年11月10日,仙台の半沢良作氏が蔵する所のもの(天保14年7月5日校正,良斎の門人より借覧し転写したものならん—小川剣三郎氏談)を借りて複写した.次にそれを高於菟三氏が大正6年1月25日浄写して置いた.それをさらに,大正12年9月1日の大震災で小川剣三郎博士の複写したものが焼失してしまったため,大正15年5月17日(辛未11月28日起手 辛未12月29日写了)小川剣三郎博士が高於菟三氏蔵本より複写したものと識されてあり,松屋製300字詰原稿用紙190枚にペン書の全1冊 (25.5×17.5cm)和綴本である.
この「西説眼科必読」はその後記によれば,小川剣三郎博士が大正5年11月10日,仙台の半沢良作氏が蔵する所のもの(天保14年7月5日校正,良斎の門人より借覧し転写したものならん—小川剣三郎氏談)を借りて複写した.次にそれを高於菟三氏が大正6年1月25日浄写して置いた.それをさらに,大正12年9月1日の大震災で小川剣三郎博士の複写したものが焼失してしまったため,大正15年5月17日(辛未11月28日起手 辛未12月29日写了)小川剣三郎博士が高於菟三氏蔵本より複写したものと識されてあり,松屋製300字詰原稿用紙190枚にペン書の全1冊 (25.5×17.5cm)和綴本である.
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