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連載 あのころ あのとき・24
あの時わたしは
著者: 中尾主一1
所属機関: 1奈良県立医科大学
ページ範囲:P.1760 - P.1761
文献購入ページに移動 小学校,旧制中学校,旧制高校と軍国主義の強い熊本で育った私には,世界大戦の時ほど社会情勢に意外な印象を受けたことはなかった。世間一般には,武士道の精神を貫ぬこうと宣言されてはいたものの,必ずしも徹底しておらず,西欧の植民地主義と変わらない傾向があったことは否定できなかった。また軍国主義のため,科学的研究結果も,軍人の思うままに操られているのではないかと考えざるを得ない状況もあった。細かいことは後述の図書に記述しているので控えるが,当時の社会情勢は,東大受験をやめて阪大受験に変えた動機にも関係している。
当時,戦地には行かずとも,内地においてでも人の生死には無関係ではなかった。ことに忘れられないのは,昭和20年3月の大阪大空襲の時のことである。当日は,病院の介護隊として2年生らが集まり,隣の電報局まで土煙の中を連絡に走らされた。ちょうど1キロメートルほど北に大阪駅があって,1トン爆弾が投下されたということで,負傷者が何十人となく運び込まれてきて,目の前で何人もの人々が亡くなっていった。なかでも忘れられないのは若い学生に付き添っていた父親の姿である。その学生の入学準備で大阪駅を通った時に爆弾投下に遭遇したらしく,父親の叫びが聞こえてきた。
当時,戦地には行かずとも,内地においてでも人の生死には無関係ではなかった。ことに忘れられないのは,昭和20年3月の大阪大空襲の時のことである。当日は,病院の介護隊として2年生らが集まり,隣の電報局まで土煙の中を連絡に走らされた。ちょうど1キロメートルほど北に大阪駅があって,1トン爆弾が投下されたということで,負傷者が何十人となく運び込まれてきて,目の前で何人もの人々が亡くなっていった。なかでも忘れられないのは若い学生に付き添っていた父親の姿である。その学生の入学準備で大阪駅を通った時に爆弾投下に遭遇したらしく,父親の叫びが聞こえてきた。
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