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雑誌目次

雑誌文献

生体の科学56巻4号

2005年08月発行

雑誌目次

特集 脳の遺伝子―どこでどのように働いているのか

海馬における翻訳因子の発現とその発達変化

著者: 武井延之 ,   稲村直子

ページ範囲:P.262 - P.265

 遺伝子発現は,ゲノム上のDNA情報を転写,スプライシング,翻訳によってRNA情報を介して蛋白質へと変換している一連の過程である。それぞれのステップにおいて厳密で巧妙な調節機構があり,時には協調的にまた時には独立に調節を受けている。転写調節の研究に比べて遅れていた翻訳調節の研究も近年急速に進んできた。増殖性の細胞では翻訳の調節は細胞周期と密接な関係があり,成長因子やホルモン,グルコースやアミノ酸などの増殖シグナルによって活性化される。ニューロンは増殖しない細胞なので,おそらく活発に活動する際にシナプス機能蛋白質などの量を増やすために活性化するのではないかと考えられていた。実際,蛋白合成阻害剤を用いた薬理学的実験から,神経の可塑的変化である長期増強,長期抑圧などのパラダイムや個体での学習・記憶過程に新規の蛋白合成が必要だという報告がなされている1)

 一方,われわれは初代培養神経細胞での翻訳調節機構について研究を行い,神経栄養因子であるBDNF(brain-derived neurotrophic factor)が神経細胞のシナプス近傍で翻訳開始過程を活性化するメカニズムについて報告してきている2-4)。また,空間学習獲得時に翻訳過程の活性化がおこることも見出しており(未発表),神経系での翻訳調節機構と脳高次機能の関連に注目があつまっている5)

大脳皮質形成時に見られる領域および層特異的な遺伝子発現とその意義

著者: 井上高良

ページ範囲:P.266 - P.271

 脊椎動物の脳・神経系はそれぞれの生活環境に適応すべく多様な形態機能変化,つまりは「進化」を遂げてきた。例えばわれわれヒトを含む哺乳類の前脳部には他の脊椎動物に認められない細胞組織構築で大別される「大脳(新)皮質:cerebral(neo)cortex/isocortex」注)という脳領域が存在し,この領域の中に霊長類だけが前頭連合野とよばれる特殊化した機能区画を有している。さらにわれわれヒトは高度な個体間コミュニケーションを司る皮質領域,「言語野」を左脳半球優位に発達させており,これがヒト固有の複雑な行動様式や記憶,認知能力ひいては文字,文化,社会形成の源になっているといっても過言ではない。また,ヒトでは大脳皮質形態形成に異常をきたすため行動,認知,精神の発達や機能障害を引き起こす先天性疾患が数多知られている。

 本稿では大脳皮質を特徴づける細胞組織構築(6層構造)およびその領域特異性に対応して発現する遺伝子群についてふれ,実際これら遺伝子群が皮質発生過程においてどのような役割を担うのか,そしてそういった遺伝子群の発現や機能をもとに,ヒト大脳皮質の先天的形態異常を含めた遺伝子発現プログラムの進化変遷過程をどこまで説明できるようになったのか,最新の知見をまじえながら概説する。

オーガナイザーFGF8シグナルを統合するIrx2遺伝子

著者: 松本健 ,   小椋利彦

ページ範囲:P.272 - P.279

 脳は形態学的にいくつもの領域に分割でき,それぞれの領域は独自の機能を分担,保持している。トポロジカルに細分化された機能が協調し,情報を統合することで,脳は高次機能を発現することができる。したがって,形態的,機能的細分化と,ネットワークによる接続に基づく統合が高次脳機能の基盤となる。では,細分化の基礎となる脳の各領域はいかにして形成されるのだろうか。近年の研究成果から,脳の領域形成の重要な分子基盤の一つとして,外因性因子に対する神経上皮の応答性が挙げられる1)。本来,神経上皮は細胞自律的に固有の性質を持つわけでなく,オーガナイザーと呼ばれる領域からのシグナル(外因性因子)に刺激されて様々な形質を獲得する2)。シグナル自体の多様性や個々のシグナルの濃度など,多くの要因によって多様な神経細胞を生み出し,領域に独自の個性を持った分節構造を形作ると考えられる。神経発生学の目覚ましい進歩によりオーガナイザーの物質的な本体が同定され,その制御機構が徐々に明らかになった。

 興味深いことに,オーガナイザーによる刺激を受ける以前に,すでに神経上皮ではパターニングのシグナルを受けるための遺伝的環境が準備されている。このような,パターニングを先導する事象に関する概念としてプレパターンが提案された。われわれは,このプレパターンの概念を分子レベルで理解することが脳の領域形成を解明することに必須であると考え,ショウジョウバエのプレパターン遺伝子IroquoisニワトリホモログであるIrx2を単離した。そして,小脳形成過程における分子機能に着目して解析することで,高等動物の脳の発生に,プレパターンの概念がどのように展開されるかを確かめた。

転写因子Foxp1は脳のどのような部分のニューロンに発現しているか

著者: 森川吉博 ,   久岡朋子 ,   仙波恵美子

ページ範囲:P.280 - P.285

 中枢神経系の発達はニューロンやグリア細胞などの多種多様な細胞の産生により成り立っている。この発生過程は種々の遺伝子群が適切な時期に,適切な場所で発現することにより遂行される。この時空間的遺伝子発現は転写因子によりDNAレベルで厳密に制御されている。

 1990年,フォークヘッドドメインは肝細胞転写因子3(HNF-3;hepatocyte nuclear factor-3)とショウジョウバエのフォークヘッド遺伝子のDNA結合ドメインとの間にホモロジーがあることから発見され,ショウジョウバエから哺乳類にいたるまでよく保存された新しい転写因子の存在が示唆された1,2)。このファミリーのメンバーは細胞の分化や増殖の制御,パターン形成,シグナル伝達など非常に広範囲の役割を担っていることが報告されてきたが,近年,Foxg1(以前はBF-1と呼ばれていた)が終脳の発達の重要な調節因子であることが示された3,4)。さらに,ヒトFoxp2遺伝子の変異が重篤な言語障害や発語障害の患者において見出された5)。Foxp1とFoxp2はマウスのCC10とヒトのサーファクタントタンパクCのプロモータを抑制する遺伝子として発見されたが,これらの遺伝子は肺のほかに中枢神経系においても発現がみられた6)。今回,フォークヘッド転写因子,とくにFoxpファミリーについて概説するとともに,最近われわれが明らかにしたFoxp1遺伝子の中枢神経系での発現について述べ,その機能について考察する。

転写因子Otx2とCrxは網膜視細胞と松果体の発生をつかさどる

著者: 佐藤茂 ,   小池千恵子 ,   古川貴久

ページ範囲:P.286 - P.291

 物を見るのに,脊椎動物,無脊椎動物にかかわらず,生き物は目という器官を発達・進化させてきた。現代のカメラよりはるかに精密といわれるわれわれの目の発生も,それに関わる遺伝子群とそれらの制御という形でDNA上にプログラムされている。では具体的に,目の発生は分子レベルでどのようにプログラムされているのであろうか。目の中で光を実際に感受するのは網膜の視細胞と呼ばれるニューロンである。また,間脳の一部として発生する松果体も一部の動物種では頭頂眼として実際に光を感受することが知られており,網膜の視細胞とは進化的に非常に近い関係だと考えられている。しかし,これら光受容の主役である網膜視細胞ならびに松果体の発生のメカニズムは長らく謎であった。われわれは近年,視細胞と松果体の発生のメカニズムを転写因子CrxとOtx2の機能から明らかにしてきた。この二つの鍵となる転写因子に焦点をおいて,視細胞と松果体の発生についての最近の知見を概説する。

神経組織に発現する血小板由来増殖因子

著者: 笹原正清 ,   尾矢剛志 ,   石井陽子 ,   石澤伸

ページ範囲:P.292 - P.295

 血小板由来増殖因子(PDGF)は間葉系細胞あるいはグリア細胞に対する増殖因子として同定された。広範な種類の細胞分化や増殖に強い影響を与え,個体発生,腫瘍発生や創傷の治癒に重要な役割を果たすことが示されている。さらに,主として培養実験により神経系細胞への作用が示されており,近年では,特に神経伝達物質の機能を修飾する可能性が示されている。本稿では,われわれの研究を中心として紹介し,脳においてPDGFが神経賦活ないしは神経機能を制御する重要な因子であるとする仮説を提示する。

発達期の小脳プルキンエ細胞における25-Dxの発現―プルキンエ細胞が合成するプロゲステロンの作用機構

著者: 筒井和義 ,   坂本浩隆 ,   浮穴和義

ページ範囲:P.296 - P.302

 高次情報中枢である脳はコレステロールをもとにステロイドを合成していることが明らかとなり,脳が合成するステロイドはニューロステロイド(neurosteroids)と名付けられた。ニューロステロイドの作用を解析するには,脳のニューロステロイド合成細胞を明らかにする必要がある。筆者らの研究により,小脳のプルキンエ細胞(Purkinje cell)が脳の代表的なニューロステロイド合成細胞であることが見出された。さまざまなニューロステロイドを時期特異的に合成するプルキンエ細胞は,ニューロステロイドの作用を解析する優れた細胞モデルとなった。小脳皮質が形成される発達期にはプルキンエ細胞のプロゲステロン合成が高まる。プロゲステロンは,プルキンエ細胞の核内に局在するプロゲステロン受容体を介したゲノミック作用により,プルキンエ細胞の樹状突起を伸長させ,さらに棘シナプスの形成を誘導することが明らかになった。発達期の小脳では,このプロゲステロンの作用により神経回路の構築が促進されると考えられる。

 一方,最近の研究により,ニューロステロイドの膜受容体を介したノンゲノミック作用が注目されている。筆者らは,発達期のプルキンエ細胞にはプロゲステロンの核内受容体に加えて膜受容体候補タンパク質(membrane-associated putative progesterone-binding protein)である25-Dxが発現していることを見出した。発達期のプルキンエ細胞では,25-Dxはニューロステロイド合成に関与する小胞体とゴルジ体の膜構造に局在する。発達期のプルキンエ細胞が合成するプロゲステロンには,核内受容体を介したゲノミック作用と25-Dxを介したノンゲノミック作用により,ニューロンの発達,シナプス形成やニューロステロイド合成を調節する作用があると考えられる。

両生類の頭部形成にWntシグナリングはどのようにかかわるのか

著者: 道上達男 ,   浅島誠

ページ範囲:P.303 - P.310

 20世紀初頭,シュペーマンとマンゴルドによって初期胚のオーガナイザーが発見されて以来,脊椎動物のボディプランに関する研究が数多くなされてきた。これらの実験では両生類(主にイモリとツメガエル)の初期胚を用いられることが多かった。その大きな理由の一つは胚の大きさ(アカハライモリ:約2mm,アフリカツメガエル:約1.2mm)である。さらに,割球の粘性が高く,発生学の基本である移植実験を外科的手法により容易に行うことができる。これらの特徴を生かし,脊椎動物の初期発生,特に背腹軸・前後軸の決定に関して重要な基本的知見が得られてきた。

 もう一つ重要な点は,多少の相違点はあるものの,こうして得られた基本的なボディパターン決定機構はヒトを含む哺乳動物のそれと共通点が極めて多いことである。従って,両生類を用いた研究そのものが頭部形成を含むヒトのボディパターン決定機構解明に大きな寄与を果たすことが十分に期待される。

前脳形成における転写抑制因子Fez, Fez-likeの役割

著者: 日比正彦

ページ範囲:P.311 - P.318

 ジンクフィンガー遺伝子fezfez-likefezl)遺伝子は,もともと発生学的知識を基本として,アフリカツメガエル・ゼブラフィッシュの中枢神経前部に発現する遺伝子として単離された遺伝子である1,2)。ゲノム情報からfezfezl遺伝子は,魚類(フグ,ゼブラフィッシュ)から哺乳動物(マウス,ヒト)まで脊椎動物で広く保存された,新しい前脳・嗅覚神経特異的遺伝子ファミリーを形成していることが明らかとなった。近年のゼブラフィッシュのfezl変異体およびノックアウトマウスの研究から,fezfezlの前脳・嗅覚システム発生における役割が明らかになりつつある。本総説では,fezfezl遺伝子の単離のきっかけである,両生類・魚類での前脳形成の仕組みから,fezfezl研究の最近の知見を紹介する。

オレキシンの下垂体ホルモン分泌および性周期に及ぼす役割

著者: 村田拓也 ,   樋口隆

ページ範囲:P.319 - P.322

1 オレキシン

 2種類のオレキシン,オレキシンAとオレキシンBは,1998年にほぼ同時に二つのグループにより報告された1,2)。オレキシンはリガンドが同定されていない受容体(オーファン受容体)のリガンドとして分離され,摂食促進作用を示すことから,食欲という意のギリシャ語orexisを基に命名された。ほかのグループはセクレチンと相同性のある部分に注目し,視床下部由来のこのペプチドをヒポクレチン1とヒポクレチン2と命名した2)。オレキシンAとオレキシンBは,それぞれ33個と28個のアミノ酸残基からなり,分子量は3562Daと2937Daである1)。ヒポクレチンはそれぞれ39個と29個のアミノ酸残基として報告された。オレキシンAのアミノ酸配列はヒト,ウシ,ラット,マウスで同一であり,非常に保存されたペプチドである。オレキシンBはヒトとラット間では,2ヵ所異なっている。オレキシンAとオレキシンBは同じ前駆体(プレプロオレキシン)から産生され,相同性は46%である。オレキシン受容体には2種類のGタンパク結合型受容体であるオレキシン-1受容体(OX1R)とオレキシン-2受容体(OX2R)がわかっている。OX1RはオレキシンAに対する親和性がオレキシンBに対する親和性よりも高く,OX2RはオレキシンAとオレキシンBに対して同程度の親和性を持つ1)。オレキシン産生細胞は視床下部の外側,背側,そして脳弓周囲に局在し,脳の広範囲な部位に投射している。ラットでは大脳皮質,海馬,扁桃体,視床内側核,中脳水道周囲灰白質,中隔,縫線核,腹側被蓋核,青斑核,最後野,孤束核,脊髄などに投射している3)

依存性薬物による脳内遺伝子群の発現調節

著者: 舩田正彦 ,   佐藤美緒 ,   青尾直也 ,   和田清

ページ範囲:P.323 - P.327

 規制薬物および未規制薬物(脱法ドラッグ)の乱用は,若年層への拡大が表面化しており,わが国において大きな社会問題となっている。特に,覚せい剤であるメタンフェタミン(METH)の乱用は深刻化しており,METHの慢性的な使用により精神疾患を発症することが知られている。医療施設における薬物関連精神疾患に関する調査から,その発病に至る薬物としてMETHが50%程度を占め主要な原因薬物になっているのが現状である1)。こうした薬物関連精神疾患,薬物依存症の治療法の確立およびその治療薬の開発のために,依存性薬物による精神依存形成機構の解明が必要である。

 近年,薬物依存の発症機序やその病態について,脳内の遺伝子発現の変化という観点から精力的な研究がなされている。薬物依存関連遺伝子の同定は薬物依存の診断の指標となり,さらには原因遺伝子をターゲットにした遺伝子治療および新規治療薬開発への応用が可能になると予想される。薬物による遺伝子発現の変動を探索する方法として,近年開発されたDNAチップ法(マイクロアレイ法)が注目されている2,3)。マイクロアレイ法は同一条件下で多種類の遺伝子発現の解析が可能である。さらに,迅速にデータ解析ができるという特徴を有する。本法はゲノムプロジェクト後の全遺伝子情報を有効に利用するための技術として重要な役割を担っており,薬物依存形成の原因遺伝子の同定にも応用が期待できる。マイクロアレイ法を用いて,覚せい剤であるMETHの急性投与もしくはMETHの慢性投与によって変動する脳内遺伝子群の比較検討を行うことは興味深い。本稿では,現在までに行ったマイクロアレイ法を利用したMETHによる遺伝子発現の変動に関する解析結果について紹介する。

ダウン症候群モデルマウスの遺伝子発現解析―21番染色体トリソミーの意味

著者: 香月康宏 ,   押村光雄

ページ範囲:P.328 - P.335

 ダウン症候群(Down syndrome;DS)は21番染色体(Chr21)トリソミーにより生ずる先天性疾患であり,主な症状として,精神発達遅延,心奇形,特異的な顔貌,急性骨髄性白血病の発症頻度が高く,アルツハイマー病の早期発症の確率も高い1)。多くの表現型異常のなかで,必ず認められる異常はChr21トリソミーに起因し,必ず観察されるわけではないが一般集団よりも頻度の高い異常はChr21トリソミーに加え,遺伝的背景・環境要因・エピジェネティック不安定性が関与していると考えられる2)。では,なぜ20を超える多様な臨床症状がDSに存在するのであろうか。単にChr21トリソミーによる1.5倍の遺伝子量効果なのだろうか。'いつ'(時期特異的),'どこで'(組織特異的),'どんな' 発現異常を引き起こすのかが,種々の表現型異常発症のメカニズムを解明する上で重要である。表現型発症につながる 'どんな' 異常が引き起こされるかを図1にまとめてみた。Chr21トリソミーが引き金となり,1)Chr21上の単一の遺伝子が単一の表現型を引き起こす場合,2)Chr21上の複数の遺伝子が表現型を引き起こす場合,3)個々の遺伝子ではなくゲノムアンバランスそのものが表現型を引き起こす場合,があると考えられる(図1A)。'いつ' に関しては出生前もしくは出生後のある短い期間異常をきたして表現型を呈するものもあれば,長い期間異常をきたして表現型を呈するものもあると考えられ,個々の表現型で異なってくる可能性がある(図1B)3)。また,遺伝的背景,環境要因が同じでも異常な表現型が観察される場合とされない場合がある4)。この原因として,トリソミー状態によりエピジェネティック不安定性が引き起こされ,このことがいろいろな遺伝子発現をランダムに変化させて表現型異常の多様性を引き起こしていると考えられる。ゲノムアンバランスやエピジェネティック不安定性という概念は新たな仮説ではあるが,トリソミー症候群には多くの共通する表現型が存在することから2),注目すべき点である。

 表現型発症のメカニズムには上述したような複数の原因が考えられるが,原発要因(Chr21トリソミー)が次にどのような遺伝子発現の変化を引き起こし,最終的に表現型を引き起こすかという研究は,これまでChr21上の遺伝子のみに焦点が絞られていたことからあまり進んでいなかった。最近,われわれを含めいくつかのグループから種々のDSモデルマウスを用いて,表現型異常に直接または間接的に影響を与える可能性のある遺伝子・タンパク質がトランスクリプトーム解析やプロテオーム解析により同定されてきた。本稿ではトランスクリプトーム解析,プロテオーム解析から見えてきたChr21トリソミーの意味について紹介したい。

恐怖条件づけの分子生物学―恐怖条件づけに障害を持つ前脳特異的トランスジェニックマウスの解析

著者: 児島伸彦

ページ範囲:P.336 - P.344

 「恐怖」という情動は,ヒトを含め動物が外界からの刺激に適応して生き延びるためにはなくてはならない脳のはたらきであり,「怒り」,「喜び」,「悲しみ」などほかの基本的な情動と同様に生まれながらにして備わっている。生後間もない頃の恐怖情動は万人でほぼ共通しているが,成育の過程でその対象は人によって異なってくる。例えば,多くの人にとって「犬」は愛しい存在であるが,別の人にとっては恐怖の対象であるかもしれない。そのような人は生まれながらにして犬を怖がっていたのだろうか。その人が育っていく過程で犬を怖がるに至る特別な体験がなかっただろうか。実際,経験によってそれまで平気だったものがある日突然恐怖の対象になってしまう,あるいは逆に恐怖を感じていたものがいつの間にか平気になるということは日常的に起こり得る。過去にヒトに対して恐怖を植えつける実験が行われたことがある。被験者はアルバートBという生後わずか9ヵ月の乳幼児だった。当初アルバートはラットを怖がることがなかったが,彼が好奇心からラットに触ろうとした瞬間に実験者がハンマーで鉄棒をたたいて大きな音を出す操作を繰り返すうち,アルバートはラットそのものを怖がるようになった1)。これは「リトルアルバート(アルバート坊や)」の実験として今でも心理学の教科書に引用されている。現在ではこのような実験をヒトに対して行うことは倫理的に許されないが,程度の差こそあれわれわれは日常生活の中で外界の刺激に対して「条件づけ」されている。

 恐怖の対象を記憶し,その対象を見たときに恐怖反応を引き起こすのに中心的な役割を担う脳部位は大脳辺縁系に属する扁桃体(Amygdala)である。この部位を実験的に破壊したサルで起こる様々な神経症状(Klüver-Busy症候群)には,本来恐怖の対象であったものに対して何も感じなくなるという症状も含まれる。それでは扁桃体ではどのようなしくみで恐怖が恐怖と認識され,それが記憶されるのだろうか。アルバートで行われた「恐怖条件づけ」は,現在ラットやマウスの行動解析のためのテストバッテリーとして広く用いられており,しだいにそのメカニズムに関わる分子が明らかになってきている。本稿ではわれわれが作製し,いずれも恐怖条件づけテストにおいて異常が見出されたミュータントマウスの解析を中心に恐怖条件づけの分子メカニズムについて概観したい。

実験講座

脳の特定領域へのRNA干渉とエレクトロポーレーションを組み合わせたノックダウン法

著者: 茜谷行雄 ,   津本忠治

ページ範囲:P.345 - P.350

Ⅰ. 背景

 ヒトなどのゲノム解読が完了した今,これからは蛋白質の機能解析がますます重要になってくると考えられる。蛋白質の機能を解析する上で,それに相当する遺伝子を発現しないように操作し,その後,適当な期間生育させ,生体,組織または細胞レベルで起こる現象を調べることは極めて有効であり,広く行われ,それによって多くの情報が得られてきた。その代表的な方法はコンベンショナルなノックアウト法である。この方法では,理論上,標的遺伝子が生体から消失するため,すべての標的蛋白質は発現しなくなる。ノックダウン法の大部分はこの方法で行われてきた。しかし,これには次のような問題点があるように考えられる。

解説

F1-ATPaseの逆回転によるATP産生の実証

著者: 伊藤博康

ページ範囲:P.351 - P.356

 われわれの体の中には,人が作った機械のように働くタンパク質や,RNAでできた分子機械がある。その中でも,われわれが生きていくために必要なエネルギー源であるアデノシン三リン酸(ATP)を合成するFoF1-ATP合成酵素は,ぐるぐると回転する回転モーターであることがわかってきた。この酵素は,バクテリアからヒト,植物にいたるまで広く普遍的に存在する膜タンパク質で,細胞の消費するATPの大部分を合成している1)。この酵素の存在の普遍性や構造の保守性から考えて,生物は,その誕生のかなり初期の段階でこの酵素造りを完了してしまったと考えられる2)

 ここで紹介するのは,この分子機械の一部を操作して,ATPという高エネルギー物質を合成できることを証明したことである3)。文字通り力ずくで,化学反応を誘導できたことになる。具体的には,ローター部分のサブユニットを捕まえて,ATPで分解して回転するのとは逆向きにぐるぐると回したのだが,タンパク質機械のある一点にある向きの力(トルク)をかけるだけで,そこから物理的に離れている触媒部位での反応を制御して平衡状態からはるかに離れたところまで反応を駆動できたこと,力学的エネルギーを直接化学エネルギーに変換したことなど,初めての発見がある。

基本情報

生体の科学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1883-5503

印刷版ISSN 0370-9531

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