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雑誌目次

雑誌文献

生体の科学57巻1号

2006年02月発行

雑誌目次

特集 こころと脳:とらえがたいものを科学する

特集に寄せて

著者: 宮下保司

ページ範囲:P.2 - P.3

 脳の働き,ことにヒトや類縁の動物において進化した高次機能と呼ばれる能力は,自己自身を理解しようとする人類の営みにおいて重要な研究対象です。「生体の科学」誌においてもこれまで何回か脳研究の特集が組まれてきました。最近数年の高次機能研究の加速化をうけて,人間の『こころ』と呼ばれる『とらえがたいもの』をいかにして厳密な科学的探求の体系の中に位置づけるか,を正面から論ずる機が熟してきたと考えます。脳の機能を理解するためには,脳のシステム,神経回路,細胞・分子,脳の病変などにかかわる広範な研究領域を有機的に結び付け,複数の階層を包含した機能発現メカニズムの研究として展開することが必要です。本特集では,「高次機能を実現するシステムとそのシステムを構成する鍵となる細胞メカニズム」という対立軸を設定し,前者のシステムレベルの側から後者の方向を眺めた現在の到達点および将来の展望について考えたいと思います。

 では,『こころ』と呼ばれる『とらえがたいもの』を科学するにはどのような問題設定が有効でしょうか?

行動意思の形成と表出

著者: 丹治順

ページ範囲:P.4 - P.12

 与えられた表題を念頭に,大脳前頭葉の研究の進展を論ずる役割を期待されたものとして,この稿を担当させていただく。しかしここでは網羅的なレビューを行うのではなく,現代的なテーマのいくつかを選んで論点を絞り,筆者らの最近の研究も紹介しながら,教科書や総説には現れることが少ない議論を進めてみたい。問題提起という意味で,あえて筆者の価値観も表明しているので,そこを承知の上で読んでいただき,大いに御批判を仰ぎたいところでもある。

知覚判断,意思決定の神経機構―潜在的な脳情報処理をめぐって

著者: 下條信輔

ページ範囲:P.13 - P.21

 日常の知覚判断や意思決定の多くの場合,私たちは最終的な判断を意識することはできても,そこに至る過程の大部分は意識してない。また後で問われればそれなりに理由を述べることはできても,後付けであったり客観的には的外れであることも多い。脳における膨大な情報処理のほとんどの部分が「意識されない」ことから,その部分を研究することは脳の情報処理の全体像を理解する上で欠くことができない。また,顕在的(意識的)過程と潜在的(無意識的)過程の相互作用がヒトの心を心らしくしていると考えられるので,その相互作用を理解することで,ヒトの脳の高次機能に踏み込めるかもしれない。

 ここでは神経系の精神機能のうちで,1)無自覚的,2)自働的,3)しばしば身体的,生理的(皮質も関与するが皮質下の機能が重要),4)課題非依存的(ただし意味的,文脈依存的ではあり得る)などの特徴を持つものを潜在的過程と呼ぶ。「無意識の」「無自覚的」「閾下」などの語もしばしば類似の意味で使われる。

ヒト認知機能と遺伝子解析の統合へ向けた脳画像研究

著者: 坂井克之

ページ範囲:P.22 - P.29

 核磁気共鳴画像法(fMRI)をはじめとする非侵襲的な脳画像の開発により,認知神経科学研究はここ10年間に著しい発展を遂げてきた。画像情報の取得,そしてその解析法は現在も発展中であるとはいえ,その技術的進歩は一定の段階に達したといえよう。これまでの研究は主として,様々な認知機能が脳のどの領域に局在しているかを問う,いわゆるBrain Mappingがその目標であった。現在ヒトを対象とした脳画像研究は,この段階を越えて新たな展開をみせている。そのひとつが本稿でとりあげる遺伝子解析との統合である。ヒトの認知能力,あるいは気質が遺伝要因によって決定されるのか,環境要因によって獲得されるのか,いわゆるNature vs. Nurtureの議論に対して,脳画像を用いることによって迫ろうとする試みである。

 ヒトの遺伝子解析といった場合,カテゴリー化された形質とその形質を決定付ける遺伝子の対応をさぐる研究がこれまでの主たるものであった。例えば血液型や髪の色。この場合,A型とB型,ブロンドと黒髪といったように,その形質で明らかな境界を持ってヒト集団を区分することができる。あるいは疾患。その症状や病理所見から正常とは明らかに区別される集団を,正常集団と対比させることにより,ここ十数年の間に驚くほど多くの疾患原因遺伝子,あるいは疾患リスク遺伝子が明らかにされてきた。

脳機能マッピングによる言語処理機構の解明

著者: 酒井邦嘉

ページ範囲:P.30 - P.36

 言語は人間に固有の高次脳機能である。言語学者のチョムスキーは,言語獲得の生得的なメカニズムもまた,人間に固有のものであると主張したが,これまで実験的な検証は困難であった。「普遍文法」に基づく言語情報処理について,言語学ではさまざまな言語のデータを普遍的に説明することができる理論が提出されてきた。しかしながら,これらの理論が,脳の言語機能の核心的なメカニズムとして支持され得るかどうかは,まだよくわかっていない。失語症が言語に特異的な脳障害であると認めることができれば,いくらか議論は前進するかもしれないのだが,失語症さえも短期記憶の障害の一様式とみなそうとする反対意見が根強いことからして,言語の領域固有性を実証することは,必要不可欠な課題となっている。その意味で,こうした言語に特異的な問題は,脳科学における究極の挑戦であるといえる1)。本稿では,脳機能マッピング技術の進歩によって可能になった言語処理機構に関する最新の知見を紹介し,言語獲得の過程において文法中枢の機能が変化するという新しい仮説2)について述べる。

時間順序の知覚

著者: 北澤茂 ,   和田真

ページ範囲:P.37 - P.43

 脳のニューロンの信号の伝導や伝達には時間がかかり,しかも多数のループがあるので,信号の順序の情報は失われやすい。コンピュータであれば,正確なクロックで信号の到着時刻を逐一記録することも可能だし,1秒を1000分割してメモリに割り当てれば1秒間の信号の順序を1msの正確さで保つことも可能である。しかし,脳とコンピュータには歴然としたハードウエアの違いがあるから,脳の時間マネージメントはコンピュータとは自ずと異なっているはずである。脳は果たしてどのように信号の時間順序を決めているのだろうか。

 本論では,信号Aと信号Bという2個の信号の時間順序を判断する,という一見単純な課題を脳がどのように解決するのかを考える。物理学的な観測では,理想化された観測者が時計を持っていて,信号Aの発生と同時に時計を読み,信号Bの発生と同時に時計を読み,その読みを比べて順序をつけることになろう。実際,古典的な時間順序判断のモデルではこのような「決断機構」の存在が仮定されている1)。脳の中にも「決断機構」(図1)があって信号に時間順序を与えているのだろうか。もしあるとするなら,脳のどこに位置するのだろうか。時間順序を見失わないようにするための一つの解決策は,できるだけ入力に近いところで順序を固定することである2)。信号Aと信号Bの時間順序が失われないうちに時間順序を判断して,その結果を“B after A”あるいは“A before B”で象徴されるような安定した表現に直して神経系を流通させようという考えである(図1)。実際,時間順序が極めて重要な音の情報処理では両耳間のサブミリ秒の到達時間差を検出する機構が脳幹に存在する。しかしこの機構は,音源の定位のための情報を提供し,主観的には一つの音が知覚されるに過ぎない。本論で対象とするのは,われわれが主観的に二つの事象として区別できる時間差の信号に対して脳がいかにして順序を与えるか,という問題である。面白いことに,二つの信号が同時か非同時かの弁別閾値は感覚種によって異なるが(聴覚が最も鋭敏),時間順序判断の弁別閾値は感覚種によらず30ms程度と報告されている3,4)。感覚種に共通の時間順序判断機構が存在することを示唆するだろう。

視覚の主観性を支える神経活動―両眼立体視を例に

著者: 藤田一郎

ページ範囲:P.44 - P.50

 つきつめれば,分子やイオンの動きや相互作用である神経細胞の中や神経細胞同士のできごとが,いったいどのようにして,私たちが知覚するさまざまな心のできごとを生み出すのか。この「心が脳からどのように生まれるか」という問題は,脳科学を専門とするもののみならず,多くの人の興味を強くひく問題である。しかし,物理化学現象から主観的知覚体験が生成される過程を,科学の言葉で説明する,理屈の通った仮説は存在しない。そもそも,この問いは解決可能な問題かどうかさえ自明ではない。定冠詞つきの“the hard problem”と呼ばれるゆえんである。では,この問題に対してわれわれは何もできないかといえばそうではない。現代科学における,この問題に対する現実的かつ堅実で,最も有望なアプローチは,心のできごとに「直接」関与すると想定される神経活動を同定し,その性質を明らかにすることである1)。脳の中で何百億もの細胞が活動しているにも拘わらず,そのような活動の中でわれわれの主観的意識にのぼってくるものはごく限られている。「脳の中のどの細胞がどのような条件下でわれわれの主観経験に貢献し,その活動は主観経験に直接に貢献をしない細胞の活動とは何が違うのか」この問題を追及する試みが,おもに視覚を対象とした研究においてなされている。その一般的解説は別文献2,3)に記した。本稿では,奥行き感の知覚を担う神経活動の探求に焦点をしぼり,考えていく。

概念の発達と操作の神経機構―ヒト思考形式の非論理バイアスによる概念創発

著者: 山崎由美子 ,   日原さやか ,   藤井直敬 ,   岡ノ谷一夫 ,   入來篤史

ページ範囲:P.51 - P.57

 William Jamesは,世の中の多くの事象の数々を区別し,分類して,「同一である」と認める機能を『概念作用』と定義した1)。現在経験しているある事象を,過去に出会った経験と「同じである」と再認識することだけでも,それは概念的な認知機能であるといえる。過去の事象は,現在の事象と厳密な意味では決して同一ではあり得ないにもかかわらず,それを「あたかも同一であるかのように【見なして】いる」からである。このように『概念』とは,厳密には同一ではあり得ないものを同一と「とりあえず見なす」という,ある種の「暫定性」を前提とし,要素間の類似性と同一性の境界における「曖昧性」を内包する。このような「概念作用」は,それに基づいて引き起こされる行動様式として検出するならば,下等な無脊椎動物でもその原初的形態は観察される。

 しかし,ヒトの概念作用は,上述のように現実に目の前に存在する数々の事象を単に弁別することによってカテゴリー化するのみではない。その本質的な機能は,直接的には存在しない「性質」や「関係性」といった抽象的な『概念』事象を先験的に規定して,それに適合する現実の要素を枚挙するといった思考形式にある。例えば「何も存在しない」という『零』や『空』といった概念である。人類が“0”の発見にいかに苦心し,できてみればそれがいかに有用であったかを思い起こせば,この抽象的概念作用の意義がわかるだろう。概念作用には,このように「仮説性」「空想性」や「蓋然性」などへの先験的な「気づき」の創発が必須である。これはヒト脳に特異的な機能であるかもしれない。

解説

比較ゲノム解析を通して見たヒトゲノム構造

著者: 坂手龍一 ,   今西規

ページ範囲:P.58 - P.62

 細胞分裂の際に核内でDNAが凝集した状態が染色体であり,男性は(1-22,X)と(1-22,Y),女性は(1-22,X)を2セットの,計46本の染色体をそれぞれ持つ。この(1-22,X,Y)の全24種類の染色体を構成する約30億塩基対がヒトゲノムとして配列決定され, 2004年に完了宣言が出された1)。タンパク質をコードする遺伝子は約25,000と予測されているが,それらはヒトゲノム全体の約3%を占めるに過ぎない。現在ではタンパク質をコードしない転写産物が多数存在し,重要な働きをすることがわかってきた。また,単純な繰り返し配列やレトロポゾン(転移因子)配列などが,ヒトゲノムの半分近くをも占めることが知られている。ゲノム配列が決定されたとはいえ,その膨大な塩基配列が持つ生物学的な意味については大部分が未知のままである。

 このようなヒトゲノム構造を詳細に理解するための一つの方法として,バイオインフォマティクスの手法による比較ゲノム解析が行われるようになってきた。ヒトゲノムのうち,他生物と共通して持つ領域(保存領域),または持たない領域(非保存領域)を同定することで,それらの領域の機能的意味合いを探る手がかりを得ることができる。本稿では,われわれの行った比較ゲノム解析の手法とそれによって得られたヒトゲノムの構造に関する知見について紹介する。

話題

全前脳症の動物モデル―哺乳類全胚培養系を用いた解析

著者: 長瀬敬

ページ範囲:P.63 - P.65

 全前脳症(holoprosencephaly)は顔面正中部の奇形(眼窩間距離の狭小化,正中唇裂・口蓋裂など),嗅球・嗅索の欠損,単脳室形態の終脳などの特徴を持つ, 一連の中枢神経系奇形の総称である。特異な顔貌から内在する中枢神経系の奇形を予測できるという意味で,DeMyerらが“The face predicts the brain”と述べたことはよく知られている1)。しかし顔貌と中枢神経の奇形が一対一対応するのではなく,むしろ最重症の単眼症からほぼ正常の顔貌の例まで,顔貌のバリエーションが極端に広いことに特徴がある。近年の分子レベルの解析により,TGIF,SIX3,ZICなど種々の責任遺伝子が報告されたが2),その中でもSonic hedgehog(Shh)の変異がもっとも有名かつ重要である3,4)。Shhは種々の器官発生にかかわる代表的モルフォゲン分子で,特に中枢神経系の正中腹側化シグナルとしての重要性が高い。例えば発生ごく初期に単一である眼形成領域(eye field)が双眼パターンに分かれるのは,頭部正中腹側の中胚葉(prechordal plate)由来のShhが,発生過程でeye fieldを正中で抑制するためと考えられている5)。 事実Shhノックアウトマウスは単眼症,単一脳胞という表現系を呈し6),重症の全前脳症の動物モデルといえる。しかし顔面形態の表現型のバリエーションには乏しい点が,臨床例での病態と大きく異なる点である。こうした表現型の多彩さは何に由来するのだろうか。

 筆者らはShhの機能欠失の条件と表現型のバリエーションとの関連を探る目的で,マウス全胚培養系を用いた一連の解析を行った7-10)。全胚培養系とは,齧歯類器官形成期の胚を個体のままin vitroで数日間培養するというユニークな系である11,12)。この培地にShhをはじめとするhedgehogシグナルの特異的な阻害剤cyclopamineもしくはjervineを添加することにより,種々の条件の全前脳症モデル胚の作製が可能である。特に阻害剤の投与時期を変えるだけで,時期特異的ないわゆるコンディショナルノックアウト実験が極めて簡便に行えることが,この実験系の大きな強みである。 実際,胎生8.0日前後(体節数0-1)からの阻害剤添加では,胚発生が大きく障害され頭部はほとんど形成されないのに対し,体節数4-5からでは若干異常は弱まり,おそらく単脳胞状態の頭部と回旋異常などの体幹部発生異常が観察された。さらに胎生8.5日(体節数8-9以上)からの阻害剤添加では発生異常はさらに軽微になり,とくに顔面では顔面横径・鼻殻間距離の縮小および鼻殻角度の狭小化という,いわゆる軽症・中等症の全前脳症に類似の表現型を認めた7)

基本情報

生体の科学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1883-5503

印刷版ISSN 0370-9531

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