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雑誌目次

雑誌文献

生体の科学57巻4号

2006年08月発行

雑誌目次

特集 脳科学が求める先端技術

神経科学におけるプロテオミクス

著者: 谷口寿章

ページ範囲:P.240 - P.245

 プロテオミクスは,質量分析によって得られるタンパク質の一次構造情報をゲノム情報などから得られるタンパク質配列データベースと照合することで,微量タンパク質を同定する技術を基盤とする研究である。従来の研究との根本的な相違は,個々のタンパク質に注目しそれぞれのタンパク質を単離しアミノ酸配列を決定していたこれまでの研究法とは異なり,細胞に含まれる数千種類に及ぶタンパク質を一挙に解析できる能力にある1)。本稿ではプロテオミクスで用いられる解析技術の簡単な紹介とその神経科学への応用を展望する。

創薬研究におけるハイスループットスクリーニングの役割―中枢神経系疾患治療薬探索を例に

著者: 樽井直樹 ,   木村宏之

ページ範囲:P.246 - P.252

 医薬品の多くは疾患の原因となる標的分子(創薬ターゲット)に作用し,その機能を阻害または活性化することにより薬理効果を示す。つまり,新薬創製は創薬ターゲットを選択し,それに対して作用する化合物を発見することから始まるといえる。最近のゲノム研究およびポストゲノム研究の進展により,創薬ターゲットの数は増加し,一方,創薬ターゲットに作用する化合物を見つけ出すため,膨大な数の化合物(ライブラリー化合物)がコンビナトリアルケミストリーなどの技術によって合成されてきた。そこで,様々な創薬ターゲットに対しライブラリー化合物の中から目的とする化合物(ヒット化合物)を迅速かつ効率的に見出すシステムが求められるようになった。

 このような背景のもとで,近年急速に発展してきたのがハイスループットスクリーニング(High throughput screening:HTS)であり,現在ではほとんどの製薬企業の創薬プロセスにおいて必須のものとなっている。さらに最近では,上市までの成功確率を上げるために化合物の薬理活性評価にとどまらず,吸収・分布・代謝・排泄・毒性(absorption・distribution・metabolism・elimination・toxicity:ADMET)や物性のプロファイルも加えた総合的なHTSが行われるようになってきた(図1)。本稿では,HTSの概略を述べた後,中枢神経系疾患治療薬探索を例にHTSの具体例を紹介する。

爆発するマウスリソースとその対応

著者: 小幡裕一

ページ範囲:P.253 - P.259

 欧米で2万5千から3万存在するとされているマウスのすべての遺伝子をノックアウトするプロジェクトが開始された。さらに,疾患感受性も含め,多くの生命現象が遺伝子の一塩基の差違(Single Nucleotide Polymorphism:SNP)に影響されていることを考慮し,すべての遺伝子に関して1遺伝子あたり10種類のSNP変異遺伝子と置き換えたマウスを作出することも提唱されており,近い将来30万系統(3万遺伝子×10種類のSNP)にも及ぶマウス系統が作出されることが想定されている。

 本稿では,このような巨大プロジェクトが実施に至った背景と経緯,各プロジェクトの概要ならびに膨大なマウス系統を研究者が円滑に利用できることを目指したFederation of International Mouse Resources(FIMRe)の活動を紹介する。

ENUミュータジェネシスによる脳神経系異常モデルマウスの開発

著者: 和田由美子 ,   若菜茂晴

ページ範囲:P.260 - P.265

 ヒト,マウス,ラットなどの全ゲノム情報の解明に伴って,試験管内(in vitro)やコンピュータ上(in silico)でのゲノム機能解析が急速に進展し成果をあげている。しかし,現時点においてはin vitroin silicoの実験系のみでシステムとしての生命の全体像をとらえることは困難であり,個体レベル(in vivo)での遺伝子の機能をいかに体系的かつ網羅的に解析していくかがポストゲノム研究の課題の一つとなっている。

 脳神経科学をはじめとする生物の高次機能の解明をめざす基礎生物学研究は,さまざまなモデル動物の変異体を解析することで大きな成果をあげてきた。特に,ヒトとの遺伝的相同性が高く,変異体の開発・解析の基盤が整っているマウスは,生命科学の根幹を担う代替困難なモデル動物である。これまでにさまざまなマウス変異体が開発されてきたが,これら変異体で解析可能なのはマウスで発現している全遺伝子の一部にすぎず,今後ゲノム機能解析を行っていく上でのマウス変異体リソースの不足が叫ばれてきた。このような背景のもと,体系的にマウス変異体リソースを開発し,それらを用いて網羅的なゲノム機能の解析を行っていこうとする大規模プロジェクトが相次いで立ち上がっている。そのうちの一つが,化学変異原ENUを用いて興味深い表現型を示すマウス変異体を体系的に開発していこうとするENUミュータジェネシスプロジェクトである。本稿では,ENUミュータジェネシスの特色と方法論について解説し,ENUによるマウス行動変異体の開発状況について紹介したい。

2光子顕微鏡

著者: 河西春郎

ページ範囲:P.266 - P.272

 2光子顕微鏡はフェムト秒超短パルスレーザーの実用化に伴い1990年に実現し,すでに16年の歴史を持つ。しかし,この間のフェムト秒レーザー技術の進歩は緩慢であった。価格は依然として高価であり,顕微鏡の光源としても使いにくい。2光子顕微鏡の特許は米国では2009年まで,日本・ヨーロッパでは2010年まで有効であり,企業も本格的な取り組みがしにくかった。これらの事情から,2光子顕微鏡の実用はほかの顕微鏡法に比べて進んでおらず,この顕微鏡法に対する理解も良好とはいえない。それでも,多くの研究室・機関がこの技術の導入を図ろうとしているのは,この方法で得られた結果が支持を得ているからだと思われる。実際,脳科学のある部分の研究は今後この顕微鏡なしには考えられない。

 私の研究室では1996年からこの技術の導入を図った。2光子励起の原理(図1)にのみ頼って顕微鏡を構築し,その可能性を検討してきた。そうしていえるのは,われわれがこの顕微鏡についてわかっていると感じていることは,2光子励起という非日常的な非線形現象を実験により経験し,その世界に慣れたためであり,その理屈を理解したからではない。2光子顕微鏡の有効性は,実際にそれを試してみたときほかに重畳する様々の現象との相克において現れるのであり,経験則である。従って,2光子励起について書かれたものを読んでも,美しい図を見ても,その事態を短期間で直感的に理解するのは難しかろう。本稿では,顕微鏡の説明は経験に訴えかける形で最小限に止め,今後2光子顕微鏡の導入を検討される方や,この顕微鏡を用いた研究を評価される方が,気にされるだろう質問に答えるという形で解説を進めたい。この方法論には顕微鏡の専門家が書いたすぐれた解説があり,最近の展開や光学系1,2)そして歴史も知ることができる3)

凍結割断レプリカ免疫電子顕微鏡法

著者: 重本隆一 ,   深澤有吾

ページ範囲:P.273 - P.280

 現在,脳科学に求められている先端技術というと,in vivoでかつリアルタイムで神経細胞やグリア細胞,さらに神経回路や脳領域の活動性を測定できる技術がまず思い浮かぶ。電子顕微鏡を使った方法は,生体の現象を生きたまま見ることが原理的に困難であることから,上記のような技術に比べやや取り残されている感がある。しかし,電子顕微鏡はその解像度においてほかのどの方法よりも優れており,リアルタイムイメージングを使って得られる情報に構造的基盤を与えるものとして,また個々の分子構造と生体内での多くの分子の構成を知るために,その重要性は以前にも増していると考えられる。電子顕微鏡レベルで組織内の特定分子の分布を明らかにする免疫電子顕微鏡法はそのような技術の一つである。

 ここで紹介する凍結割断レプリカ免疫電子顕微鏡法(SDS-digested Freeze-fracture Replica Labeling,SDS-FRL法)は,その中でも新しい方法であり,世界でもまだ数えるほどの研究者にしか使われていないが,その潜在的有用性が多くの研究者に知られるにつれて普及が進むと考えられる。この方法はいわば電子顕微鏡レベルのhistoblot法であり,レプリカ面に固相化された抗原の変性と固相化されなかった分子の除去をSDS処理により行い,レプリカ面に残った抗原に対して抗原抗体反応をイムノブロット法に近い条件のもとに行うことができる。その結果,組織内に埋もれた抗原に対して抗体反応を行う従来の免疫電子顕微鏡法に比べて,高感度,高定量性であることが最も大きな利点であると考えられる。そのほかにも,細胞膜上の受容体やチャネル分子の分布を細胞内にある分子と区別して二次元的に捉えられること,イムノブロット法に適用可能な多くの抗体を使うことができること,短時間で結果が得られること,数多くの分子の細胞膜上での共存を二次元的に調べることができること,膜蛋白のトポロジーを決めることができること,などが利点として挙げられる。その反面,電子顕微鏡下で観察される個々のレプリカ面がどのような細胞のどの部分からなるのかを同定することが容易でないという大きな欠点がある。一般の電子顕微鏡法にもいえることであるが,高倍率で観察することが可能でも,光学顕微鏡による低倍率で観察される像の中でのオリエンテーションがつかなければ,何を見ているのかわからないことになる。脳のような複雑な組織ではなおさらである。

脳神経系の電気的活動のパターンダイナミクス

著者: 宮脇敦史

ページ範囲:P.281 - P.286

 動物にとって,視覚・聴覚・触覚・嗅覚などの感覚情報はパターン情報である。脳神経系の特定の部位で,電気的活動(神経細胞発火)の特徴的な時間的空間的パターンが生まれていると考えられる。動物はそこから特徴を抽出して識別を行っている。最新コンピュータも苦心するような“パターン認識”をいとも簡単にやってのける。われわれの脳は,ものごとを意識する以前に大量の情報を並列的に処理しているのだ。学習や記憶も行うことができる。神経細胞の発火はどのような時空間的パターンで繰り広げられているのだろうか。今この原稿を執筆しながらコンピュータ画面を見つめる私の脳の中ではどんなパターンが…? 電気的活動のパターンダイナミクスを解析することは,脳の情報処理獲得の制御を知る上で極めて重要である。

走査型プローブ顕微鏡の可能性

著者: 原正彦 ,   ,   林智広

ページ範囲:P.287 - P.291

1 生体分子を対象とした走査型プローブ顕微鏡

 ナノテクノロジーを担う重要な顕微手法であり,ナノテクノロジー分野を切り開いた先駆的な発明ともいえる走査型トンネル顕微鏡(scanning tunneling microscope:STM)や原子間力顕微鏡(atomic force microscope:AFM)に代表される走査型プローブ顕微鏡1,2)は,表面・界面における構造解析に関する研究分野に飛躍的な進展をもたらしたことはいうまでもない。さらに近年では,顕微観察手法としてのみならず,原子・分子レベルに至る局所物性計測,さらには原子マニプレーション(移動)や単一分子操作(延伸)などにまで用いられている。対象物質としても,手法開発当時に多く観察されていた半導体・金属表面から,有機分子,そして生体分子へと,その範囲を広げてきた。

 プローブ顕微鏡を用いた構造観察の研究で,広く一般の有機・生体分子を考えた場合3),それらの形状が多種多様で,その着目する領域が個々の分子レベルということもあり,特に生体分子の場合には3次元的な構造をいかに保持し可視化するかという根本的な問題もあって,どの分子にもあてはまる一般的な試料作製法や観察方法が確立されているわけではないことも事実である。それは,今までに有機・生体分子そのものが大気中ないしは溶液中で柔軟であるがゆえに機能を発揮してきたことに対して,無機金属・半導体系のように不純物を許さない清浄な雰囲気下で,正確に規定された表面・界面の条件のもとで議論されてきた,という違いにも起因する。その象徴として,生体分子を対象とした走査型プローブ顕微鏡観察では,実際の表面構造を表しているものではない「アーティファクト」と称される不確かな誤認像が多く報告された時期もあり4,5),特に生体分子のプローブ顕微鏡観察では,対象とする試料のそれぞれに対して,検出される像自体が実際の表面構造を表しているものか否かの判断に注意し,またそれらの問題を解決するような試料形状を検討しなければならないという背景をかかえて発展してきた。

マルチニューロン活動とブレイン-マシンインタフェース

著者: 櫻井芳雄

ページ範囲:P.292 - P.297

 脳の情報処理の実態を知るためには,実際に情報処理を行っている脳,すなわち行動している動物の脳を対象とし,その神経回路網の活動を記録し解析しなければならない。そのためには,回路網を構成する多数のニューロン活動を同時かつリアルタイムに記録することが不可欠であり,その唯一の方法がマルチニューロン活動の記録法である。この方法は神経科学の先端技術の一つであるが,必ずしも高価な装置や材料が必要なわけではなく,手作業による技術開発が基本であるため,個人の研究者でも高度な方法を開発し活用することができる。すなわち,多額の予算と多人数の研究チームを基本とする現代の神経科学において,職人的神経科学とでも呼ぶべき個人研究が可能な魅力ある方法である。本稿ではまず,マルチニューロン活動の記録法について簡単に解説し,次に,それを工学・医学分野へ活かす新しい研究であるブレイン-マシンインタフェース(brain-machine interface, BMI)について解説する。

精神疾患の動物モデル

著者: 澤明

ページ範囲:P.298 - P.304

 これまで精神疾患は,その生物学的実態,特に生物学的実態を支えるところの遺伝子やタンパクといった分子情報が全く欠けていることから,それらを科学の言葉で語るのが難しいとされてきた。ほかの医学疾患では,分子生物学をベースとした病理学が病態理解の中心となり,それぞれの疾患の責任遺伝子,そして病気と直結したそれらの変異体をベースとした遺伝子改変動物(ノックアウトマウス,トランスジェニックマウス)などが作られ,それらが病態の理解,そして治療法の開発,ドラッグスクリーニングなどに大きな役割を果たしてきた。

 少なくとも神経変性疾患(アルツハイマー病,パーキンソン病など)については,1990年代に家族性のそれらに対する責任遺伝子が見つかり,これらの遺伝子情報をベースにしたマウスが病態の理解を爆発的にもたらし,脳神経疾患もやはり,遺伝子改変モデルマウスをベースとした病態理解や治療法の開発ができるのではないかという期待は高まっていた1)

超高磁場脳機能画像

著者: 程康 ,   上野賢一 ,   田中啓治

ページ範囲:P.305 - P.309

 機能的磁気共鳴画像法(fMRI)は,ヒトの脳機能を調べる手法の中で最も重要な位置を占めている。最近開催されたヒトの脳機能に関する二つの国際学会(Annual Meeting of the Organization of the Human Brain Mapping, トロント,カナダ,2005年6月,Annual Meeting of the Society for Neuroscience,ワシントン,アメリカ,2005年11月)では,報告されたイメージング研究の大多数がfMRIを用いたものであった。毎年1000を超えるfMRI研究論文が発表され,感覚・運動機能から高次認知機能1)に至る多岐にわたる神経科学の問題を扱っている。

 fMRI研究が神経科学の中で重要な役割を果たすようになるのと平行して,fMRI研究の中では低磁場から高磁場(4テスラ以上)への移行が進みつつある。数年前までは,4テスラ以上の装置は,理化学研究所脳科学総合研究センターに設置されたものを含めて,世界中で数ヵ所に存在するだけであった。今日では,新潟大学に設置されたものを含めて,世界中で20台余りの7テスラ装置がすでに稼働中あるいは導入作業中である。ごく最近には,ミネソタ大とイリノイ大に9.4テスラの装置が導入され,高解像度の解剖画像を得ることに成功している。フランスでは大規模プロジェクト(NeuroSpin:http://www.meteoreservice.com/neurospin/)が推進されており,11.7テスラ装置をはじめとする数台のヒト用MRI装置と,最高17テスラの装置を含む多数の動物用MRI装置の設置が予定されている。

ニューロインフォマティクスから見たバーチャルブレイン計画

著者: 臼井支朗

ページ範囲:P.310 - P.314

 近年,分子生物学や脳機能イメージングなど最先端の技術を用いた脳に関する多様な研究成果が得られるようになってきた。しかし,そうした個別の研究成果を統合した脳全体としての振る舞いを理解する必要がある。こうした作業は一研究者の努力でできるものではなく,多くの研究者によって得られた知識を集約・蓄積・体系化すると共に,それらを共有する環境を整備していくことが重要である1)

 「ニューロインフォマティクス」は,こうした関連する膨大な研究成果に関して,情報技術を効率的に活用した研究基盤の上で21世紀の脳科学研究を展開する,IT時代の脳・神経科学研究のための学問分野である。経済協力開発機構(OECD)においても,今後の脳研究の進展にニューロインフォマティクスが大きく寄与し,人類の生活・健康水準の向上や経済の発展に重要な役割を担うとして,2005年8月,ニューロインフォマティクス国際協力機構INCF(International Neuroinformatics Coordinating Facility)の設立が承認され,同年11月にスエーデンのカロリンスカ研究所に設置されることが決定された。2006年4月には事務局長としてノルウェイのJan Biaalie氏が就任し,開設の準備が始まった。わが国においても2005年4月,理研BSIに神経情報基盤センター(NIJC:Neuroinformatics Japan Center)の設置が認められ,2006年2月末,日本ノードの運用が開始された2)。今後,国内外の脳研究に関する情報の統合,体系・共有化を進めることにより,21世紀における科学技術の夢の一つとして,世界の研究者が協力し,IT基盤上でバーチャルブレインの実現を目指してニューロインフォマティクスが展開されようとしている。

ブレイン-ネットワーク-インタフェースによる操作脳科学

著者: 川人光男

ページ範囲:P.315 - P.322

 筆者らは,約20年間にわたって計算論的神経科学の研究を続けてきた。特に最近10年間は,定量的な理論に基づいて,実験に関する予測を行い,それに基づいてサルのニューロン活動やヒト非侵襲脳活動データを計測して理論的に解析し,得られたデータに基づいて様々な理論を反証,支持,証明するなどの研究アプローチを取ってきた。理論と実験が行き来しながら,螺旋状に進歩する研究のスタイルがようやく確立してきた。サルなどの高次脳機能研究で,定量的な理論やモデルと全く無関係にシステムレベルの研究をすること自体が珍しくなってきた。このような状況で,編集主幹の伊藤正男先生の「現在開発が進められている,あるいはまだ手付かずだが近い将来に威力を発揮すると思われる脳科学の先端技術に焦点を当て,その実現の可能性を探りたい」とのご指示に従い,本稿では,計算論の立場から,理論と実験をより強力に結びつける先端実験技術に関する夢をまとめる。紹介する技術開発はその緒に就いたばかりで,革命的に有効なのか否か,十分な議論さえなされていない。実験データの蓄積は急激に進むが,理論化,体系化は大変難しかった脳研究を変革する可能性を秘めている技術であることさえ感じ取っていただければ,目的は十分に達したといえる。

 脳が本当に理解できたといえるのは何がわかったときなのだろうか。脳の働きを科学的・客観的に調べることには,物理学,化学,分子生物学などにはない特別の難しさがあると感じるのは筆者だけではないだろう。脳神経の研究でも,分子を発見し,ある現象が生じる場所や時間などをつきとめる類の研究は,分子生物学,生化学,生物物理学などの確立した研究手法により長足の進歩を遂げている。しかしこのようなアプローチだけでは,たとえ細胞生物学に限定してみても,生命現象を本当に理解することはできない。生命現象の機能全体を,試験管の中か計算機の中かは問わずに,再構成する必要があると感じる研究者が増えてきた。第3期科学技術基本計画における総合科学技術会議が答申した生命科学の重点研究項目に生命現象の再構成が選ばれるのも,時代の必然だろう。物理学の生物学への進出として始まった分子生物学が,悉無的な事実(おもに物質)の蓄積を主とする学問から,理論と実験が相互作用する新しい姿に脱皮しようとしているのかもしれない。ヒトゲノム計画などに代表される,分解,分析,要素,還元論的な研究が成熟し,データが十分蓄積されれば,再構成,統合,全体,演繹的な研究が主になるのは当然である。新しい分子を発見すればそれだけでよしとする時代は終わり,生命現象の神秘を再現可能なメカニズムとして解き明かす新世紀が始まったともいえる。

意識する自己への脳科学からのアプローチ

著者: 伊藤正男

ページ範囲:P.323 - P.327

 最近の脳科学の進歩は目覚ましいが,脳とこころの関係は依然として極めて困難な問題である。かつては,脳は固い骨と硬膜と髄液に守られていて,外界からは末梢神経を介して感覚信号を受け取ったり,脳から筋肉へ送りだされる運動信号を介さないかぎり容易に接近することができない存在であった。感覚路の切れた感覚遮断sensory deprivationや,運動麻痺による閉じこめlock-inの状態では,こころを含む脳全体と外界との間に境界線が引かれていた。現在では,知情意という,こころの3成分に対応する脳組織の働きがかなりの程度把握されるようになったし,電極を差し入れたり,磁気刺激をしたり,種々の信号を脳の中から取りだしたり,脳の内部に接近する種々の方法が案出されている。それで,脳とこころの境界が次第に狭められつつあるのであるが,狭めて行くと突如相手を見失ってしまうというのが多くの研究者の正直な感想であろう。

 客観的な機械論的な脳の過程が,どこでどのようにして意識する自己という主観に転換するのか,まだ想像することも困難な状況にある。脳の中に自意識をもつ小人,ホモンクルスが住んでいるという考えから,現代の脳科学といえどもまだ一歩も出ることができないでいるといっても過言ではない。ホモンクルスが脳の一部であることは疑いないように思われるが,ではどの一部であるかとなると答えることができない。将来,果して脳科学はホモンクルスを捉えることができるのだろうか。そのために必要なテクノロジーとはどのようなものであろうか。この論説では,現在の脳科学においてそのような可能性がいかに追及されているかを紹介し,その行方を考えてみたい。

連載講座 中枢神経系におけるモジュレーション・1【新連載】

静磁場による海馬NMDA受容体発現の変調

著者: 平居貴生 ,   米田幸雄

ページ範囲:P.328 - P.333

 神経細胞におけるシグナル伝播(propagation)は,化学物質による伝達(neurotransmission)と電気的な伝導(conduction)によって制御されるのは周知の事実である。現在まで,シナプス間隙における情報伝達に関しては,生化学的,薬理学的あるいは分子生物学的に膨大な解析がなされているが,それに比べて神経伝導調節機構に関する解析は,局所麻酔薬に関するものを含めても圧倒的に少ない現状である。一方,磁気の物理的性質を考慮すると,複雑な細胞間ネットワークを構築して“電気信号”による情報交換を頻繁に行う神経細胞においては,磁気照射がシグナル伝達機構に何らかの影響を与える可能性は否定できない。事実,磁場曝露に伴い脳内ではc-Fosが誘導される1)など,神経細胞の信号応答性に対して,磁場曝露が影響を与えるとの知見が散見される2)。さらに,精神科領域では電気的ショック療法に替わる,安全かつ簡便な非侵襲的代替療法として,磁場を応用した反復性経頭蓋磁気刺激法(repetitive transcranial magnetic stimulation:rTMS)の有効性が,多くの臨床的研究で示されている3)。特に,難治性うつ病,強迫性障害,あるいは統合失調症などの患者で,rTMSによる症状改善例報告があることは興味深い4)

 以上の観点から,われわれは磁場の脳機能に与える影響を解析する目的で,初代培養海馬神経細胞を用いて,静磁場曝露の影響について評価を進めてきた。現在までに,持続的曝露,短時間曝露,あるいは反復性曝露を行うことによって,特に海馬神経細胞におけるNMDA受容体発現の変調を見出している。さらに最近では,短時間の一過性静磁場曝露に応答する海馬内遺伝子群の探索を試みて,磁場応答性遺伝子の同定とその機能解析を通じて,海馬神経細胞の磁場シグナル受容機構の一端を明らかとした。本稿では,このような磁気照射と生体環境応答システムとの関連性を考察し,磁気照射による中枢神経系機能のモジュレーションの可能性について述べたい。

基本情報

生体の科学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1883-5503

印刷版ISSN 0370-9531

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