icon fsr

雑誌目次

雑誌文献

生体の科学58巻4号

2007年08月発行

雑誌目次

特集 嗅覚受容の分子メカニズム

―特集に寄せて―におい分子コーディングの理解から嗅覚中枢神経系の探索へ

著者: 森憲作

ページ範囲:P.248 - P.249

 脳がとてつもなく複雑でかつ精巧な機能システムであるのと同様に,その一部を構成している嗅覚神経系もまた非常に複雑で精巧な機能システムである。嗅覚系の複雑さは,第一に,におい情報の担い手である「におい分子」(リガンド分子)の多様性(diverse odor molecules)にみられる。ヒトがにおいとして感じることができる化合物は,地球上で少なくとも40万種類存在する。それぞれの食べ物(たとえばイチゴ)からは,通常百種類以上ものにおい分子が飛び出てくる。

 嗅覚系の複雑さと精巧さは,におい分子情報に基づいて引き起こされる行動反応の多様性(diverse behavioral responses)からも推測できる。たとえば,ヒトも動物も,食べ物のおいしそうなにおいがするとそれを摂取するが,腐ったにおいがすると食べるのを避ける。ラットやマウスは,たとえキツネに出会った経験がなくてもキツネのにおいがすると逃げ,恐怖反応を示す。嗅覚系の複雑さと精巧さは,ヒトが主観的に知覚するにおいの質の多様性(diverse olfactory percepts)や,においと様々な情動(diverse emotions)との間の強い結びつきからも推測される。

嗅覚受容体の構造と機能

著者: 岡勇輝 ,   東原和成

ページ範囲:P.250 - P.255

 生物の匂い識別能力は非常に繊細かつ鋭敏であり,空気中の1億個の分子中にわずか1個の割合で匂い分子が存在すれば知覚することができる。また,微妙に化学構造の異なる匂い分子,さらには光学異性体や立体異性体の関係にある匂い分子さえ嗅ぎ分けることが可能である。しかし,鼻の中で匂い分子を認識している実体が何であるかは,古くから議論がなされてきた。例えば20世紀前半には,匂い分子が分子固有の振動によって認識されるとする分子振動説や1,2),匂いが細胞膜に吸着すると脂質構造が変化し,細胞内に電気応答が生じるという脂質吸着説などさまざまな説が提唱された3)。最終的には,1991年L. BuckとR. Axelがラット嗅上皮から嗅覚受容体候補遺伝子を同定したことでこれらの学説に決着がみられた。同定された受容体遺伝子群は,7個の膜貫通領域をもつGタンパク質共役型受容体(GPCR)のファミリーに属するタンパク質をコードしていた4)。最近のゲノム解析の結果,嗅覚受容体遺伝子はヒトでは802個(うち偽遺伝子414個),マウスでは1391個(うち偽遺伝子354個)の存在が確認され,哺乳類のGPCRファミリーの中で最大の多重遺伝子群を形成することがわかっている5,6)

 この嗅覚受容体の発見をきっかけに,その後の嗅覚の分子生物学,特に受容体の構造的,機能的研究は目覚しく進展してきた。本稿では,匂い認識の第一ステップである匂い分子と嗅覚受容体との相互作用に注目し,1)嗅覚受容体と匂い分子との対応付け,2)匂い認識の構造基盤,3)嗅覚受容体の機能的発現に必須な分子,4)生理的条件下における嗅覚受容体の匂い応答特性に関して最新の研究を紹介する。

嗅細胞の神経個性と回路形成

著者: 坂野仁

ページ範囲:P.256 - P.263

 高等動物は外界からの様々な情報を五感を介して識別し行動している。その中で嗅覚・味覚など化学情報の受容は,線虫やハエ,さらにはマウスやラットに至るまで広く研究されており,生存に不可欠な求餌,毒物や天敵に対する忌避,フェロモンを介した性識別や生殖行動などで中心的役割を果たしている。

 ヒトやマウスの嗅覚受容体(odorant receptor:OR)遺伝子は, 免疫系の抗体遺伝子同様, 一つの細胞において1種類の受容体遺伝子が,父親と母親,それぞれに由来する二つある対立形質の一方からのみ発現するというきわめてユニークな発現様式をとっている。また,嗅細胞の嗅球への軸索投射は,個々の細胞が発現するOR分子の種類によってその位置が規定され,嗅球上の投射先である糸球構造(glomerulus)とORの間には1:1の対応関係が成り立っている。したがって匂い情報が嗅上皮から入力されると,嗅球表面にはちょうど1000個の糸球を素子とする電光掲示板のように,濃淡を含む糸球の発火のパターンが形成され,この匂い地図によって匂いの種類と質を脳が識別すると考えられている。この匂い情報の二次元変換は1神経・1受容体(one neuron-one receptor)および,1糸球・1受容体(one glomerulus-one receptor)という,二つの基本ルールによって支えられているが,本稿ではこれらルールの分子基盤について最近の進歩を紹介する。

嗅覚の匂い識別の分子機構

著者: 佐藤孝明 ,   石川享宏 ,   清水章 ,   廣野順三 ,   浜名洋 ,   飯島敏夫

ページ範囲:P.264 - P.268

 オールドローズの芳香に心安らぐ時や美味しい匂いの料理を味わう時に,嗅覚がわれわれの生活を豊かにしていることを実感する。また,マウスでは乳ガンウイルス感染を腫瘍形成前に体臭から検知でき,嗅覚は病気の予兆をも捉えていることになる1)。このような匂い識別が行われる嗅覚情報処理の基礎過程について,最近の知見を紹介する。

嗅覚初期過程のシステム的理解―嗅繊毛内エネルギー変換の生物物理化学

著者: 倉橋隆

ページ範囲:P.269 - P.274

 「香りの感覚」というわれわれのからだの営みは,一昔前には文学的な表現で語られることが多かった分野である。これには,香り分子としてのリガンドの多様性,ナノスケールの嗅繊毛での分子動態計測が実験的に困難であったという研究手法的限界が原因となってきた。しかし,多様性を網羅する分子生物学的手法に加え,近年の電気生理学の即時的応答測定法や光学的測定法,さらには光学的物質操作によるナノテクノロジー的手法を組み入れた最先端研究により,直径100-200nmという超微小な細胞空間としての嗅繊毛内での実時間での物質動態までが記載されるまでになり,驚くべきほど劇的な知見の進展を見ている。いまや嗅覚の研究は,生命科学研究の全領域を見渡しても,生物の多様性対応やナノバイオサイエンス領域の観点で最も先端的な科学領域の一つであるとしても過言ではあるまい。

 本稿では,これらの最先端研究の研究手法の詳細を盛り込み,香りの受容過程におけるいくつかの具体的各論,たとえば,「匂い1分子受容の可否」,「情報増幅機構」,「受容濃度領域」や「香り順応」などのトピックスに焦点をおき,物質的・分子的なレベルで理解される範囲を記載する。

嗅覚受容細胞における活動電位生成機構

著者: 河合房夫 ,   宮地栄一

ページ範囲:P.275 - P.279

 匂いの情報は,嗅上皮に存在する嗅細胞(olfactory receptor cell)と呼ばれる嗅覚受容細胞により受容される。図1は嗅細胞の模式図である。嗅細胞には繊毛があり,この部位に匂い分子の結合する受容体が存在する。匂い分子は受容体に結合することにより受容器電位を発生させる。この嗅繊毛におけるトランスダクション機構については,本誌中の倉橋隆博士による解説(269-274頁)を含めすでにレビューがあるので1-5),本稿では省略する。

 匂い物質により発生した脱分極性受容器電位は,嗅細胞の樹状突起を介して細胞体へと伝わり,細胞体あるいは軸索において活動電位が発生する(図1)。発生した活動電位は軸索を介して嗅球へと伝達されることにより,匂いの情報が脳へと伝わり処理される。本稿では,嗅細胞の細胞体における活動電位の発生機構とその調節機構について主に解説する。

嗅覚の可塑性

著者: 三輪尚史

ページ範囲:P.280 - P.284

 われわれは匂いを習慣的に受容すると,その匂いに対する反応性が増強するのをしばしば経験する。例えば,自分の好きな料理の匂いを遠くから感じることができたり,他の料理の匂いから識別したりする。また,調香師やソムリエに代表されるように,職業的訓練によって匂いの感度および識別能が常人の域を超えるような場合もある。一体,こうした嗅覚の増強はどのように制御されているのだろうか。

 生物は常時変化する外部および内在環境に適応するため,それらの変化に対して適切に応答する性質(可塑性)をもつ。特に,生体の反応性を決定する脳神経系においては,反復刺激によって神経の反応性が亢進および減少する(神経の可塑性)。神経の可塑性は記憶や学習の基盤になる生体事象の一つと考えられており,その分子メカニズムの研究が広く行われている。従来,神経の可塑性の研究では,シナプスの形態変化やシナプス伝達効率の変化が着目されてきた。最近になって,成体の中枢神経系においても海馬ニューロンや嗅球ニューロンが新生し,既存の神経組織に統合されることが明らかになった。これら新生ニューロンが既存のニューロンから成る情報処理を修飾することで可塑性を調節している可能性がある。

嗅覚神経回路形成の分子機構

著者: 宮坂信彦 ,   吉原良浩

ページ範囲:P.285 - P.292

 嗅覚系は匂いの情報を鼻から脳へと伝え,対象物の匂いイメージを創造する感覚システムである1)。1991年のLinda BuckとRichard Axelによる匂い分子受容体の発見2)(2004年ノーベル医学生理学賞)が契機となり,嗅覚研究に分子生物学的および発生工学的手法が取り入れられると,鼻(嗅上皮)から脳の入口(嗅球)へと至る一次嗅覚経路が非常に秩序だった精密な神経接続様式を有することが明らかになった3)(図1)。本総説では,一次嗅覚経路の接続様式とその形成を司る分子群について,筆者らによる最新のデータを交えて概説する。また,嗅球から高次嗅覚中枢へと至る二次嗅覚経路の接続様式については大部分が未解明であるが,これまでに報告されている嗅球ニューロン軸索投射の分子・細胞メカニズムについても紹介する。

嗅球の構成ニューロンとシナプス結合

著者: 小坂俊夫 ,   小坂克子

ページ範囲:P.293 - P.299

 嗅覚一次中枢嗅球は,Axel and Buck1)の分子生物学的解析でその後の機能的解析の方向づけがなされ,情報処理機構解析のモデルとして近年多くの研究が進められるようになった。一方,嗅覚系は他の感覚系と異なり,視床を介さずに感覚ニューロンが大脳皮質である嗅球に直接入力し,そこからさらに上位の中枢に投射することで従来から注目されてきた。さらに,嗅球が一般の感覚系における視床の役割を果たしているのではないかとの仮説2)も提唱され,システムとしての嗅覚系,その中での嗅球の位置づけに新たな視点からのアプローチがなされる可能性も出始めている。

 嗅球の基本構造,基本的神経回路についてはいくつかの総説・成書3-9)にまとめられているので,ここではまず嗅球の構造全般について簡単に記述し,その後,われわれの最近の所見7)を中心に,形態学的に解明されつつある,しかし,機能的意味についてはまだほとんど解明されていない複雑な局所回路網について記述する。さらに,構造の面で残された基本的な問題のいくつかを指摘したい。

脳における匂い感覚地図

著者: 五十嵐啓 ,   吉田郁恵 ,   森憲作

ページ範囲:P.300 - P.307

 匂いの感覚=嗅覚は,空中に漂う揮発性低分子によって媒介される感覚である。40万種以上の分子がわれわれヒトにとっては匂いうると推定されているが,脳はこの膨大な情報をどのように整理し,処理しているのだろうか。脳における匂い感覚地図を解明することが,この問いに対する手がかりを与えてくれる。本稿では,齧歯類を用いた近年の研究から明らかになった,嗅球における匂い感覚地図の知見を紹介したい。

鋤鼻器:フェロモン受容

著者: 椛秀人

ページ範囲:P.308 - P.313

 多くの哺乳動物は,種,性,年齢,発情周期,ストレス状態,社会的順位などを特徴付けるフェロモン(pheromone)を受容・処理して自分の行動や生理を変化させる。フェロモンという術語は,ギリシャ語のpherein(運ぶ)とhormon(興奮させる)との合成語であり,「個体から体外に出され,同種の他個体によって受容されると,特異的な反応を引き起こす物質」として定義された1)。フェロモンは効果の面から二つに大別される。一つはリリーサー効果と呼ばれるもので,中枢神経系に働いて直接に行動を変化させる。他の一つはプライマー効果と呼ばれるもので,神経内分泌系を介して生理的変化を誘起する。

 ヒトや高等霊長類を除く多くの哺乳動物は,通常の匂いの情報処理系(主嗅覚系または単に嗅覚系とよばれる)に加えて,主としてフェロモンを受容・処理する鋤鼻(副嗅覚)系を有している(図1)。鼻中隔腹縁に存在する鋤鼻器の感覚細胞には鋤鼻受容体(V1RとV2R)が発現しており,これらがフェロモンの受容に関わる。本稿では,哺乳動物の鋤鼻系の構造と機能について,最近の知見を踏まえて概説する。

鋤鼻系におけるフェロモン記憶のシナプスメカニズム

著者: 市川眞澄

ページ範囲:P.314 - P.319

 鋤鼻系は鋤鼻器に始まり副嗅球,扁桃体内側部を経て,視床下部に到達する系(図1)で,フェロモン物質を受容し母性行動や生殖行動に関わる神経路とされ,種の保存の重要な機能にかかわっている1-2)。鋤鼻器で受容されたフェロモンは鋤鼻系を経由し,最終的には視床下部の隆起漏斗系から生殖腺刺激ホルモン放出ホルモンなどの下垂体調節ホルモンが分泌され,下垂体からの生殖腺刺激ホルモンなどのホルモン分泌をうながし,その結果,たとえば雌では生殖行動可能の状態を誘導する。また,鋤鼻系は外界環境や内分泌系の影響を受け,可塑的な変化をすることが知られている3-5)。動物のこの適応戦略の一つに,匂い(フェロモン)を記憶する現象が知られている。本稿では,このメカニズムについて述べる。

解説

芸術と脳

著者: 川畑秀明

ページ範囲:P.320 - P.325

 芸術(アート)は現代では特別なものではなく,われわれの生活の一部となっている。絵画,音楽,映画や建築(生活空間)など,われわれは様々なかたちで芸術を鑑賞・創作している。人はなぜ芸術を愛するのだろうか。また,人はなぜ美しいと思い感動するのだろうか。哲学の長い歴史の中でも「芸術とは何か」,「どのように美しさを感じるのか」という問題は繰り返し論じられてきた。

 芸術を創造的に生み出し,豊かに鑑賞する主体は人間の脳にある。豊かな感情や道徳,経済などと同様に,芸術は他の動物に類のない豊かな人間性を支えるものの一つであろう。芸術の脳機能を探ることはこのような人間性の総合的理解においても重要な意味を持つ。また,芸術を創作するということは創作者の内的な信念や認識の表出であり,また,芸術を味わうということは創作者と鑑賞者との対話のプロセスである。つまり,芸術とはコミュニケーションの一つである。

基本情報

生体の科学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1883-5503

印刷版ISSN 0370-9531

雑誌購入ページに移動

バックナンバー

icon up
あなたは医療従事者ですか?