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雑誌目次

雑誌文献

生体の科学60巻1号

2009年02月発行

雑誌目次

特集 遺伝子-脳回路-行動

特集「遺伝子-脳回路-行動」に寄せて

著者: 伊藤正男

ページ範囲:P.2 - P.2

 21世紀に入って既に8年が過ぎて今年はもう9年目である。10年ごとに目覚ましい進歩を刻む生命科学の急速な流れの中で,脳の研究はどのように進んでいるのだろうか。この約10年間の脳科学の進歩を概観すると,本特集の標題に謳ったような3層の構図が浮かび上がってくる。脳の研究は分子からこころまでの多くの階層にわたっているが,遺伝子,脳回路,行動はその代表的な中間的階層である。各階層での研究にはそれぞれ独自の方法論と技術が必要であり,今日まで,各階層ごとに独自の発展を遂げてきた。つまり,遺伝子と脳回路と行動の各階層ではお互いに無縁のまま研究が進んできたといっても言い過ぎにはならないだろう。しかし,それらの進歩の足並みがかなり揃ってきた今日では,それらを貫通してつなぐことが必要であろう。それは決して容易なこととはいえないが,そのような強い機運が醸成されてきたということがこの10年間の特徴的な出来事のように思われる。

 そのような時代の流れを念頭におきながら,本特集では,標題にいう三つの代表的な階層をつなぐ最近の目覚ましい知見を集約することを試みた。遺伝子のレベルでは,2000年にヒトゲノム計画が終了しポストゲノム時代に入った段階で,果たしてそれが脳の研究にどのような新たな展開をもたらしつつあるかに焦点を当てた。それに応えて,八木健氏は遺伝子研究の進歩から脳の形成,行動制御,進化,多様性など広範な問題が新たに展開しつつある現状を概観し,ヒトの脳に導いた進化のシナリオを論じた。また,桃井隆氏はFOXP2遺伝子を手がかりとしてヒト言語機能の発現と障害の分子基盤に鋭く切り込んだ。平井和宏氏は脳疾患の遺伝子治療について最近の基礎研究の進歩を展望して,近い将来への大きな期待を述べている。多数の神経細胞から構成される脳回路は脳が情報を処理する仕組みの実体であるが,多彩な可視化技術,遺伝子操作,薬理学・生理学的手法,計算論的手法の進歩により,このレベルでの進展もまた目覚ましいものがある。川口泰雄氏は徐波の生成を中心に大脳回路の動作の仕組みを論じ,山本隆氏は味覚系,坂野仁氏は嗅覚系について,遺伝子,神経回路,行動をつなぐ最近の目覚ましい進歩を集約した。本号の連載講座における澁木克栄氏らの大脳皮質感覚野の経験による修飾についても合わせてお読みいただきたい。こうして脳の神経回路の解析が進む一方,その働きを理解するためには非生物系にもひろく類似を求めて探索することが重要である。大規模な複雑システム,あるいはインターネットのような膨大な通信システムの原理が脳の仕組みの理解にヒントを与える可能性は決して少なくない。本特集では長谷川幹雄氏にそのような議論を展開していただいた。

遺伝子からみた脳の進化のシナリオ

著者: 八木健

ページ範囲:P.3 - P.12

 フランシス・クリックが「驚くべき仮説」1)において-心の活動の基盤は脳にある-といったように,脳は遺伝子の産物であるという考えは,もはや驚くに値しない。この意味で,脳の働きを遺伝子から解いていくことは自然の成り行きであり,実際に,脳の発生,機能,疾患が遺伝子を用いた研究により明らかにされてきている2)。一方,脳はヒトをヒトたらしめる器官であり,「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」(ゴーギャン)の答えをもつ器官でもある。ヒトの脳は生物の進化の歴史の中で生まれ,拡大,複雑化してきた。また,脳は種々の動物種において多様化し,個々体において個別化して個性や意識を生み出している。進化は偶然の遺伝子変異と自然選択によりもたらされたとされ,ジャック・モノーは「偶然のみが,生命圏におけるあらゆる革新,すべての創造の源泉である。すべてが偶然。絶対的に自由で,しかも盲目的なもの。それこそが,進化という驚嘆すべき建造物の根底に横たわっているのだ」としている3)。遺伝子からみた脳の進化のシナリオとは,この意味で,遺伝子の変異の偶然が,脳の進化でみられる必然をどのように生み出しているかという問いである。

ヒト言語とマウス超音波音声の共通の分子基盤―言語障害(SPCH1)と自閉性障害

著者: 桃井隆

ページ範囲:P.13 - P.22

 「イヌはヒトとコミュニケーションをとりたがっている」これはイヌを飼っていた人ならおそらくだれでもそう思っているに違いない。ドリトル先生ではないが,“犬の意思が分かる夢のマシン”はイヌの鳴き声をマイクでひろい,AD変換したデータを音声データベースにマッチングし,声紋による周波数分析で,フラストレーション,威嚇,自己表現,楽しい,悲しい,要求といった6種類の感情表現に分類し,表示されるらしい。Charles Robert Darwinはヒト言語について「動物のさまざまな情報伝達手段には種の進化にともなった程度の差があるだけで,本質的な差異はない,人間の言語は音的単位の結合を利用することによって,今日の進化をした」と考えた1)。しかし,実証性をともなわない言語の発生に関する論議は長らく歴史の中で封印され,Noam Chomsky(1928-)2)による生成文法の理念まで,本格的な議論を待たねばならない。

 ヒト(ホモサピエンス新人)の言語の特徴は,音声の二重文節(double articulation)により音と意味を結合させた記号をつかった情報伝達行為手段にあるそうである。チンパンジーやゴリラなどの類人猿あるいはイルカ,鳥類などの他動物種はメッセージを伝える何らかの手段をもっているかもしれないが,ヒト言語のような複雑な意味を表現する情報伝達手段をもってないとされている。そういう考え方からすれば,ボーダーコリーのRicoが200語ヒトの言葉を覚え,理解したとしても(図1)3),チンパンジーのアイちゃんがヒトの言葉を覚えたとしても,そんなのヒト言語と関係ないと言語学者が考えていてもおかしくない。研究分野が違うといってしまえばそれまでである。

脳の遺伝子治療の可能性と展望

著者: 平井宏和

ページ範囲:P.23 - P.30

 脳の遺伝子治療は,今からほんの10年前であればまだまだ手の届く範囲にはなかった。神経細胞への効率的な遺伝子導入が不可能であったことが最も大きな理由である。遺伝子治療というのは外から遺伝子を細胞に導入することで疾患を治療する手法であるから,最初の段階がクリアできていなかったのである。

 1990年代には脳以外の疾患に対する数多くの遺伝子治療臨床試験が行われたが,客観的に十分な治療効果を示すものは皆無であった。しかも1999年9月に米国で遺伝子治療の死亡例も報告され,また幹細胞医療の急速な進歩の影響もあり,遺伝子治療は急速に下火になっていった。この当時の印象から,現在も遺伝子治療に対して否定的な見解をもつ人が多い。

大脳皮質における振動生成と結合特異性

著者: 川口泰雄

ページ範囲:P.31 - P.38

 大脳皮質は多様な領域からできており,その多層構造に多種類のニューロンタイプが組み込まれている。このような膨大な数のニューロンからなる大規模回路が秩序だって動くのには,計算機で使われるクロックのようなものが皮質内にあると思われる。幅数百ミクロンのニューロン集団から,単一機能領野や大脳皮質全体,そしてそれらが投射する皮質下構造まで考えると,規則的な単一リズムでこれらの回路網が時間制御されていないことは容易に想像できる。

 皮質表面から電位を記録すると,睡眠・覚醒レベルで異なるが,いくつかの周波数のパワーが強く,これらの帯域が大脳クロックとして使われている可能性がある。この中でも睡眠時にみられる約1ヘルツの徐波(slow wave)はパワーが大きく明確なことから,古くから深睡眠状態の指標になっていた。しかし,徐波の電気生理的実体,生成機構,機能的役割について理解が進んだのは比較的最近のことである。ここでは徐波やそれに組み込まれているより速いリズムと,GABA作働性介在ニューロンの関与について解説する。

味覚行動の脳機構

著者: 山本隆

ページ範囲:P.39 - P.48

 味覚は食行動に欠かせない感覚である。食物の経口摂取に際して,有用なものと有害なものを物質の生じる化学感覚をもとに選別することがその本来の働きである。同じく化学物質が適刺激となる嗅覚は,必ずしも食行動のみに特化した感覚ではなく,対人・対物に関わる社会生活にも重要な感覚である。このような働きの違いが,嗅覚と味覚の受容と処理の神経機構の相違となって反映されているものと思われる。

 食べ物が口に入ると,消化器系,内分泌系,体性運動系などに対する反射活動が生じ,快(おいしい)・不快(まずい)に基づく情動行動が続く,そして,味の質や強さの認知も生じる。このような味覚誘発性の行動(味覚行動)は生得的に生じるものと,学習により獲得されるものに分けられる。本稿では,研究の進展が著しい味覚の末梢受容の仕組みに先ず触れた後で,このような味覚行動を生じさせる脳機構の現状を報告し,考察してみたい。

マウス嗅覚系を用いて「遺伝子-神経回路-行動」を読み解く

著者: 坂野仁

ページ範囲:P.49 - P.57

 ヒトを含む高等動物はいわゆる五感を介して外界からの情報を受容し,それに基づいて意識の世界を構築している。これら多様な入力情報は,脳においてそれがその個体にとってどのような意味を持つのかという情報の質を判断され,情動および行動の指令として出力される。これまで分子生物学者は,外界情報の受容とその伝達,および回路構築や行動判断の解析のために,これらのプロセスに関わる分子の同定やその遺伝子のノックアウトを行ってきた。その基礎となっているのは,one gene-one enzyme説1)に代表される分子遺伝学の基本概念で,一つの遺伝子が一つのタンパク質,さらには対応する機能に結びつく,すなわち特定の遺伝子の変異体の解析によってその機能を明らかにすることができるという立場であった。

 この考え方は,分子生物学の研究が原核生物から真核生物へと移行した遺伝子クローニングの時代を経て,高等生物の複雑系,例えば免疫系や神経系のconditional knockoutを用いた解析の時代に至るまで,分子生物学者に不動の原則として受け継がれてきた。但しここには,解析しようとする機能が特定の遺伝子に対応している,すなわち個々の遺伝子が高次機能の単位となりうるという一つの仮定があった。確かに,神経系におけるチャネルや受容体,投射やシグナル伝達に関わる主要因子のノックアウト解析は一定の成果を挙げてきたが,こと情動や行動となるとそう簡単ではない。上記の重要遺伝子をノックアウトすれば記憶や行動に様々な障害が現れはするが,そのlogicsの解明にはもう一工夫する必要がある。筆者らは,個々の因子やその遺伝子を情動や行動解析の単位とはせず,特定の神経回路や脳の領野を標的とし遺伝学的手法で操作することによって,行動を支配するシステムの理解を試みた。

大規模複雑システムとしてのインターネットと脳の機能

著者: 長谷川幹雄

ページ範囲:P.58 - P.65

 インターネットは非常に大規模なシステムとなり,重要な社会インフラとなってきた。自律分散的なパケット交換型ネットワークであり,その特徴は複雑ネットワーク理論の面からもニューラルネットワークと類似したところがある。近年,モバイル利用などの多様な用途への対応やセキュリティ関連の問題が発生してきたことに伴い,インターネットを作り替えようというプロジェクトが欧米や日本などで立ち上がり,新しい理論を取り込んだネットワーク設計も試みられている。無線ネットワークにおいては,周波数の利用状況や通信品質などを認識しながら通信リソースの利用効率を適応的に最適化するコグニティブ無線技術の研究開発および標準化も進められている。将来のネットワークは,状況をセンシングし,それを基に学習や処理を行い,最適な情報を提供する神経系のようなネットワークとなっていくと考えられる。

 脳とインターネットは,どちらも非常に大規模で複雑なネットワークであり,いくつかの類似している面がある。脳の神経回路網(ニューラルネットワーク)の中では,神経パルスがニューロン間を飛び交い,複雑な情報処理を行っている。一方,インターネットでは,パケットという細かいデータの断片がネットワークの中を飛び交い,通信相手端末まで情報を伝達している。ニューラルネットワークの神経パルスも,インターネットのパケットも,集中的なタイミング制御はなされず,自律分散的にやりとりが行われている。ニューラルネットワークでは,ニューロン間のシナプスに可塑性があり,学習や記憶に重要な役割を果たしている。一方,インターネットでは,ダイナミックな経路制御(ルーティング)技術が用いられており,ネットワークの状態に応じて自律的に経路制御表が作成され,宛先ノードまでのパケット転送経路が決められている。2008年現在で,全世界のインターネット利用者は14億人ともいわれている。一方,人間の脳は1000億個以上ともいわれるニューロンからなるネットワークである。ニューラルネットとインターネットは,自律的にネットワークを構成したり学習したりしながら,非同期的に信号をやりとりする非常に大規模なネットワークである。

それでも脳は想っている

著者: 入來篤史

ページ範囲:P.66 - P.74

脳科学者の初夢

 人間なら誰しも,「“私”とは何だろうか」と想わずにいられない。これを想う「心」は脳の働きで産み出される現象であり,また問うている対象の「私」とは脳の働きとしての「心」であることは誰しも認めるところだろう。最近の脳科学研究の進歩は,生物器官としての「脳」を基盤として,その汎用情報処理装置としての動作原理の追及によって,これまで自然科学と距離があると考えられてきた哲学,心理学,教育学,社会学,倫理学,経済学などの人文・社会科学の領域,さらには芸術や宗教などを含む,あらゆる人間の精神活動の所産である文化をその対象としてとらえつつある……,と期待されるようになってきた。すなわち,「心」の自然科学的解明である。その一方で,個性豊かで何者にも代え難い人間の「心」を,いわゆる自然科学の手法によって解明しようとするパラダイム自体に,人文社会科学と自然科学の双方の伝統的な考え方からは「異和感」を抱くことを禁じ得ないことも,また事実ではある。

 年頭にあたって本稿では,この「期待感」と「異和感」の相克を産み出す問題点について,その所在と実体,およびそれを克服する手立てについて,人間の脳が産み出す心の働きの様式としての諸科学の作法について掘り下げながら,いくつかの(夢想的)思考実験を試みることにする。

連載講座 中枢神経系におけるモジュレーション・11

マウス大脳皮質感覚野の経験による修飾

著者: 澁木克栄 ,   吉武講平 ,   駒形成司 ,   塚野浩明 ,   大島伸介 ,   渡邉健児 ,   任海学 ,   菱田竜一

ページ範囲:P.75 - P.80

 脳の神経回路は経験により活動依存的な修飾を受け,最終的に完成する。この現象は解析が容易な大脳皮質感覚野で盛んに解析されている。遺伝子改変操作は経験依存的可塑性の分子機構を研究する上で重要な手段である。しかし,遺伝子改変操作が容易なマウスの高次脳機能の解析は限定的であり,高次脳機能が詳しく解析されている霊長類の遺伝子改変操作は困難である。このジレンマを解決するため,われわれは経頭蓋フラビン蛋白蛍光イメージングによってマウスの皮質活動を可視化し,経験依存的可塑性を含む高次脳機能の解析に取り組んでいる。神経活動は酸素代謝の亢進を起こし,ミトコンドリア電子伝達系のフラビン蛋白を酸化型にする。酸化型のフラビン蛋白は緑色自家蛍光を発するので,この内因性蛍光シグナルを用いた脳活動のイメージングが可能となる1,2)。マウスでは頭皮を切開するだけで透明な頭蓋骨越しに大脳皮質を観察できるため,内因性フラビン蛋白蛍光シグナルを用いた大脳皮質活動の経頭蓋イメージングが可能である(図1)。われわれは,経頭蓋蛍光イメージングによって,マウス視覚野,聴覚野,体性感覚野の経験依存的可塑性の解析を進めている。

実験講座

X線結晶構造解析を目指したタンパク質の無細胞発現系

著者: 外山光俊 ,   白水美香子 ,   横山茂之

ページ範囲:P.81 - P.86

 生体内では,何万種類ものタンパク質を中心とする数多くの生体分子によって,生命活動が支えられており,それらの分子は様々に相互作用することによって機能を発揮している。そこで,タンパク質および相互作用する分子の構造を解明することによって,生命分子システムの解明,さらには,その障害によって引き起こされる疾病の克服に繋がることが期待される。

 タンパク質のX線結晶構造解析を行うためには,数mg以上の高純度のタンパク質を調製する必要がある。したがって,タンパク質のX線結晶構造解析を成功させるためには,品質のよいタンパク質が大量に発現する条件をいかにして見つけ出すかということが重要なポイントとなる。

基本情報

生体の科学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1883-5503

印刷版ISSN 0370-9531

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