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雑誌目次

雑誌文献

生体の科学75巻4号

2024年08月発行

雑誌目次

特集 シングルセルオミクス

特集「シングルセルオミクス」によせて

著者: 渡辺亮

ページ範囲:P.290 - P.290

 生命科学研究は,解析の解像度の向上と共に進展してきた。シングルセルバイオロジー(Single Cell Biology)は,生体を構成する最小ユニットである1細胞レベルで生命現象を明らかにする学問で,この10年間で“最先端の技術”から“幅広く普及した基盤技術”に変わりつつある。そのなかでも1細胞レベルの遺伝子発現解析は,発生の時系列を描写し,腫瘍内のヘテロ性を明確にするなど疾患をより深く理解することに貢献し,更に,細胞種を規定・類推する手法として確立するなど,生命科学・医学の方法論を大きく変えた。

 Facebook(現 Meta)の創業者であるMark Elliot Zuckerberg氏と妻の財団(Chan Zuckerberg Initiative)は,ヒトの体を構成するすべての細胞の分類を試みる国際コンソーシアムHuman Cell Atlas(HCA)を設立することを最初の仕事にした。そのときに夫妻が書いた“Two years ago, when our daughter Max was born, Priscilla and I wrote a letter about the world we hoped she and all children would grow up in.(中略)Next, we're working to accelerate science and help scientists cure, prevent, and manage all diseases in our children's lifetime.(中略)One example is the Human Cell Atlas. Think of it like the periodic table of elements in chemistry, but for biology. There are more than 10,000 different types of cells in the human body, but no one has identified or examined the properties of all of them. Once the atlas is complete, it will be an important resource for helping scientists understand basic biology and how to get cells to interact to ultimately cure diseases.”の文章は,子どもが大人になるときにあらゆる病気を管理,予防,そして治癒する世の中のためには,1細胞レベルでの生体の理解が必要であることを示している。おもしろいのは,この細胞アトラスづくりを物質の最小構成単位である元素表に例えていることである。また,20年前は細胞種が200-300程度だと言われていたが,このプロジェクトがスタートして少し経った7年前に書かれたこの文章では10,000を超えるとなっていることも興味深い。

Ⅰ.シングルセルオミクスの原理

心不全の病態を理解するシングルセルオミクス解析

著者: 野村征太郎

ページ範囲:P.291 - P.298

 心臓には,心筋細胞をはじめ線維芽細胞,内皮細胞,平滑筋細胞,免疫細胞など多彩な細胞が存在している。臨床的に心不全の病態が個々に異なるように,その病態を構成する分子機序も大きく異なると考えられる。このような細胞レベルの詳細な分子プロファイルを網羅的に抽出して解析するのがシングルセルオミクス解析である。シングルセルオミクス解析は,循環器領域に限らず生命科学のあらゆる分野において革新的な成果を挙げている。本レビューでは,シングルセルオミクス解析によって明らかになってきた循環器疾患の分子病態をレビューすると共に,今後のこの分野の将来展望について議論したい。

超微量プロテオーム解析の原理と現状

著者: 松本雅記

ページ範囲:P.299 - P.304

 近年,1細胞解像度で様々な分子階層におけるオミクス解析が盛んに行われている。生体内反応の実質的な担い手であるプロテオーム階層においては,核酸を対象としたオミクスと異なり増幅できないことから,質量分析計を用いた網羅的解析は不可能とされてきた。しかしながら,近年の質量分析計の高性能化や周辺技術の充実によって,極めて少数の細胞を対象としたプロテオーム解析が現実味を帯びてきた。本稿では,1細胞プロテオミクスまで視野に入れた質量分析技術や試料調製法の原理と現状を紹介し,将来展望を述べたい。

イメージングを用いた組織・臓器スケールの空間シングルセル解析

著者: 来栖玲央 ,   洲﨑悦生

ページ範囲:P.305 - P.309

 シングルセル解析や空間オミクス技術の開発により,1細胞や組織切片でのRNAの発現量を網羅的に解析することが可能になった。1枚の組織切片を複数回免疫染色する手法(マルチプレックス免疫染色)は,腫瘍や免疫組織での多様な細胞種同定や細胞間相互作用の解析に用いられている1-5)。しかし,生体組織は複雑な三次元構築を持つため,細胞の分布や細胞間相互作用の解析は組織の空間的な三次元構築を保ったまま行うのが理想である。筆者らは,組織の三次元構築を崩さずに光学的に透明にする手法(組織透明化)6,7),三次元組織を免疫染色する手法8),透明化組織を観察するためのライトシート顕微鏡9)を開発し,個体・臓器に含まれるすべての細胞(cellome)の三次元的な配置を対象とした解析“セルオミクス(cellomics)”を提唱している(図1)。

 一方で,組織透明化で一度に観察できるタンパク質・RNAは数種類程度に限定されており,セルオミクスで得られる発現分子の情報量を向上させるために,この種類を増やすことが重要である。本稿では,組織透明化を用いた三次元個体・臓器シングルセル解析,マルチプレックス免疫染色による二次元組織シングルセル解析を概説し,組織透明化とマルチプレックス免疫染色の統合に向けた展望を紹介する。

1細胞ダイナミクスの推論—計測・計算手法の進歩と応用

著者: 島村徹平

ページ範囲:P.310 - P.317

 シングルセルトランスクリプトミクスは,生物学の様々な領域において,発生や疾患のメカニズム解明に多大な貢献をしてきた。例えば,細胞分化過程の可視化1),腫瘍微小環境の解明2),稀少細胞集団の同定3),細胞間相互作用の解析4),疾患特異的な遺伝子発現パターンの発見5),治療標的の探索6),薬剤応答性の予測7),など,1細胞解析によって初めて明らかになった知見は数多くある。この技術は,個々の細胞の網羅的な遺伝子発現情報を提供し,細胞表現型の詳細な記述を可能にした。

 近年,シングルセルトランスクリプトミクスの技術的進歩に伴い,研究の焦点は細胞表現型の記述から,その表現型を駆動する遺伝子制御メカニズムの解明へと移行しつつある。1細胞解析は,網羅的な遺伝子発現情報と個々の細胞の微妙な挙動を捉える能力により,この分野に最適のアプローチであると考えられている。しかし,遺伝子制御ネットワークのモデリングは依然として困難な課題であり,既存の手法では限定的な成功しか収めていないのが現状である。

Ⅱ.各分野におけるシングルセルオミクス解析の現状

脳の複雑性を明らかにするシングルセル解析

著者: 菊地正隆 ,   長谷川舞衣 ,   宮下哲典

ページ範囲:P.318 - P.323

 認知,情動,言語,運動といった高次機能の中枢は,たった1つの臓器である脳によって支配されている。しかし,脳は様々な領域や細胞種によって異なる機能や特徴を有し,その理解は困難を極める。近年,単一細胞レベルで網羅的な遺伝子発現を捉えることができるようになったことで,その複雑性は徐々にひもとかれようとしている。

 本稿では,シングルセル解析によって明らかになった脳組織や,それを構成する神経細胞やグリア細胞の多様性について紹介すると共に,疾患の機序解明や治療に向けた動向について概説する。また,脳という組織を取り扱うがゆえに生じる解析の特徴や注意点についても述べる。

がん研究におけるシングルセル解析の実際と最近の動向

著者: 鈴木絢子 ,   善光純子 ,   鈴木穣

ページ範囲:P.324 - P.328

 がん細胞はその進展に伴い,周囲の環境・ストレスに適応して増殖していく。そのため腫瘍組織を構成するがん細胞は,ゲノム変異や遺伝子発現異常をはじめとした多様なオミクスステータスを有している。また,腫瘍組織は,がん細胞だけでなく周囲の免疫細胞や線維芽細胞といった様々な細胞種から成り立っており,これらはがん細胞と相互に影響し合っている。このような,腫瘍内不均一性・腫瘍微小環境の状態を網羅的に計測するためには,1細胞ごとの詳細なオミクス解析を行うことが重要である。最近では,ホルマリン固定パラフィン包埋(formalin-fixed paraffin-embedded;FFPE)検体を利用したシングルセル解析も行われており,保管されている貴重な臨床検体などを含む,より幅広いタイプの腫瘍検体を用いた解析が進むのではないかと期待されている。更には,細胞の空間情報・病理組織学情報を考慮した空間的遺伝子発現解析についても,がん研究への普及が飛躍的に進んでおり,1細胞レベルでの計測が可能となっている。

 本稿では,シングルセル解析技術を活用した腫瘍研究分野における研究報告を紹介しつつ,最近の技術発展について概説したい(図)。

リウマチ・膠原病疾患におけるシングルセル解析

著者: 西出真之

ページ範囲:P.329 - P.335

 シングルセルRNAシークエンス(scRNA-seq)に代表されるシングルセル解析は近年,様々な疾患の病態理解に革新をもたらしている。これまで均一な集団とみなされてきた臓器や血球細胞の遺伝子発現の多様性を単一細胞レベルで明らかにし,病気をかたちづくる新たな機能性細胞群が発見されている。特に2010年代後半以降,リウマチ・膠原病疾患の領域においても患者検体を用いたシングルセル解析が活用され,多様な症状の根底に存在する免疫異常が明らかになってきている。

非モデルと言う勿れ—スーパーモデル生物はシングルセル解析をどう行うか

著者: 西辻光希

ページ範囲:P.336 - P.341

 「モデル生物とはなんですか?」

 このように質問されたら何とお答えになるであろうか。多くの読者の方がマウス,ラットなどの哺乳類を思い浮かべられたのではないだろうか。次点でchickやアフリカツメガエル,ゼブラフィッシュ,メダカなどの脊椎動物が挙げられる可能性が高い。更には線虫やショウジョウバエを連想なさる方もいらっしゃるかもしれない。おそらく,研究者人口に比例した結果が得られると考えられる。

Ⅲ.シングルセルオミクスを応用した最近の実例

マルファン症候群における大動脈瘤・解離の研究の動向—シングルセル技術の視点から

著者: 浅野恵一

ページ範囲:P.342 - P.347

 マルファン症候群(MFS)は,細胞外マトリックス・フィブリリン1(FBN1)の遺伝子変異によって起こる常染色体顕性(優性)遺伝の結合組織疾患である。MFSは脆弱な大動脈壁を呈し,大動脈瘤・解離を発症する。先行研究より,アンジオテンシンⅡ 1型受容体(AT1R)やTGF-βをはじめとする様々な分子の関与が報告されてきたが,その詳細は不明である。本稿では,主に本疾患における基礎研究の動向に焦点を当て,シングルセル技術により明らかになった知見と今後の展望について論じる。

シングルセルデータを用いた遺伝子制御モデルの構築と細胞運命制御のシミュレーション解析

著者: 神元健児

ページ範囲:P.348 - P.355

 様々な細胞で構成される多細胞生物の発生の過程は,複雑な遺伝子制御により駆動される。近年のシングルセルオミクス技術の発展は細胞の詳細なプロファイリングを可能にするが,データの背後にある複雑なメカニズムを解明することは容易ではない。本稿では,発生研究でのシングルセル解析手法の背景に始まり,筆者らが最近報告したシングルセルオミクスデータを利用したデータ解析手法1),そして関連する最近の研究,今後の課題と展望について紹介する。

多能性幹細胞由来ヒト胚モデルを用いたヒト初期胚発生研究

著者: 大久保巧 ,   髙島康弘

ページ範囲:P.356 - P.361

 近年のシングルセル解析技術の発展に伴い,初期ヒト胚の解析が進み,胚発生機構の解明が急速に進んでいる。解析が進むにつれ,ヒトとマウスでは想像以上に遺伝子の発現パターンが異なっており,発生機構が異なる可能性が示されつつある。これまで,ヒトの胚発生機構はマウスを用いた研究で得られた知見を基に考えられてきたため,近年ヒト胚を用いた研究の必要性が増している。しかし,ヒト胚を用いた研究には倫理的な制約があり,また使用できる胚の数が限られている。更にヒト胚の場合,マウスのような実験動物とは異なり遺伝子編集を用いた機能的な解析が困難である。近年,多能性幹細胞を用いたヒト胚モデルが報告され,ヒト胚を用いずに胚発生機構を研究することができるツールとして期待されている。

 本稿では,ヒト初期胚発生に関連した最新の知見を概説すると共に,筆者らの研究内容について紹介する。

神経科学における分子バーコード技術を用いた神経回路研究

著者: 郷康広

ページ範囲:P.362 - P.368

 神経科学や脳科学研究では,脳の複雑な形態的・解剖学的な構造と生理学的・行動学的な機能連関,あるいは恒常性の破綻として顕れる疾患の理解と因果性の解明を目的とし,それを達成するための様々な技術開発が行われてきた。脳の構造や活動を非侵襲的に可視化するMRI(磁気共鳴画像法),fMRI(機能的磁気共鳴画像法),PET(ポジトロン断層法)などのイメージング手法,細胞内電位・電流を測定し,細胞の電気的性質を解析することによって脳の活動を明らかにする電気生理学的手法,遺伝子発現が脳神経系を構成する細胞にどのように機能するかを調べるための遺伝子ノックアウト・ノックインなどの遺伝学的手法,脳のネットワークの動作原理を理解するための数理モデリング・シミュレーションなどの計算神経科学的手法など,その手法は多岐にわたる。なかでも近年の技術革新により,脳を構成する細胞の機能を1細胞レベルで解析する“シングルセルオミクス解析”が飛躍的に発展し,神経科学研究にもパラダイムシフトが起こっている。

 本稿では,それらの近年飛躍的な技術開発の進展が著しいシングルセルオミクス解析技術が神経科学・脳科学の諸問題にどのように適用されているのか,特に脳神経系に特異的なモダリティである神経回路の構造と機能にどのように貢献しているかを概観する。

連載講座 生命科学を拓く新しい実験動物モデル-21

透明魚ダニオネラ—生命科学研究の新たな生体イメージングモデル動物

著者: 安藤康史 ,   菊地和

ページ範囲:P.369 - P.374

 近年のイメージング技術の発展により,細胞内の重要な反応を生きたままに分子レベルで観察できるようになってきた。しかし,一般的なモデル動物として使用されているマウスでは,皮膚表面に近い部位のイメージングは可能であるものの,体の深部の臓器や組織のイメージングは現在なお困難である。従来,ゼブラフィッシュやメダカなどの小型魚類が生きた個体のイメージング研究に使用されてきたが,組織が透明であるのは稚魚のみであり,成体でのイメージングは難しい。

 本稿で取り上げる実験動物モデルは,近年その高い組織透明性から生体イメージング研究における有用性が注目されているダニオネラ(Danionella)である。ダニオネラはウロコがなく皮膚や腹部臓器を覆う膜も完全に透明であるため,ほぼすべての臓器で生きている細胞の機能や病態をオルガネラレベルでイメージングすることが可能な画期的なモデル動物になり得ると期待されている(図1)。

仮説と戦略

遠心偏光顕微鏡を活用して細胞内でオルガネラを移動させる力を測定する

著者: 木村暁

ページ範囲:P.375 - P.379

 遠心分離装置は生物学の多くの実験室に備わっているなじみの深い装置であろう。様々な生化学,分子生物学の実験において,混合物を密度に応じて分離する際に用いられている。生きた細胞にそのまま遠心力をかける実験は近年はほとんど見かけなくなってきたが,古典的には細胞の性質を明らかにすることに貢献してきた。

 本稿では,生きた細胞に遠心力をかけながら観察できる遠心顕微鏡を使って,細胞内の力を測定する筆者らの最近の試みについて紹介したい。細胞内で発生する力を測定する方法は限られており,本稿で提案する手法が細胞内の力を理解する助けになると期待する。

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目次

ページ範囲:P.289 - P.289

書評

著者: 小野寺理

ページ範囲:P.380 - P.380

書評

著者: 市原真

ページ範囲:P.381 - P.381

次号予告

ページ範囲:P.382 - P.383

あとがき

著者: 岡田随象

ページ範囲:P.384 - P.384

 今回は渡辺 亮先生をゲストエディターにお招きし,シングルセルオミクス研究の特集を企画していただきました。実験解析技術,情報解析技術,疾患応用研究まで,1細胞解像度で得られる最先端の知見を幅広くかつ奥深く捉えた特集になったと感じています。

 渡辺先生が巻頭で述べられたように,鳴り物入りで登場したシングルセル解析技術も,ふと気付くと「幅広く普及した解析技術」としての地位を獲得しつつあります。シングルセル解析に興味を感じているものの,どのようなスタディデザインで取り組めばよいか悩んでいる方,出版された論文を読むだけではわからない現場の感覚を知りたい方,ありふれた手法ではなく自分ならではの独自解析手法の開発を目指したい方,様々な立ち位置に様々な悩みがあるのではと思います。本特集が,読者の皆様の多様なニーズに少しでも答えることができたら幸いです。

基本情報

生体の科学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1883-5503

印刷版ISSN 0370-9531

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