icon fsr

雑誌目次

雑誌文献

病院12巻5号

1955年05月発行

雑誌目次

座談会

昔の病院を語る

著者: 塩田広重 ,   西野忠次郎 ,   橋本寬敏 ,   尾村偉久 ,   守屋博 ,   小西宏 ,   木下正一 ,   金原一郞

ページ範囲:P.2 - P.12

 金原社長  今日は"昔の病院を語る"ということで座談会をします。両先生にお出願いまして有難うございました。一つ橋本先生に司会をお願い致したいと思います。

インターン生活一年を顧みて—(昭和30年3月12日聖路加際病院インターン宿舎にて)

著者: 光宗哲夫 ,   佐藤辰男 ,   豊田吉男 ,   都田潤一郎 ,   山田喬 ,   岡本重礼 ,   坂口大吾 ,   矢野博 ,   加賀美光安 ,   滝野賢一

ページ範囲:P.56 - P.62

滝野 「いよいよ,諸君のインターン生活も終りということになつたんですが,この一年間のインターン生活について色々とお感じになつたことや,夫々意見があることと思うんです。それを話し合つてみたらどうです。僕がとやかく云うより,君達,インターン諸君だけで,自由におやりなさいよ。」
E 「デハ,はじめますか,この一年間を振返りながら,皆で自由に,お互に,思うがままに話してみようぢやありませんか。先ずこの病院に入つてきた当初の事について誰か……」

--------------------

ベツトから見た病院の種々相

著者: 千種峯藏

ページ範囲:P.15 - P.19

 私は前に「病院のよく見える窓」という短文を書いた。「病院のよく見える窓」とは言い換えれば,「患者に開かれた窓」という意味である。病院は1つの組織体であるから,その構成員が,それぞれの担当を,忠実に守ることによつて,組織全体の運営が成り立つのは当然のことである。しかし又その為めに,長期反復する自分の業務に,慣れつこになつたり,機械的となつたり,マンネリズムに陥つたりすることも出て来るわけである。業務上の習慣は,有難いものであると同時に恐ろしいものである。有難いということは,能率の上る点であり,恐ろしいということは,機械的になり,無反省になるという点である。
 長年の経験によつて,業務の軌道の上を,スムースに前進しつつあると思つている人には,そこに問題を意識したり,検討の必要を感じたりする筈がない。処が,全く違つた立場から眺めると,スムースな前進と思われている処にも,不合理なことや,不可解なことの介在が,目につくものである。所謂「岡目八目」というものであろう。私の言う「病院のよく見える窓」というのも,つまりは,この岡目八目に外ならない。只私の場合は,患者というだけでなく,病院管理の関係者というところに,特有な立場があると言えば言えるのである。

手術室に附設せる中央材料室

著者: 左奈田幸夫 ,   高山勝尾 ,   小沢五一郎

ページ範囲:P.21 - P.25

まえがき
 病院経営の一部として,その能率向上と諸経費の節約の上で,セントラル・サプライ・システム(中央材料補給方式)の利点は,漸次世の認識を得るに至つた。吾々は更に中央材料室と手術室とを一つの単位とする中央材料手術室を設置し,衞生諸材料を総て一括して支給する形式をとつてみた。この方法を始めて約2ヵ年を経たので,この方法を採用しなかつた昭和26,7年度と比較して,如何程成果が上つているかを調査した。

外来注射センター

著者: 小島博 ,   兒玉孝子

ページ範囲:P.27 - P.30

 綜合病院に於て外来患者に対する投藥を,処方箋によつて藥局で受取らせると同じように,外来患者に対する注射を伝票によつて,外来注射センター(仮称)で受けさせたならば外来診療の繁雑さが多分に緩和されるのみならず,兎角ルーズになり勝な外来注射藥の管理が充分出来るであろうという考え方は,以前から誰もがもつていた事であり,又一部では実施されているという事を聞いてはいたが,本院では病院管理研修所の守屋技官のすすめもあつて昨年の夏から実施し初めた。その後約半年を経過したので,その概略をまとめてここに報告する次第である。
 先ず注射センターの場所であるが,これは出来るだけ患者が注射をうけるのに,便利な場所を撰ぶべきは当然で,普通であれば藥局とか,会計事務等が患者の出入口即ち玄関の近くにあるのが便利なのと同じく,その附近におくのが望ましい。本院では差当り左様な場所に適当な空間がないので,二階の処置室をこれに当てている。内科外科の外来が階下にあるので多少不便ではあるが,他の科は総て二階にあるのでまだいいがそれでも処置室が玄関から最も遠い所にあるので,患者には多少の不便をかけている。

ブラジルの病院事情—第2部 大学病院

著者: 後藤正良 ,   今村栄一

ページ範囲:P.33 - P.37

 ブラジルにおける一般の病院の事情については第1部で述べたので,ここでは医師のコースを中心として,大学病院及び医学教育について紹介したい。大学病院として代表的なサンパウロ大学の附属病院について述べる。

病院史概説(14)

著者: 岩佐潔

ページ範囲:P.65 - P.69

XV.イギリスにおける病院発達に対する考察
1)英国の社会状況と18世紀における病院設立運動の原因
 イギリスに於ては1538年ヘンリー8世によつてカトリツク系の病院が閉鎖されて以来はロンドン市に僅な病院が残つた以外は殆んど全国に亘つて無病院の状態となつた。丁度古い封建勢力に代つて商工業が発展を始めた時代で人々は次第に自由放任の思想に傾き病院を造り,病人の世話をすると言う様なことは余り関心をひかなかつた。しかし隷属から自由への動きは又同時に生活維持の安定から不安定への動きであつた。中世的秩序が壊れて近代的秩序に移行するに当つて古い紐帯を切られた不安定な労働者の群が現われて来た。それは農場が統合されて牧地に変つてゆくことにより先ず生じ,16世紀から17世紀に到つて彼等の貧窮は重大な問題となつてきた。これに対して,1601年救貧法が設定されたが,その医療施設は全く不十分であつたことは先に述べた。所で17世紀から18世紀にかけて一般人口が急激に増加すると同時に貧窮者も加遠度的に増加した。しかしかかる社会現象は18世紀後半における産業革命時代のそれの様にきわだつた激烈なものではなく隠かな一般的繁栄の蔭にかくれた少数の特に注意深い博愛主義の人々の目にだけやつととまつた現象に過ぎなかつた。

大学病院の建設計画展望(1)—北大附属病院の卷

著者: 小林秀弥

ページ範囲:P.71 - P.74

 国立大学の附属病院は全部で19ありましてなお2〜3ヵ所増えんとする傾向にありますが,そのいずれもが永久建築への建設途上で道草を喰わされたり,旧態依然として腐朽甚だしき木造建築のまま放置されたり,臨床学科講座などの増設があつても在来の坪数の中へおし込めさせられたり,或は壊滅的戦災を受けたまま極く一部の復旧でお茶をにごされたままで放置されていたりしていてどの病院でもこのままではその使命達成が不可能な様な困つた状態にあるのであります。
 一方に於て大学病院には特別会計制度による独立採算制が近く行われる由が放送されて,教育と研究にのみ重点を置いて病院の合理的経済的運営を度外視した在来の各科割拠主義のやりかたでは無駄ばかり多く各病院の管理運営費が嵩んで研究費を喰物にせざるを得ない様な結果を憂慮する声が起つて来たのであります。

Doctors' Taperecord

著者: ,  

ページ範囲:P.75 - P.76

人間ドツク
 「人間ドツク」は今や医療界の新流行語となつた。機をみるに敏なる製薬会社などは早速自家宣伝に利用し始めている。東一と聖ルカで「人間ドツク」と銘をうつてこの仕事を始めて丁度1年になるが,ドツク入り希望者は益々増加の傾向にあつて両院共1年先まで予約済みとある。一つには受入れ能力が需要に応じ切れないという稀少価値が招く魅力もあるのかも知れないが,健康の保持ということに対する人心の機微に訴える何ものかが根本にあるとみてよいであろう。今日の医療機関における診療のあり方に一つの石を投じたことになる。その描き出した波紋が意外に大きかつたということは今までの医療関係者が見落していた盲点を世間が指摘してくれたことに他ならない。併し,この仕事は内容は何等特別なことはなくて結局は健康診断なのであるから,従来も断片的にはどこでも行われていたことである。専門医と必要な設備さえあれば,どこでも行われ得る筈だからである。併し,「人間ドツク」としてのミソは,その様な各種の健康診断法が組織的に且短時日に行われる,ということにある。こうなると話は又変つて来て,そのような診断は各種の専門家と診断設備がそろつており,その作業が正確且機械的に手順よく進められる所でなくては不可能であるから,どこでもやれるという筋合いのものではなくなる。

研修所だより

著者: 岩佐

ページ範囲:P.77 - P.77

 前回書きました様に建築技師を対象とした第50回病院管理研修会が3月9日をもつて終了しました。これは病院建築の講習会としては2回目のものです。講義の構成としては前半が病院管理学一般であり後半が建築の技術的問題であつたことは前回と同様です。ただ前回は各講師の担当区分が明瞭でなく,その為に概論的な部分が重複したうらみがありましたが,今回は部門別にしてその担当を明白にしました。小川所員は前回と同様医療法や建築基準法との関連において病院建築の基準を話しました。東大助教授の吉武氏は守屋所員の講義した病院管理総論の新しい病院のあり方を具体化した病院建築の総論的話をしました。即ち病棟部と診療補助部及び外来部をはつきり分つこと,病棟は看護単位にして積み重ねること,木造よりも本建築である方が有利であること等々を主張しました。小林建築事務所長として病院建築実務に多くの経験を持つ小林氏は診療部即ち外来部と中央診療補助機関のそれぞれについて細く数字をあげて講義しました。住宅金融公庫の田口氏は病棟部における各看護単位の構成大きさ,配列特に病室の細い点について説明しました。自ら設計した療養所の実例についても詳しく述べました。三木組の大沢氏は岩佐所員と石原所員が講義したサービスに対して,その部即ち厨房,洗濯場を主としての建築とその設備を話しました。桜井建築設備研究室の桜井氏は病院設備としてボイラー,消毒,上下水,焼却炉,空気調節等に関して詳しい説明をしました。

グラフ

小児病棟管理

著者: 今村栄一

ページ範囲:P.41 - P.54

1.病院と小児
 従来病院における小児は小児科病棟に入院したもののほかは,各科のおとなの中にまじつて,まま子扱いとされており,病院管理上も不便とされていた。小児を入院させた場合には単に「疾病」の治療だけでなく,「小児」全体として取扱わなければならない手間があるからである。
 小児は発育するものである——身体的にも精神的にも。入院した場合においても疾病の治療だけでなく発育も同時に考慮されなければならない。

病院長プロフイル・21

重厚な手腕家小野寺直助氏(社会保険下関厚生病院長)

ページ範囲:P.55 - P.55

 一口に申せば,ただ日本人の寿命だけでなく,その活動能力をも身をもつて延長して来た医学者である。写真に見られる様に円満,温厚然も老いてますます盛んな常に笑顔の今年満72才の先生である。
 本州の南端,九州への入口,渦潮まく関門海峡に望む下関の漁商船の出入おびただしい港口に臨むこの病院が下関市民は勿論,多くの内外国船員が安心して働く事が出来る様に最善の努力をなし,そして多くの感謝を受けているのは院長の徳の一端であろう。
 先生は岩手県胆沢郡前沢の明治16年の産,明治37年一高を終え,九州帝国大学の前身福岡医科大学の明治41年の恩賜金時計組。大正5年九大内科教授(第三内科初代教授)。東北人特有の努力と忍耐,九州人の情熱と実行力とを相合わせた先生は昭和9年の「胃運動描写法の臨床診断的価値に関する研究」に対して日本内科学会よりの恩賜金記念賞の授与となり,別府九大温泉研究所の設立等公私多忙の中に停年,九大名巻教授となり,普通の隠居のコースを先ず打ち破り,高き理想と情熱で招かれて自身,満州医学開拓にのり込まれたのであるが終戦となり帰国後,国立亀川病院長更に懇願され久留米大学々長として政治的,教育的な手腕を発揮され同大学を今日あらしめた人である。ついで昭和25年に現在の下関厚生病院に迎えられた。

基本情報

病院

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1383

印刷版ISSN 0385-2377

雑誌購入ページに移動

バックナンバー

icon up
あなたは医療従事者ですか?