icon fsr

雑誌目次

雑誌文献

病院13巻2号

1955年08月発行

雑誌目次

特集 第5回日本病院学会

第5回日本病院学会を迎えて

著者: 長岐佐武郞

ページ範囲:P.2 - P.2

 青葉香る6月中旬,第5回日本病院学会を迎えるに至つた。かえりみれば,終戦後まもなくアメリカの勧奨により,わが国初めて病院管理協議会(現在の病院協会)が生れ,その研究業積を学問的にとりあげて発表する会が病院学会であつた。
 終戦直后の虚脱状態から,アメリカ主訳時代を経て,ようやく日本現在の病院状態に則した研究がぞくぞく生れてきた。ことに昨年は厚生省においても,この日本の病院管理に重大な関心がもたれ「病院サービスの標準化に関する研究」が厚生科学研究の一端にとりあげられるに至つた。各担当者の御苦心により日本に於ける現在の病院の実態を知ることができたが,かかる研究はわが国では未曾有のものであつた。かくして将来の理想に対する今後の方針をきめる上に得るところ実に多大のものである。蓋し本学会の特別講演として,大方の御期待にそうものあることを信じて疑わない。

第5回日本病院学会総会講演内容抄録

著者: 真銅参太郎 ,   片山一彦 ,   大橋啓啓 ,   菱田雅子 ,   安達悦子 ,   順黌幼子 ,   佐々木重夫 ,   田中昇 ,   岩佐潔 ,   金田重夫 ,   菱田雅子 ,   一条勝夫 ,   岡田たつ子 ,   片山弘 ,   菅原かねの ,   常葉恵子 ,   阿久津フミ子 ,   武藤多作 ,   滝野賢一 ,   赤星一郎 ,   加来輝夫 ,   千田昭 ,   竹下たま子 ,   奥山すゑ ,   石戸谷ちゑ ,   松下和子 ,   大塚ミヨ ,   中野和好 ,   今村栄一 ,   東陽一 ,   長岐佐武郎 ,   高橋文雄 ,   金子清 ,   鈴木義孝 ,   竹石利一 ,   金子敏輔 ,   西村泰 ,   斎藤敏郎 ,   石原信吾 ,   守屋博 ,   神崎三益 ,   大島貞夫 ,   岡野耕三

ページ範囲:P.27 - P.36

病院下駄箱の利用度
 病院の清潔を保つために院内に土足を入れない事は必要なことである。戦後物資の欠乏から下足代をとつて上履を貸した時代もあつたが最近はその様な事はなくなつた。然し病院を訪れる患者,見舞人等で備付のスリツパを利用しない人もある。来院時に特別の注意,指示を与えないで自然の状態で観察を行つて掲示通りに下駄箱を利用する者,しない者を性別・年令別・履物別・天候別に比較した。

病院学会印象記

著者: 岩佐潔

ページ範囲:P.39 - P.42

 梅雨時と言うのが例年の病院学会で去年も細かい霧雨が大学の銀杏の葉をしめしていた。今年は去年より1日早い6月18日場所も目黒日吉坂上の公衆衛生院と代つて幸に雨も落ちていない。門柱に第5回日本病院学会会場と書かれた立札が立掛けてある以外にはこれと言つて目を惹くものもない。案内知つた公衆衛生院のことであるからすたすた入つて行くと玄関前に看板をぶら下げたスマートな自動車が置かれて居り4—5人の人が中をみている。近よつて見ると試作されたトヨダの急救車だ,一般演題の第2番目に出て来る車だなと思う。会場は三階の大講堂で詰めれば300人は入れそうだ。定刻30分も前なのにすでに可成りふさがつて居る。会場の世話を引受けた人々が暗幕を引いたり幻灯を用意したりしている。舞台裏の世話はなかなか大変である。もつとも病院管理自体が舞台裏の仕事の様なものだとも考えてみる。
 定刻を少し遅れて8時45分長岐会長登壇して開会を宜する。会場はすでに8分の入り,白髪の老先生が居られるかと思うと溌刺とした女性も交り,色々な種類の人がそれぞれ興味を持つて集つているから面白い。

宿題報告

入院サービスの標準化に関すろ研究

著者: 神崎三益 ,   小西宏 ,   原素行 ,   滝野賢一 ,   荒木威 ,   菅修 ,   片山弘

ページ範囲:P.3 - P.25

1.緒論並に一般病院の一般事項
 近代病院の価値は医師の能力,診療設備及び収容サービスの3大要素によつて決まる。
 その3要素の1である収容サービスの現況を調査して「斯くあり」から「斯くあらねばならぬ」の線を出して,我国の医療に寄与せんとしたのが本研究の趣旨である。

座談会

第5回日本病院学会総会を語る

著者: 東陽一 ,   片山弘 ,   小西宏 ,   長岐佐武郞 ,   原素行 ,   荒木威 ,   神崎三益 ,   島內武文 ,   橋本寬敏 ,   武藤多作 ,   尾村偉久 ,   菅修 ,   滝野賢一 ,   橋本寿三男 ,   守屋博

ページ範囲:P.44 - P.52

 守屋 病院  学会の今までの経過,全体のあり方について何か会長から一つ,……
 長岐  いやとにかく口切りだけやりましようか。病院学会が生れてから丁度今年で5年目になります,初めはただ守屋さんが世話役でこれが始つてきたのですが,閉会の挨拶のときにも申しましたように一体日本には病院管理なんていうことは置き忘れられておつたような感じであつたのです。それが終戦後アメリカの連中が進駐してきて病院の管理ということをまつとうに取り上げることを干渉したわけですね。われわれも学生の時分には患者を治す事ばならつたのだが,病院の管理となると何もおそわらないで今まできたのですから,それが身についてきちやつたわけです。それで国立の,病院管理研修所というようなものができまして,それからまた民間のわれわれも病院管理を知らなければいかんということで,東京では病院管理協議会というものが管理を研究することになつてきたのだけれども,それと同時にこの病院管理というものを抜本的に立てていくというか,いろんな研究を発表する機関として病院学会というものが生れてきたわけです。それでだんだん努力を重ねるに従つて初めはよほど専門化するかということを疑つておつたのですが,非常に内容も充実してきて,それから演者も熱心になつてきて,非常な進歩をしてきた。殊に今年は,神崎さんを委員長として去年1年かかつて研究して貰つた病院の入院サービスに関する研究結果を発表して貰つた。

グラフ

インターン—聖路加病院に於ける実地修練

著者: 滝野賢一

ページ範囲:P.55 - P.65

 われわれの病院で一年間インターン生活を過した人々の意見をきいてみると,先に座談会でも述べられたように(病院第12巻5号),インターン生活を楽しい有益なものだつたとしている。インターン制度の可否,存廃について未だに色々と論議されている現在,これは注目すべき意見のようである。ここにその座談会の一節を再録してみると,「僕はインターン制度については,自分自身の一年間の経験からみて反対する理由は生れてきてないことをここにハツキリ言える」と前おきして,「インターン制度を廃止せよと云う理由は,経済的の不安と充実したインターン教育が受けられなかつたという過去の人達の経験から割出されたものだつた」とし,夏に「このような設備のもとに皆が一緒になつて勉強ができればインターン教育も充実して時間的ロスも少いということになるのであつて,インターン制度に反対する理由はなくなるわけです」と結論している。また他のインターン生は,「学生大会のときにこのようなインターン生活をした人の意見を聞くことができなかつたのを非常に残念に思う。今度自分の大学でインターンについて学生大会があつたら,僕はここで過したインターン生活の体験を話して,このようなインターン生活ならば反対する理由は全然ないということを言うつもりです」と述べている。
 要するに,インターン制度そのものに反対なのではなく,その修練の内容の実際と修練を行う期間の経済的な不安がインターン制度反対の主な理由のようである。

病院長プロフイル・24

温厚潔癖の人春木秀次郎氏(国立中野療養所長)

ページ範囲:P.66 - P.66

 現代の結核界を語る時,幾多のすぐれた結核医を生んだ東京市立療養所,現在の国立中野療養所を忘れることはできない。初代の田沢鐐二所長は学閥に拘泥せず,あらゆる人材を抱擁し,自由にその研究をのばさせた。この大らかな気風は,岡治道,遠藤繁清,柴田正名,隈部英雄など多くの俊才を生み,日本結核学会に大きな進歩と功績を残しだ,それらの人達がそれぞれの分野に進出して巣立つた後も,田沢氏の残した伝統を守り,各自の自由な研究を助長する雰囲気を,今日に至るまで保つているのは,中野療養所創立当時から副所長として,田沢氏の片腕となり活躍してきた現所長,春木秀次郎氏に負うところが多い。
 性は温厚,結核邦方法の診査医。学会の評議員。日赤顧問など忙がしい仕事を引受け,近時,いささか臨床から遠ざかる傾向も見えるが,しかし春木氏は人知れずよく勉強して若い者に敗けないように努力している、外科,化学療法と最新の知識を吸収し,しかもそれを,自分からひけらかさないで,たまたま若い医師が発言したときなどに,「それは,どこそこにでているね」と,さりげなく教えるあたり,春木氏の持ち味として若い医師にも好感を持たれている。

--------------------

医師の修業年限と收入—大学附属病院の医局員について

著者: 守屋博 ,   岩佐潔

ページ範囲:P.67 - P.75

緒論
 医師に対する報酬額を決定する一要因として,1人前の医師となるまでに幾許の年限と費用を要するかと言うことは,重要な問題と言わざるを得ない。現行法令によれば,小学校入学以来医師免許を得るまでには6,3,3,2,5の学校教育とその後1ヵ年以上のインターン修練を経て計19年の過程を経てから国家試験に合格し,医籍に登録されて始めて,その資格を得ることになる。しかし乍ら社会的に1人前の臨床医師として通用する為には,その後更に数年を大学附属病院の医局において過すことが普通とされている。この医局生活と言うものは他の職業には類を見ないものであつて,医師と言う職業の特殊性の現われであり,その後の医師の収入とも深い関連性を持つているので,特に医局の経済的実態について調査を行つてみた。なお本研究は慶応大学経済学部の藤林敬三教授を班長とする厚生科学研究費による「医療経済の研究」の一部分として,医師の生産費に関する基礎資料を得る目的で行われたものである。

大学病院の建設計画展望(3)—名古屋大学附属病院の卷

著者: 小林秀彌

ページ範囲:P.77 - P.80

 本誌の5月号に北大附属病院の将来建設計画,更に7月号には東大附属病院の計画を夫々御被露しましたので,この度は名古屋大学附属病院にうつりたいと思います。
 名古屋大学附属病院は19の国立大学附属病院の中で一番戦災の激しかつた病院であつて,終戦当時は壊滅に頻した有様でしたが,やつと近年立直りました。

病院史概説(17)

著者: 岩佐潔

ページ範囲:P.81 - P.86

XVIII.フランスの病院
1)18世紀以前の病院
 フランスの病院も十字軍時代には,その施設数2,000を越えていたが,その後非常に減少した。しかも,その内主要なものはパリーに集つている。パリーの病院を語るとなるとすでに度々言及した所であるがHôtel-Dieuについて再び語らねばならない。この病院についての規定は16世紀まではNotre-Dameのことを定めた規定の中に含まれていたが,1505年から事務面は市長及び国会によつて専任された8人の世俗人によつて管理されることになつた。1654年には,その人数が12人に増え,1690年にはルイ14世(Louis XIV 1643—1715)の勅令でさらに委員をふやし「大委員会」といわれるものを編成した。この時加えられたメンバーはパリーの大司教,国会の前議長,国税庁長官,民生長官,警視長官,パリー市長等であつた。この大委員会は本来のHôtel-Dieuのみならず,先に述べたこの姉妹施設のSt. Louis病院,St. Anne病院,恢復期病院,不治者病院及び町や村にある多数の傍系病院の管理をもつかさどつた。これ等病院の内には会計は全く独立しているものもあつたが,同じ委員会で管理されたことは興味深い。この内,恢復期病院は1640年私人によつて造られた。当時病院の収容能力は極度に不足していたので,すこし快方に向つた患者は早期に退院させられた。

Doctors' Taperecord

ページ範囲:P.89 - P.89

 ビールの酵母をもつたい振つた名称で発売して巨万の富を得た人もあつたが,大衆に訴えるには,すべて呼び名が大切だ。ドツク入りという名称は確かにうけた。コクテールパーテーに集つた社長たちが『帆柱を立ててドツクに入ろうや』などとやる。こんな流行語ができたのですかね。国立東京第一病院の坂口院長が名づけ親だが,この名称は確かにうまくいつた。
 日頃,健康に疑念をもち,多少不安を感じた人,現在の活動をいつまでも続けたい慾望の強い人がドツクに入るのだが,検査してみると,無傷の人は稀で何かみつかる。治療するに早期どころか,もう遅い病変を発見することもある。大抵は治療を始めるのに丁度よい時期である。将来の医療はこの線に沿うて進むべきものだと,つくづく感ずる。

研修所だより

著者: 石原

ページ範囲:P.91 - P.91

 夏期長期研修会は,7月15日に終了しました。今回は受講者6名という小さなクラスでしたが,それだけに纏りがよく,議論も活溌に出て,熱意のこもつた而も和気藹々たる気持のよい研修会でした。「小人数の為,おちおちサボることも出来なかつた」とは一参会者の言。帰院後の活躍が期待されます。
 長期研修会は,病院管理者に要請せられる知識,態度心構等をあらゆる角度から検討,涵養することを目標として科目が編成され,講師も国内各地から夫々の権威者を招聘するなど,万全を期していますので,由来受講者の感想録では「非常に有益であつた」とする声が圧倒的のようです。次回は明年1月に開かれる予定ですが,折角の機会で歩から出来るだけ多くの方が参加されることを望みます。若し院長,事務長等の管理の最高責任者が1ヵ月も病院を空けることは出来ないというならば,特来を期待される中堅幹部の方を派遣されるのも有意義でしよう。

基本情報

病院

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1383

印刷版ISSN 0385-2377

雑誌購入ページに移動

バックナンバー

icon up
あなたは医療従事者ですか?