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雑誌目次

雑誌文献

病院16巻3号

1957年03月発行

雑誌目次

座談会

ドクター・クロスビーの來日をめぐつて

著者: 小西宏 ,   吉田幸雄 ,   神崎三益 ,   橋本寛敏 ,   岩佐潔 ,   塩沢総一 ,   守屋博 ,   尾村偉久 ,   曾田長宗

ページ範囲:P.134 - P.143

 小西 WHOでは後進国の指導のためコンサルタントの派遣とフエローの留学というサービスをしていますが,わが国では今までに病院管理に関して3名のフエローを貰つています。コンサルタントは初めてですが,この機会に日本の病院を海外にも宣伝しようじやないか,ということになり,1956年の予算でコンサルタントの派遣をWHOに申請した訳です。それが認められまして,誰を呼びたいかということになつたので,ドクター・マツケカーンを候補に立てた処,直ぐにOKになりまして準備万端整つたのですが,偶々マツクさんが急に亡くなられたために,一頓座を来してしまつたのです。しかし,折角そこまで話が進んだのだから是非誰かに来て貰おうということになり,いろいろ候補を銓衡しておりました処当時の曾田医務局長からアメリカ病院協会の理事長であるドクター・クロスビーはどうだろうかというサゼツシヨンがありまして,話がとんとん拍子に進み昨年の11月それが実現したという訳です。恐らく病院を見,且つそれを指導することを主目的として公式に日本に来たというのではクロスビーが初めての人でしよう。こういう経緯でドクター・クロスビーが日本に来てくれた訳なんですけれども,こちらはてぐすね引いて待つていたので,ピツチリと隙間もない種スケジユールを組み,北は北海道から南は九州まで非常に短い期間に飛び廻つて貰つたために,本人自身は可成りくたびれていたようです。

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Dr.Crosbyの講演をきいて

著者: 小西宏

ページ範囲:P.145 - P.150

Dr.Crosbyはその短時日の滞在にもかかわらず,東京を始め札幌,大阪,福岡の各地で病院管理に関する講演を行つた。そのうち,病院管理研修所で行われた次の講演について,聴講の機会を得られなかつた誌友のためにその要旨を摘録しておこうと思う。(文中"自分"とあるのはDr.Crosbyのこと,( )内は著者註,文責は著者にあることをお断りしておく。)

病院管理に関するWHO顧問クロスビー博士の日本政府に対する勧告

著者: 岩佐潔

ページ範囲:P.153 - P.156

 私は日本政府の要求にもとずき,WHOの病院管理の顧問として,過去2週間半に亘つて,日本国中の色々な規模の,色々な種類の病院及び療養所を視察して廻つた。この私が得た印象を基礎として作製した,勧告を含むこの予備的な報告書を受取つて頂きたい。ただ充分な時間がなかつたので,これらの示唆を十分裏づけ且つ完全なものとするのに必要なだけの資料を集めることが出来なかつた。従つてこれらの示唆は,日本政府が日本の病院における患者治療の実質を向上させようとする努力に当つて,日本政府にとつて最も役立つであろうと私が概念的に考えたものに過ぎない。
 厚生省及び病院管理研修所の幹部は,最も熱心に私に情報を提供し,日本の実情について説明をして頂いた。これら幹部との最初の会合で明らかになつたことは,日本の病院が現在当面している主要な問題は,病院医療の経済を賄う資金に関するものであるということであつた。この事は一方には,日本の国民経済の状態に関係していることであり,一方には,日本においてすでに永年行つてきている医療保険の制度に関係しているものである。これに加えて,日本の病院管理の科学が未だ幼児期にあり,発達していない。勿論1948年に創設された病院管理研修所は,日本において,病院管理学の理解をすすめ.その実際を向上させる上に,大きな教育上の効果を及ぼして来ている点については,厚生省は称讃されるべきである。

アメリカ病院協会の活動

著者: 吉田幸雄

ページ範囲:P.175 - P.179

 Dr.Crosbyは,11月日,東京丸の内工業会館での,日本病院協会主催の彼の歓迎会の席上,スライドを使つて,"アメリカ病院協会の活動について"簡単な紹介を試みた。
 スライドの一番最初に現われた人物は,パイプを手にした,現協会長Dr.Albert Snobe (小生渡米中1カ月厄介になつたGrace-New-Hae-ven病院という,Yale大学医学部の利用する病院の院長兼同大の病院管理学教援)で,Dr. Crosbyは,「Dr.Snokeは非常に煙草が好きで,御覧のようにパイプを手から離した事がないので,Dr.Smokeとあだなされている」と説明を加えた。

日米両国に於ける病院制度の比較(中)—特に根本的に相違する諸点について

著者: 小林玄一

ページ範囲:P.181 - P.190

II.Hospital-physician relations(日米兩国病院のその病院医師との関係)
 この問題が今度の厚生省の研究の対象となる課題であり,亦そもそも私がこの稿を書くに至つた動機をつくつた守屋先生御提案の協同研究の課題でもあるわけです。従つて各論的な具体的詳細検討はその時に譲る事にして,ここでは専ら概括的な総論的デイスカツシヨンの程度に止めておきたいと思います。
 さて,日本の病院ではその病院医師は俸給制で働いております。即ち病院に対するそれらの医師の関係はMaster-servant relationship,これを日本的に謂いますと雇用関係と云う事になります。アメリカではこう云う在り方を俗にfull time physician relationshipと呼称しています。

あとがき

著者: 小西

ページ範囲:P.204 - P.204

 昨秋,病院に関するWHOの顧問として来訪したアメリカ病院協会理事長クロスビー博士が滞在中に行なつた講演の代表的なものの抄録,病院視察旅行の紀行,博士が日本の病院や医療制度を親しく見聞して帰つた後日本政府に提出したレコメンデーシヨン,そして彼の訪日に際し親しく接触した人々による座談会記事,これらをもつてクロスビー特集を行なつてみた。当初の計画ではクロスビー博士の日本の病院に対する印象記を中心にこの特集を行なう予定であつたが,帰国後公式報告の作製や本職の劇務のため執筆が遅れているので,とりあえずこの辺で一応クロスビー訪日記事をまとめることにしたわけである。病院のPRに非常な関心をもつている博士は,日本に本誌の如き病院管理に関する専門誌の存在することにいたく興味を寄せ寄稿を固く約して帰られた。本誌が本年から日本病院協会の機関誌となつたのも博士の極めて熱心なとりもちによるものであることは既報のとおりである。フイリツピン経由帰米することになつていた博士は,病院協会と本誌の連繋の成否をみるため,フイリツピンからもう一度日本に立寄るかも知れないと冗談をとばしていたが,病院協会主催で開かれたお別れパーテイーの席上,橋本会長から「連繋成る」の一言をきいて極めて御満悦であつた。

グラフ

Dr.Crosbyと共に

ページ範囲:P.157 - P.164

クロスビー博士隨行記

北海道を共にして

著者: 守屋博

ページ範囲:P.167 - P.169

 11月1日,クロスビー先生は,来日3日目である。29日午後3時,羽田に飛来してから厚生省のレセプシヨン,研修所,東大,聖路加,関東逓信,病院脇会の夕食会,と目の廻る様な2日間をすごしての3日目である。約束の午前7時半より20分ばかり早目に帝国ホテルにお迎えに寄つて見ると,もうすつかり用意して,玄関で待つていられる。"早いですね"と云つたら"遅れるよりいいからね"と早速一本やられた。宴会と云わず講演会と云わず,常に30分はおくれて始める我々はJapan timeの説明に大汗かかなければならぬ。京浜国道のドライブは早朝のせいか,いつものトラックが少くて予定より早く飛行機場着,コーヒー等呑んでいるうちに入場,国内線から日航機に乗り込む。空は薄雲に朝日のうららかな絶好の航空日和,少くとも天気では,遠来の客の印象は申分ない。ク夫人は,仲々すばやくて,右側の後3番目3人つづきの席を占領しておられる。
 先生夫妻は,航空旅行は1年に何百回もされるそうで,一番いい席はここだと云われる.いつも奥さん御同ハンですかと聞けば,2週間以上の旅行の時は必ず同行との事。

共に過した1週間の旅行

著者: 岩佐潔

ページ範囲:P.169 - P.173

 クロスビー博士は北海道から戻つて翌日の日曜を休んだ後,また忙しい日程が待つていた。5日は早朝から清瀬の多摩全生園を視察に出かけた。この日は秋晴のよい天気で患者の造つた菊がこの癩患者の村を美しく飾つていた,博士は此所の患者達の運命について深い感銘を受けると同時に健康の有難味について思を新にしたと言うことを帰りの車の内で語つていた。研修所に帰りつくと医務局の幹部が待つていて此所で保険や病院計画についての懇談会が行われ,昼食をする暇もないほどであつた。この懇談会が十分結論にまで達しない内に時間が来て2時からは病院建築に関するパネル・デスカツシヨンが始まつた。これが済むと夜は夜で病院建築協会幹部との懇談会,全く寸暇もない1日であつた。日程作成者の1人として少々これは博士に対して申し訳なかつたと感じ出したのはこの頃からであつた。せめてもの幸は6日の大阪行の汽車を変更して午後の飛行機にしたことであつた。
 約束の1時半に博士夫妻は帝国ホテルのロビーで待つていた。

診療設備基準・6

物療室の機能と設備

著者: 橋倉一裕

ページ範囲:P.193 - P.202

いとぐち
 物療科は医療法で理学的診療科という名称のもとに独立科として設置を認められているにもかかわらず,従来わが国の病院で単独に一科を構成しているのはわずかに国立東京大学の物療内科を教えるのみで極めて未発達の分野となつている。従つて物療室(理療室といつた方が適切かもしれないが一応従来の習慣に従つて以下こう書く)は従来診療各科の附属的施設に過ぎず,あるいは相当の大病院においてすら物療室としてまとまつた施設を有しておらず,わずかに数種の物療設備を診療各科に分散して設備する程度であつた。しかるに諸外国においては物療科は独立した医学の専門分野として既に確立され,これを専攻する医師は物療専門医としての資格を認められている国が少くない。特に近年物理工学の長足の進歩にともない,これを医学の分野に応用することによつて幾多の斬新な診断治療法が樹立され医療の実際面にとり入れられつつある現状に鑑み,わが国においても近い将来に物理療法が各診療科の隷属的地位から独立して,恰も放射線科のごとく独立科と認められる可能性が極めて多い。そこで本研究においてはこのような医界の趨勢を顧慮し,従来非常に遅れていたわが国病院の欠点を改革する意図をもつて現状より些か高い基準において施設々備の水準を検討してみた。

基本情報

病院

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1383

印刷版ISSN 0385-2377

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