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病院長プロフイル・61
県立盛岡病院長 岩手県病院協会長 敷波義雄氏
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ページ範囲:P.40 - P.40
文献購入ページに移動 全国一の組織網を誇る岩手県立病院の前身である医療産業組合病院が岩手に孤々の声を挙げて間もない昭和8年5月,医療産組盛岡病院長として迎えられてから早くも25年の星霜が流れた.先生は東北山形の産,二高を経て東北帝大医学部に学び,大正13年卒業,引続き同大学に於て内科学の泰斗熊谷岱蔵博士の愛弟子として親しく薫陶を受け,昭和4年医学博士となり,盛岡病院長として就任したのが若冠32才,尚当時の副院長は現に東北大学医学部教授として教鞭をとつて居られる桂重次博士であつた.以来営々として病院経営に苦心を払い,今日の盛岡病院の基礎を築き上げた.又昭和18年農村社会医学研究所を開設して農民の医療保健問題と取組み,農村医学の振興に寄与せられた.昭和20年4月,戦時中の要求に基き県立秋田女子医専の創立のため盛岡病院長を辞任して秋田に赴任,同校教授,附属病院長となつたが,火災のため廃校となつた.学校再建について,知事と意見の衝突を来し奮然として離任,一時開業したが,昭和25年11月岩手県厚生連及び国保連病院が統合して岩手県立病院となるに及び翌26年4月県の熱望を容れて再び思い出多い岩手の人となり今日に至つている.
先生は非常な努力家であり,又負けず嫌いである.スポーツにも熱心で米沢中学1年の時から柔道部主将となり,二高時代対一高戦の花形と謳われたと聞く.昭和4年には講道館6段となつた程の腕前である.
先生は非常な努力家であり,又負けず嫌いである.スポーツにも熱心で米沢中学1年の時から柔道部主将となり,二高時代対一高戦の花形と謳われたと聞く.昭和4年には講道館6段となつた程の腕前である.
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