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雑誌目次

雑誌文献

病院2巻2号

1950年02月発行

雑誌目次

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病院概史(その5)

著者:

ページ範囲:P.2 - P.3

 1895年にはX線がレントゲンRoentgenによつて発見された。これが病院というものに大きな影響を与える事になつた。そして亦普通の診療所では備えることの出来ないこのX線装置の様な大きな而も精巧な装置を病院が備えることが病院の一つの特徴になつた。その結果一般の開業医がこの様な装置を共用出来る地方病院を創立する機運を作るように欧米ではなつたようである。
 次に物理療法であるが,これはダルソンバールd'Arsonvalによつて高周波が発見されて以来既に19世紀の中にその源を発している。水治療法又フインゼンFinsen (1893)の光線療法が発達始めた。その外沢山の診断用の器械が19世紀中に出現しているが,体温計,咽頭鏡,検眼鏡等がそれである。

病院に關する用語とその譯語

著者: 島內

ページ範囲:P.3 - P.3

Hospita l病院
Clinio 診療所

英國の開業醫と國管醫療

著者: 千種峯藏

ページ範囲:P.4 - P.9

 英国社会保障制度の一部である国民保健事業法が施行されたのは1948年7月で,今は既に最初の一年を経過した訳である。よつてこの国民保健事業法の内容並に実績を,各種の報道を資料として,医療制度を中心として述べて見たい。
 国民保健事業法に基く医療制度の中,最も面倒であり,最も困難に遭遇したのは,開業医の国管参加問題であつて,このため国民保健事業法の施行が,他の社会保障制度の実施よりも丸一ヵ年後れた訳である。しかし結局,医療報酬を定額俸給式とせず,人頭式診療報酬を主とすること,並に登録者の診療以外に,非登録者の有料診療も認めることによつて,協議成立したのである。然らば開業医の国管医療制度とは如何なるものか,以下各項に分けて解説して見よう。

病院と管理(その8)—病院長は何をしなければならないか

著者: 吉田幸雄

ページ範囲:P.10 - P.13

22 院長の責任(続)
【3】患者の専門的世話に関する義務
 院長は診療に直接従事すべきか否かという問題については,前号に於て一応述べたが,Mac-Eachernは次の様に云つている。
 「大部分の病院では,院長が直接診療にたすさわることは得策ではない—not abvisable」と。即ち大部分の病院ではnot advisableであるとしていることは,病院本来の機能を円滑に遂行せしめるという院長の責任をはたす事による利釜と院長が直接診療にたすさわる利釜と何れが病院として利釜があるかという認定によつて相違して来るが,一般には院長の一義的使命を完全にはたす為には,直接診療にたすさわる事が障碍になり易いということであろう。従つて,病院の大小,病院の組織,病院幹部の能力等によつて,個々の病院に程度の差のある事は仕方がないだろう。日本に於てはこゝに問題があるのであつて,患者及び病院の職員が院長に対して考えている従来の観念を改めぬ限り,一概に院長は診療にたすさわる可きでないという結論を下すべきでないという事については既に前号に述べた通りである。

産院の管理

著者: 中山安

ページ範囲:P.14 - P.17

 産院の使命 産院管理は病院のそれとは,いささか趣を異にするものがある。それは,産院使命の特殊性に由るものとおもう。
 そこで管理上関蓮性のある使命から述べなければならないことになる。ここに産院というのは医師の管理経営するものの謂である。

病院人事消息

ページ範囲:P.17 - P.17

 神崎 三益氏 日本赤十字東京支部でかねてから武蔵野市境に病院建築中の所旧臘一期工事落成したので氏がその初代院長に就任した。氏は大正11年東大卒,チフス菌の研究で昭和5年東大で学位を授与された人で,久しく日赤秋田麦部病院長を勤務し内科を専門とし本年54歳。
 ◇木村 男也氏 東北大外科教授辞任後国立弘前病院長の氏は中村豊彌博士に院長をゆずり,宮城県仙台市中央保健所長となる。

アメリカの結核病院

著者: 小谷新太郞

ページ範囲:P.18 - P.21

 アメリカに滞在中に私はいくつかの結核病院を見学することができました,即ちニユーヨーク州アニアンタにある州立ホーマー,フオークス結核病院,マナチユーセツツ州ラトランドの州立ラトランド結核療養所及同州ウオルタムにある郡立ミドルセツクス郡療養所,ミシガン州デトロイト市の市立ハーマン,キーフアー病院,カリフオルニヤ州リバーモアにある郡立アロヨ,ヂル,ヴアル療養所等を見学しました,此等の見聞記と学校で得た知識やワシントンの連邦政府結核豫防部で得た知識を参考にしてアメリカの結核療養所又は結核病院について述べてみたいと思います。
 アメリカの結核療養所は,今から65年前即ち1884年にはじめてドクター,エドワードトルウドオーに依つてニューヨーク州のサラナク,レイクに小屋のような療養所がたてられたことに,はじまります,爾来結核療養施設の建設には,非常な努力が払われて素晴らしい発展を示し今日では約10万の結核病床に達しております,此のうち連邦政府が直接に経営しているものを除きますと1948年1月1日現在の調査では,結核病院結核療養所施設計575,病床数84,925となつています,此の中えは,州,郡,市立のものも,個人経営のもの民間団体で経営のものも含まれています,更にこの統計は,連邦政府の当局の調査に依るもので,此の係りの主体の,エレナー,ハンナ女史に,直接会つてきゝました処調査洩れがあるかも知れないということでした,従つて此の数字は,最小限度を示すもので,実際は此以上あるものと考えるべきでしよう。

受難期の病院管理

著者: 新垣政恒

ページ範囲:P.22 - P.25

1,はしがき
 サチヤグラハの提唱者又実行者として有名なガンジー翁は,1920年6月の「ヤング・インデイア」紙上で,次のようなことを言つている。即ち「未だ嘗ていかなる国家も,受難の火によつて純化されずに,勃興したものはない。母親は子を生むために,陣痛の苦しみを嘗めるのである。小麦が成長するためには,その種子は死ななければならぬ。生命は死から来る。印度は,永久の法則たる受難を通しての純化なくして,どうしてその奴隷状態から起上ることが出来よう」と。
 このガンジー翁の言葉は,今の日本及日本人に取り,この上ない心の糧であり,又力強い希望の光であると私は思う。蓋し色々の意味で,受難時代の若杯を満喫しつつあるわれわれであるからだ。この時にあたり,私は国立病院長並に外科医長としての約2ヵ年にわたる体験を語り,広く医療関係者,ならびに心ある一般同胞に悪えたいと思う。題して「受難期の病院管理」と言う。

病院と牧師

著者: 竹田眞二

ページ範囲:P.26 - P.28

 病院の構成員は医師,薬剤師,看護婦それに事務部員とである。それ等に依つて病院は運営せられて居るのであるが,此の中に牧師が介在する場合,牧師の職分はどんなものであろうか。私は長い私の病院牧師としての経験を通して所信を述べて見たいと思う。
 1日,看護婦が私の處に来て,ヒドイ不眠症の婦人が入院して居る。睡眠薬をいろいろこころみて居るが,これ以上やると身体に影響を来たす心配がある。病状も日に日に悪化するばかりで困つて居る。一度来て会つて呉れとのことであつた。

病院施設の二三に就て

著者: 本名文任

ページ範囲:P.29 - P.31

I,受付部 Admitting Department
 病院の受付は,患者が来院して第一印象を受ける処である。即ち患者と病院との最初の接触であつて,然もこの第一印象は長く続き易いものである。従て此の感じがよいのと,悪いのとでは,病院に対する信頼性に関係があり,治療成績にも影響を及ぼし,病院の評判にも大きな関連があるものと思う。又受付の仕事がうまく組織化され,順調によく動いて居ると,病院全体の仕事が愉快になり,且つ能率を増進する様にもなる。
 従来我国の病院では,受付部と事務部とははつきり区別されて居らず,寧ろ庶務部と一所になつて居た為,仕事が混雑して,非能率的であり,結局庶務係の重荷になつて庶務の仕事がスムーズに行かないのが現況であつたと思われる。国立病院には庶務課の一部として医事係というのを置いている処が多い。此等の機構に就ては,他日また私見を述べることとして,兎に角患者に関する一切の事務は,これを一般の事務と切り離して,綜合的に取扱うことが必要であると思う。米国の病院にあるAdmitting Departmentは斯様な仕事の責任を負うものである。

大部屋拜見

著者: 守屋博

ページ範囲:P.33 - P.36

 病院の歴史を見ると,其の原始は教会の広い間にベツトを並べて,患者を收容したと云われている。ウオード(Ward)と云う語が,現在の病棟殊に総室に用いられているが,これは教会で患者監視係をおいたからだと云われています。
 この様に,昔から病院の主力は総室においてあつたので,外国の病院建築を見るとどれも総室の間取が中心になつています。もつとも戦後最初に出来たデンバー市病院等は240のベツトが凡て個室で出来ているのもありますが(Modern Ho-spital 1949—10月号)軍病院,州立,市立は凡て,総室になつております。

病院給食と特別食

著者: 中山道子 ,   小池サヨ子

ページ範囲:P.37 - P.40

 病院給食が始つてすでに年余になる。病院給食の目的とする所は,入院患者に治療食事を給することである。即ち病院が患者の病状に応じて適切な食事を患者に与え,その治癒或は促進をはかることであつて医療の一要素として欠くべからざるものである。
 之は当然な事であり,そして重要な事であり,しかも中々行われ難いものである。その点に於いても等閉にされがちの此の問題が一応表面的に重要親されて来た事は,喜ばしい事である。国立東京第一病院に於いては毎週1回,院長先生と御一諸に食堂で炊事主任及栄養士が会食を行い患者食に対しての指示を与えられる。

病院統計解説(4)

著者: 瀨木三雄

ページ範囲:P.41 - P.41

 厚生省統計調査部に於て集計した昭和24年9,10月の病院統計を表示する。10月末現在の病院数3114,病床数252212である。10月の病床利用率は総計に於て70%,精神病院83%,結核療養所86%癩療所93%である。専門の病院でなく,他科と併置する病院の精神病室利用率75%,結核病室104%にして,結核療養所利用率が86%であるに比し他科と併置する結核病床が満員であるのが注目される。
 10月末入院している結核患者約7万3千人,精神病者約1万5千人,癩患者約8千余名である。

病院管理研修所便り—秋期研修を省みて

著者: 島內武文

ページ範囲:P.42 - P.44

 去る10月22日発行のJournal of AmericanMedical Assoeiation誌上に於て,進駐軍総司令部の公衆衛生福祉局長Sams準将は,「日本に於ける厚生医療の展望」という題目の下に病院管理に言及して次の如く述べている。即ち日本に於て従来は病院管理が事務長まかせであつて,其の管理の内容も充分でない状態であつたので,これが改善のためモデル・ホスピタルの指定,病院管理学校の創設を行い,既に200人の病院長がこの講習を終了し,将来は各府県等についても同様のことが行われる計画であると。
 秋期研修会 昭和24年6月に発足した病院管理研修所は,同年春にその長期研修第1回を終え,同年秋には次の様な対象によつて短期研修を行つた。

長崎『養生所』の追憶(2)—「養生所」は長崎出島に在つた日本最初の洋式病院である

著者: 荒瀨進

ページ範囲:P.45 - P.49

 文久元年,松本良順は長崎市外小島村に医学校「養生所」が建設さるゝ迄は西役所に隣接する大村町に住んでいた。その邸は和蘭居留地である「出島」にも間近く人々はこの邸を「伝習所」と呼んでいた。今の「寮」にあたり寮生である医学生の生活振りは1860年(万延元年一月)入塾した生徒の一人,長与専齊が当時の日誌「松番私志」につまびらかである。
 こゝに捗らすも一つの事態が突発した。

編集後記

著者: 編集者

ページ範囲:P.50 - P.50

 厳塞—北の国の病院のことが偲ばれる。雪のトンネルをくゞつて通う雪国の外来患者,雪に周囲をとざされて真暗になつた病室に病を養う人達,配水管も氷つてしまう迄に働く病院の職員,急患にかけつける為に吹雪をついて出かける医師を初めとして医療従業員の活動等々吹雪の中に苦しむ傷病者とそ札と戦う献身的な人々の姿が浮んでくる。一体この人々らの不幸と努力とに同情を持つ人達がわれわれの中に何%存在するでしようか。東京にいて,今年は暖いといつていられる,いわゆる中央の人の何人がこの問題を切実にとり上げる同情と意志を持ち合せているでしようか。そういう編者も2月になつて特にこの問題に注意しなければならないことを痛感するといううかつさだ。こゝに雪国の医療問題,病院問題,病院管理の問題——それぞれの研究をとりあげその対策が老えられねばならないと思います。医療と厳塞地——一般に寒冷の土地には丈化が行渡り難い。社会保障の実施に当つてこの地方の人々の叫びを忠実に取入れなければならぬでしようし,北海道・東北・信越・北陸地方の病院協会は率先この問題を取上げなければならぬでしよう。
 ××
何十年来問題となつておつて,いよいよ今年には解決しなければならない医療問題が山積しています。

管理者メモ

医療法関係法規の解釈—診療所から病院に拡大の場合—医療法第47條の取扱に就て—

ページ範囲:P.32 - P.32

 医療法第47条にある病床15床ある病院が,22床に増大する場合を初め現在診療所として病院の取扱を受け猶豫期間を過ぎた時の場合等について佐賀県と厚生省との照覆は次の通りである。
    照会    医療法第47条の病院診療所の取扱について(佐賀県知事)

基本情報

病院

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1383

印刷版ISSN 0385-2377

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