icon fsr

雑誌目次

雑誌文献

病院23巻6号

1964年06月発行

雑誌目次

特集 本誌発刊15周年記念

病院界この15年—本誌発刊15周年記念特集号によせて

著者: 橋本寬敏

ページ範囲:P.14 - P.15

 「病院」が発刊されて15年になるが,この期間に日本の病院が数を増すばかりでなく,その質の向上が著しい。昭和23年7月30日に制定された医療法に,病院は患者を泊めるばかりでなく「科学的で適正な診療を行なうにふさわしい組織と運営をもつ医療機関」であるべきことが規定されており,これは日本の医療制度の画期的改革をもたらすものであって,病院についての古い観念から全く脱皮した新しい理念が盛られているものである。その頃憲法をはじめとして何も彼も刷新されたので,それに戸惑って,この変革に気がつかない人々もあった。厚生省の医療行政の元締めをなしている法科出身の高級役人ですらこれを知らないで,20床以上をもつ診療機関が病院であるから,診療所とは質的に差異はないなどと,私ども病院を実際に管理するものに説教してくれたことさえあった。
 科学的で適正な診療を行なうに足る組織と運営を病院にもたせるためには,周到な設計と力強い管理がなければならないのだが,それまで日本ではこれが全く顧みられなかった。偉い先生が病院長の職名を帯びてはいたが,診療の主席を占めて,尊敬の的となる象徴であるだけであって,病院の管理には全く興味がなく,下役に「よろしきに計らえ」とまかせきりにする人が多かった。

座談会

新院長の体験と苦心

著者: 植村操 ,   三沢敬義 ,   沖中重雄 ,   守屋博 ,   尾村偉久 ,   黒川利雄 ,   吉田幸雄

ページ範囲:P.16 - P.27

 司会 今日は大学の教職に長年おいでになって,改めて大病院の院長になられた先生方にお集まりいただいたんですが,大学でごらんになっていたときと,実際に第一線の病院長という,経営管理執行の最高責任者という職におつきになった時とでは,いろいろ違ったご苦心もおありでしょうし,ご意見もお持ちだろうと思います。たとえば,病院というものはどういうふうに動かしたらいいんだとか,あるいは病院の医師の問題とか病院長としてのあり方とか,いろいろ体験からご意見をお持ちだろうと思いますので,そんな事に関していろいろお聞かせいただきたい。これが趣旨でございます。どうか,自由にご放談いただきたいと思っております。先生方の中で一番先に第一線にお出になったA先生に口火を切っていただきたいと思います。

本誌発刊当時の思い出

著者: 久下勝次 ,   橋本寛敏 ,   本名文任 ,   吉田幸雄 ,   小沢龍 ,   金原一郎 ,   東龍太郎 ,   長谷川泉 ,   久松栄一郎

ページ範囲:P.72 - P.84

 金原 雑誌,「病院」ができましてからちょど15周年目に当りますので,誕生のころを思い出して,記念の座談会をいたしたいと思いましてご案内いたしましたところ,みなさまお越し下さいまして,まことにありがとうございました。それでは,毎回ご迷惑ですが,吉田先生,ひとつ司会をお願いいたしたいと思います。
 (司会)吉田 それでは,私たまたま雑誌「病院」の主幹をしております関係で,進行係をさせていただきたいと思います。さて雑誌「病院」は昭和24年の6月に発足して以来,日本の病院の近代化に大きな役割をはたしてきたと自負しているわけであります。その発足当時は,戦後の混乱の中からきょうお集りの東知事さんをはじめ,諸先生方の非常なご努力によりまして,日本の病院の近代化が進められようとしていたときでした。従って,雑誌「病院」の生れるためには,それだけの条件があったわけでございます。それではどういうふうにして生まれたかということについて,15年前であるいはご記憶が薄れておるかもしれませんけれども,その辺の裏話なり,事情を,ザックバランに伺えましたら,現在の病院管理にあずかっている人たちに,また新らしい勇気を添えていただけるんじゃないかという気持で,話を進めていただきたいと思います。

病院界15年の歩み

日本病院協会

著者: 神崎三益

ページ範囲:P.33 - P.35

 日病の生いたち,発展については昭和35年,その10週年を祝ったおり,その時までの経緯を近藤鼎君が会報に書いている。
 その記録を見ると私が副会長になったのは昭和29年だ。その前にも関係していたから創立当初を除いては日病と共に歩んで来た。

病院学会

著者: 島内武文

ページ範囲:P.36 - P.38

 年ごとに,ますます盛んになってきた病院学会をむかえるたびに,13年前,国立東京第一病院4階の病院管理研修所小講堂で始まった第1回の学会が思い出されてくる。わが国の病院学会は公式には実にこの時に誕生したのであった。これは同時に発会した日本病院協会の学術部の事業として東陽一,菊地真一郎,守屋博の諸氏により始められたもので,守屋先生の「オープンスタッフ病院について」の特別講演と21の一般演題であったが,80名の熱心な人々が出席した。
 学会も本年を以て第14回をむかえる。近ごろは人間の育ちも早くなって15といえばはや一人前である。本学会も4〜5年目ごろから参会者も1000人をこえるようになり,ここ数年は会期も3日を要する大学会となって,りっぱな大人になってきたようだ。過去13年の要項をあげると表のようになる。

病院管理研究所

著者: 吉田幸雄

ページ範囲:P.38 - P.43

はじめに
 この6月で,病院管理研究所の前身である病院管理研修所が発足してから丁度15年になる。終戦後4年,日本の復興はようやく緒についたばかりで.人々はまだ敗戦のナマきずにあえいでいた時代である。昭和24年6月1日であった。陸軍病院の兵舎の講堂であった国立東京第一病院附属高等看護学院の階段教室で開所式が行なわれた。壇上には占領軍総司令部の人々が軍服姿で居並んでいる。林厚生大臣は静かに開所の告辞を述べていった。「本日ここに病院管理研修所の開所式を挙行するに至りましたことは,わが国の病院制度の発達のため一転機を画するものとして誠に慶賀に堪えないところであります。本研修所は,わが国として初めて設けられたのでありまして,国立東京第一病院に併置され,病院管理に関する調査研究及び研修を行なうことを任務としているのであります。………………
 本研修所は未だ発足したばかりでありまして,今後その内容の充実,運営の改善等に十二分の努力を致さなければならないのでありますが,努めてこの方面の先進国の知識を吸収消化し,且つわが国情に最も適応した管理法を研究致させまして,わが国の病院管理の向上に大いに資するところあらしめたい所存でありますから,皆様方におかれましても本研修所の今後の運営に関し,格段の御協力御支援をお願いする次第であります。」

診療報酬

著者: 橋本寿三男

ページ範囲:P.43 - P.46

1.はじめに
 これは私のみた診療報酬15年の歴史である。多少あいまいであったり,事実とことなる部分があるといわれても,私のこの史観はかわることはないと思う。昭和25年当時から,とりくんで以来,約10年間みずから肌に感じて得た史観だからである。
 診療報酬問題に取組むことは泥沼に足を入れることだと,よくいわれる。私も泥沼に足をつっこみ,その底を手でさぐり美しい花を咲かせようとあがいた時代も結構長かったように思う。

病院建築

著者: 吉武泰水

ページ範囲:P.46 - P.49

 病院建築のこの15年の歩みをふりかえってみると,あまりに思い出が多く,何を書いてよいか戸まどうばかりである。ことにおつきあいした方々の顔や言葉がめまぐるしく浮んでは消え,とてもすじ道だった回顧になりそうもない。あらためて,よくも私どものような専門外の者を相手にして下さったものだという感謝の気持と,こういう方々に接し得たよろこびがしん底からわいてくる。
 私の15年は,木造総合病院のモデルプランの設計からはじまった。まだ煖房の回復していない大学の片隅で守屋・小沢・吉田その他の諸先生と小林・田口両氏をまじえて,看護単位の確立・給食の重視・手術の中央化などについて何度もおそくまで話し合い,郭君と約半年を費して図面にまとめた。成熟したアメリカの病院管理は,わが国の現実への適合に不安感をいだく余ゆうもないほど立派におもえたし,何よりその歯切れのよさが魅力であった。そのうえ,設計以前に管理方式の検討決定が先行することは,設計のすすめ方としても理想に近い試みであったから,この仕事は楽しかった。いまその図面をとり出してみても,新鮮さを失なっていないようにおもわれる。

病院組織

著者: 守屋博

ページ範囲:P.49 - P.52

 戦後20年の変革は社会のあらゆる部門に見られたのであるが,病院もその外でない。現在見られるような高層建築やデラックスな病室は戦前は見られなかった。外観ばかりでなくて内容的にも大変な進歩が見られている。
 第一の変化は病院が大型化していることである。戦前は大学病院を除いては200床以上の病院は各県に一つあるかなしであった。大学病院といえども各教室各科がそれぞれ独立して,お互いに完全に分離して運営されているので,いうなれば小病院の集合体のようなものであった。

病院関係諸法規の制定当時の事情

医療法

著者: 五十嵐義明

ページ範囲:P.57 - P.61

Ⅰ.まえがき
 本特集号の発刊に当って,編集担当の方から上記のようなテーマで執筆の依頼を受け,正直のところ当惑した。何分にも十年以上も前のことであり,その後長くこの分野の行政から離れていた関係もあって,とりまとめる自信も持てず,できれば御勘弁願いたいと考えて,実は御依頼先にお電話してみたわけである。ところがいろいろお話しているうちにとうとう「努力してみましょう」ということになってしまった。
 あの当時,私は医務局医務課の技官として技術的な面から医療関係諸法規の制定事務に関与し,勉強させてもらったことは事実であり,考えてみると当時の表向きの会合にはひととおり出席して事務の処理に当っていたわけであって,どうも本特集号の構成や御依頼の趣旨からみて,のがれられぬところと観念したからである。そこで古い記憶の糸をたぐって,一技術官の立場からのぞき見た,法制定をめぐる経過や2,3の問題点,その背景となった社会情勢などについて,当時の事情を私なりに追想して責を果たしたいと考えた。思い違いや理解の誤りがなければ幸いである。

医師法

著者: 尾村偉久

ページ範囲:P.61 - P.65

 終戦後生れ替った日本として新憲法が制定され,これに伴ってその趣旨に沿って多くの法律が新たに制定をみたのであるが,現行の医師法も同様にして医療法をはじめとする二十数件の他の厚生法規とともに昭和23年に制定公布をみて既に16年を経てきた。丁度同時期に新発足をみたわが国病院管理の諸事業や,また雑誌「病院」の歴史とも歩みを共にしてきたわけである。その間,幾つかの小改正は行なわれたのであるが,戦後のわが国社会の大きな変動と発展に伴って現在医師法の規制を巡ってかなり根本に触れるような議論が沸騰してきていて,ものによっては政治問題に発展しているものさえある。即ちインターン問題などはその筆頭のものであろう。その他専門医制度の問題や,医薬分業.医師会,医師の倫理等五指に余る問題が喧しくなってきている。かかる事情は医師法と唇歯の関係にある医療法,或は保健婦助産婦看護婦法等についても同様であって,関係団体によって切迫した要望や批判が行なわれている病院の職員定員の規制や,保,助,看婦の教育,資格の改変等の問題がそれである。そこで終戦後現行医師法が制定された当時のことを振り返えり,併せてわが国の医師法が明治以来発展してきた概要と比較してみることは,今後の進展の為にも無駄ではないと考えるので,主要な点について記憶を辿って回顧してみたい。

保健婦助産婦看護婦法

著者: 金子光

ページ範囲:P.65 - P.69

 保健婦助産婦看護婦法制定の事情を書くように依頼をうけ,改めてふりかえってみれば,それは昭和22年7月,当時はまだ戦時中につくられた医療関係者に対する規定を含めた「国民医療法」が現存していたために,制度は独立した法律とすることができず,国民医療法に基づく委任命令の形で制定された「保健婦助産婦看護婦令」として政令によって規定されたのですが,(政令は国民医療法の解体に伴い,翌年の昭和23年7月30日法第203号による保健婦助産婦看護婦法として独立した)それがつくられるための準備は,終戦直後の20年の秋からはじまるのですから,ざっと20年前のこととなるわけです。昨年,法の制定15周年の記念会が厚生省によってもたれたのですが,事実はそれ以前すでに動き出していたのです。
 儒教,家庭制度,封建社会等の中ではぐくまれたわが国の男尊女卑の思想は戦後いわゆる民主主義による個人の尊重,男女平等,機会均等などの思想にきりかえられたとはいっても,それは方向がそう向けられたということで,社会の通念や各人の考えが一度に変わったわけではむろんありません。看護の仕事が女子の職業であるということは,不平等思想からぬけきれず,男子である医師の隷属的存在であった縦の関係の看護を,医師の協力者として横の関係において育成することの困難さは,少数の理解ある医師や自覚した看護婦だけの力ではどうにもならない。社会そのものが認識するようにならなくては解決しないことです。

グラフ

アルバム病院界15年史

ページ範囲:P.5 - P.12

日本の病院界に夜が明けはじめてから,かれこれ20年になる。しかし本格的な病院の新しい歴史は,今から15年前の厚生省病院管理研修所の発足にはじまる。したがって,ここでは,昭和23年までを有史以前の扱いとする。
本誌「病院」は,病院管理研修所の開設に遅れること1カ月にして創刊され,病院界の新しい歴史15年は,そのまま「病院」の15年史となり,回顧の感概はひとしおのことである。

アンケート 病院管理講習会受講の感想

今昔の感に堪えず,他

著者: 棚橋三郎

ページ範囲:P.22 - P.23

 「病院管理」という言葉がどういう意味を持つものか,全く無知な占領下の国立病院長が,50人づつ1カ班として全国から召集され,毎日粗食に甘んじながらの,朝早くから夕方までの講習会は,まことに涙ぐましいかぎりであったのであるが,マッキカーン直訳の講義を次から次に詰め込まれて,さてこれをいかに理解し,自分の病院にいかに利用すべきか,方向をはっきり見定めて帰られたかたが果して何名あったろうか。
 それにしても,あれから全国に相次いで立派な病院が新築され,関係者の関心も飛躍的に高まり,当時を顧みて今昔の感に堪えないでいるのは,私1人ではないと思う次第である。

--------------------

桜井盛二先生を偲びて

著者: 木村英雄

ページ範囲:P.27 - P.27

 桜井先生,先生の盛大な葬儀に参列して最後のお別れをしてから間もない今日,こうして想出の一端をつづることすら何かそらごとのように思われるほど今なお私の心に先生は生きておられる。
 人間の最も大きな責任の一つに「立派な死」があると云われておりますが,つくづくとその意味が理解出来てまいりました。先生のように永く後世まで生き残る死に方が果して自分にも出来るだろうかと考えると,いささか淋しく思います。先生をお知りしたのは「医療団病院」と云っても,小料理屋を改造した診療所としても整備し難い貧弱な姿の加茂病院を県立移管についての問題からでした。そして県立移管と同時に新築移転の計画に着手したものでしたが,病院を持ったこともなく,従って病院を知らない県当局をして今日の加茂病院いな,全県立病院を今日に在らしめた先生の業績は永久に忘らるることなく,今後の発展の基礎を作られたこと,何日かの日「加茂病院の完成が終生の仕事」だと言われたことによっても,なみなみならぬ先生の決意のほどが今にして良くわかります。

病院行脚の思い出

著者: 守屋博

ページ範囲:P.66 - P.66

 病院管理と云う商売を始めてまる15年になる。その間訪れた病院の数を数えて見たら400を越していた。そのどこをとっても思出の深いものである。昭和24-5年頃歩いた時は未だ戦後の不自由な時代であったので病院給食寝具の備付も思うにまかせられぬ頃なので,どこに行っても廊下で炊事をやっている様子であった。殊に田舎の病院ではわら屋根の所などがあったが,それが今では凡て新建築になって隔世の感がある。その頃にも甲南病院とか倉敷の中央病院の如く平生釟三郎氏,大原孫三郎等の先覚者の建てられたものは流石に感銘を受ける所が大であった。
 昭和30年頃になると,段々と戦後の新らしい建築が見られる様になって来た。幸に我々の作ったモデル設計の精神が取り入れられる様になって,看護単位とか中央診療機能とかが立派に消化されて成果をあげているのを見せられた。基幹国立病院や,県立中央病院等である。

病院行脚の思い出

著者: 今村栄一

ページ範囲:P.83 - P.83

古いアルバムより
 病院管理の講習が始められたころ,アメリカからの知識の導入が急がれると同時に,わが国の病院の実情を明らかにすることも必要であった。そこで旅行に出たときに各地の病院を見学させていただいたが,古いアルバムを開いてみると,わが国の病院の成長が痛感される。
 今,10年前の昭和29年ごろまでのアルバムを開いてみよう。今では浮浪者の収容所にもないようなみすぼらしい小児病室で,子どもたちが揃って食事をしている。附添廃止にもっとも抵抗を示した小児科の中で,いわゆる"完全看護"にはいったある国立病院のスナップである。

あとがき

著者: 吉田幸雄

ページ範囲:P.90 - P.90

 この6月は発刊15周年である。創刊当時は戦後の苦難のときであったが,新しい希望と建設のときであった。生活は欠乏に堪えねばならぬみぢめなものではあったが,しかし新しい苗を植えつけ,それを育てる希望に燃えていた。本郷林町の医学書院のささやかな分室に集まって,本誌の編集に情熱を捧げた。数名の同志は勿論のこと,社の長谷川泉氏と若い専務の金原氏もこの情熱にまき込まれ発刊当時は同人雑誌かといわれるほど夢中で,しばしば夜のふけるのも忘れた位である。現岡山県知事の三木行治氏も姉妹誌「公衆衛生」の編集で夜を徹したこともあったようである。当時この分室が梁山泊といわれたことも今は昔である。
 あれから15年が過ぎ去った。本号を手にして感慨無量といわざるをえない。当時誰が今日を想像したであろうか。

5年間の総索引—(18巻7号〜23巻5号)

著者: 今村栄一

ページ範囲:P.91 - P.106

まえがき
 昭和34年に「病院」の10年間の総索引を作成したが,今回それにひき続いて18巻7号(昭和34年7月)より23年5号(昭和39年5月)に及ぶ5年間の総索引を作ることになった。内容の分類はほぼ前回に準じたが,一部を改正し45項目とした。しかしあくまで便宜的の分類であることを諒承されたい。5年間は短いようであるが,「病院」の内容に大きい流れを感じる。ことに前の10年間とくらべて,病院管理が土台をかためてきたことを感じる。以下項目別に簡単なまとめをしておく。

最近の主な病院統計

ページ範囲:P.107 - P.110

第13回日本病院学会一般講演抄録追加

昭和37年退院患者の病類別観察

著者: 木村臻策

ページ範囲:P.69 - P.69

 昭37年1月から病歴(入院)の中央管理を実施したので,同年の退院患者について,国際傷病分類(A)表により病類別に観察し,さらに病床の活動状況について少し触れた。
 1)昭37年間退院患者総数3,744人,実数3,254人。

霞ケ関だより

救急医療制度の発足

著者: 下村健

ページ範囲:P.88 - P.89

 本年2月20日,救急病院等を定める省令(昭和39年厚生省令第8号)が公布され,さる4月10日から施行された。本則2条からなる小省令であるが,救急病院等を全国的に制度化しようとする初めての試みである。従来,東京等一部の大都会では,消防機関による救急患者の搬送業務がかなり活発に行なわれており,これに附随して消防機関と個々の医療機関との提携によっていわゆる救急病院等も存在していたのであるが,最近の交通量の激増,産業災害の増加等によって,事故による傷病者も増加の一途を辿っており,とうていこれまでのようないわば自然発生的な救急業務体制ではこれに対処し得ないような様相もみられるに至ってきた。これに対しては,消防,警察,医療機関等関係する各分野における体制の整備が必要であるが,昨年四月まず消防法の一部改正が行なわれて消防機関の行なう救急業務の組織化が着手されるに至った。従来,本来の消防業務に附随して全くのサービスとして行なわれてきた消防機関の救急業務について,その内容,範囲等を明確にするとともに,特定の市町村についてその実施が義務づけられるに至ったのである。

基本情報

病院

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1383

印刷版ISSN 0385-2377

雑誌購入ページに移動

バックナンバー

icon up
あなたは医療従事者ですか?