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雑誌目次

雑誌文献

病院24巻1号

1965年01月発行

雑誌目次

新春特集号 年頭所感

病院管理雑感

著者: 萩原義雄

ページ範囲:P.14 - P.16

 私が国立病院へはいったのは昭和21年の秋である。終戦後まもないその頃の病院の姿は,真に驚くべきものだった。入院患者は戦地から帰還した兵隊さんばかり。それが泥だらけな部屋で,きたない木製ベッドに臥て,ほとんどが下駄ばきで家の中を歩きまわる。下駄ばき禁止令を出したら昼間は藁草履に変えても,夜になればまた下駄で歩く。当時,総室にダルマストーブが入れてあったが,石炭が足りないものだから,どこかからひっぱがしてきた板を燃やす。なかには長さ3尺もある材木を突込んで,火がストーブの外で燃えているところがある。手術をすませて,夜,病棟の廊下を通ると,ストーブのうえで鋤焼をして,看護婦までいっしょに食べているのを見たことも何度かあった。敗戦国の兵隊というものは,なんと行儀の悪いものだろうかと,ほんとに呆れかえってしまった。その他,何から何までお粗末至極なものだった。
 当時医療局長官をしておられた塩田先生のところへご挨拶にうかがったら,「きみ,驚いたろう。今の国立病院は"病院"じゃないよ。牢獄みたいだよ。きみ,むずかしかろうが,頼むからこれを"病院"にしてくれたまえよ」といわれたのを今でも覚えている。こんな時にアメリカの人がきたんだから,驚いたのもむりはない。

初夢

著者: 神崎三益

ページ範囲:P.16 - P.18

 暮れに軽い肺炎に罹った老院長は大したことでもないが,暮れ,正月中の家族への思いやりから入院した。彼の念願であった森の中の病院。その最上階の回復期病棟のベッドの中からゆっくりまわる窓外の景色に見とれている。「回復期病棟」というのは,むかし看護婦の手不足からP. P. C.だの,患者が自分で用をたす自主病棟だのといったのとは違って,重症と経症とは同じフロアーにおかないという患者への思いやりからできたもので,この病院のはホテルニューオータニの最上階のように回転式になっている。
 そこへ高い教養と深い愛情をひめた婦長がはいってくる。

これからの病院医師

著者: 菊地真一郎

ページ範囲:P.18 - P.19

 日本病院発生史は欧来のそれとかなり異質である。今それを云々する気もないが,要するに医師個人の努力にオンブした姿で種々な型式をたどりつつ今日に至った。
 近代病院の現実は単なる個人の力では賄えない。しかし国や地方自治体あるいは特殊団体が,それぞれ勝手に病院を持つのがよいともいえない。

広く世界の大勢の中で

著者: 橋本寛敏

ページ範囲:P.19 - P.20

 迎える新しい年は終戦後20年めに当たる。日本が亡びるかと思った年も,すでに二昔の過去と遠くなった。世界もすでに大きく変わりつつある。冷戦を続けて世界の国々を脅かしていた二大国も政変によって新しい時代を迎えようとしている。中国がむりをして原爆実験をしたとて,世界の新しい脅威となるかどうかは未知数である。世界大戦が終わって20年ともなると,どの国が勝ったのか,どの国が負けたのかわからなくなった。まったく新しい時代にはいるような気がする。
 昨年は90に近い国々からいろいろの人種の選手を迎えてオリンピック競技を催し,皮膚の色を忘れて,交歓親睦の機会をつくり,世界がひとつであるという理念を興揚して,世界平和に寄与することが甚大であった。これは,正しく世界の大国のひとつである貫録を示したことであって,これから私どもが進むべき道を企画するにも,それにふさわしい心の態度をもつべきであって,終戦後窮乏の極に達した時のような,その日限りのまに合わせの方策に執着すべきでない。遠大なる計画を目指して,堅実な前進を図るべきではないか。

年頭PR

著者: 島内武文

ページ範囲:P.20 - P.21

 昭和24年に病院管理研修所が始められ,雑誌「病院」が発刊されたころ,私はこの仕事を一粒の麦にたとえて,その発展を悲願したのであったが,それから研修所は周知のごとく大研究所となり多数の研究発表も蓄積されて「病院」誌も巻を積ねること24となり,さる6月には15周年を祝ったのをみると誠に感慨無量である。
 日本病院学会もすでにことしは第15回の総会を京都に予定して,参会者も毎年1,000人を数え,会期も3日間でさえ不足勝ちな盛況であり,加うるに3年来全日本病院管理学会も主として関西に催され,また国立病院療養所やその他の病院団体においても早くより病院管理を中心とする発表や講演が行なわれてきた。ことに昭和28年,東北大学に始まって,日本大学,順天堂大学,および慶応義塾大学などの医学部に病院管理学講座が設立されて,病院管理研究所と相まって多数の専門的な学者によって教育研究活動が進められるようになってきた。

医療への政治的措置を望む

著者: 多賀一郎

ページ範囲:P.21 - P.23

 わが国の病院は,昭和38年末でその数6,600を突破し,病床数75万となった。人口10万対病床数も826床で,昭和29年の523床に比較すると,ここ10年間の増加がいかに大きいか感心させられる。
 この増加は,病院数そのものも増加したが,1病院当たりの病床数が昭和29年に97床が120床に増加した,いわゆる規模の拡大によるものが大きい。しかし,現在なお100床未満の病院数が4,093病院で全病院の63%を占めている。これらの病院のうちには,地域的な需要度から規模が自から規制される病院もあるが,経営体の能力によるか,経営体の経営方針によって,制約されている病院,同一地区の競合状態によって制約されている病院も多いのではあるまいか。

戦後20年にして生まれるもの

著者: 吉田幸雄

ページ範囲:P.23 - P.24

 敗戦によって打ちひしがれ放心したようなあの終戦の年からもう20年の歳月が流れてしまった。あの当時は物質には貧しさのドン底に落ち込んでいたが,もう戦争をしなくてもよいという安緒感によって,かえって豊かな気持ちにさえなった。これが平和の尊さというものだろうか。
 しかし,まもなく自分らは進駐軍という強烈な台風の中にまき込まれていった。そのひとつに病院管理という小旋風が起こされた。そして23年の秋には,国立病院長の病院管理研修会の開催,24年病院管理研修所が創設された。しかしこの旋風はGHQ台風から,しだいに分離し,雑誌「病院」の創刊,日本病院協会の創立,日本病院学会の発足と自らの力で雨となり流れとなり,ついに日本の国土に定着し,永続的に流れる川の姿と化したもののようである。そしてGHQの台風は霧消してしまっていた。

特別掲載

戦後日本における社会保障の発展

著者: 大内兵衛

ページ範囲:P.26 - P.37

経済は飛躍的に成長
 第2次世界大戦は数千万人の人間を犠牲とし,たくさんの国を滅ぼしましたが,これは人類にとっての歴史的なテストでありました。しかし,戦後20年,人類は確かにこのテストに耐えたように思います。たとえば,戦後10年に,世界はすでにもう戦後でないという意識を持ったのでありますが,最近においては,どこの国でも生産の伸び方はたいへんなものであります。
 たとえば,工業の生産だけについて申しますとドイツとかフランスとかイタリアというような国は,だいたい戦前の3倍の生産力を持っております。イギリスでも2倍です。こういう国ぐにに比較いたしまして,日本はどうであるかと申しますと,今のところ生産の伸び方は4倍であります。これを生産の伸び方が7倍もしくは8倍といわれるソ連と比べますと,おそいのでありますが,しかし"世界の奇跡"といわれたドイツに比べてもはるかにその復興が早いのであります。これについては,むろんいろいろ原因もありますが,何といっても技術の発達がこの動因でありまして,その技術の発達のさらに基礎は学問であります。

パネルディスカッション

病院報酬の理論

著者: 守屋博 ,   成内頴三郎 ,   尾口平吉 ,   江間時彦 ,   山元昌之 ,   一条勝夫 ,   仲田良夫

ページ範囲:P.38 - P.49

 司会(守屋) それではこれから,病院報酬の理論について,パネル・ディスカッションを始めたいと思います。
 ご承知のように,パネル・ディスカッションは少数のパネル・メンバーでディスカッションをやるのでございますから,したがってそのパネルメンバーの選び方によっていかような結論も出てくるわけであります。本日は,なるべく広くいろんな方面からパネル・メンバーを集めようという努力をしたのでございますが,こういう問題で出てくるというのは勇気を要することで,その点,本日のパネル・メンバーの方に厚くお礼を申します。

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第2回日本病院管理学会の印象

著者: 倉田正一

ページ範囲:P.56 - P.60

日本病院管理学会の第2回研究発表会が東北大島内武文教授を学会長として昭和39年11月13,14両日にわたって東京駿河台日大病院で開催された。会員は医療問題や病院管理上の諸問題を真剣に堀り下げ,また,きょうの管理諸問題よりあしたの課題を目ざして討論が活発に展開された。(写真は学会場スナップ)

外来看護

著者: 石内しづ

ページ範囲:P.70 - P.73

 私たちの東京警察病院での外来患者数は,1日平均900名であり,入院患者数は400名前後であります。
 患者の種類は,警察官およびその家族はいうまでもありませんが,一般の方がたも受つけております。

病院の規模と各部の面積配分

著者: 守屋博 ,   吉武泰水 ,   伊藤誠

ページ範囲:P.74 - P.81

 病院を新しく建設したり,既存の施設に増改築を加えて総合的に整備しようとしたりする場合に,まず問題になるのは,全体的に,もしくは各部について建物の面積をどのくらいにするかということであろう。むろん,それ以前の問題として病院のおかれている立地条件や地域社会の状況,あるいはその病院をどのような性格のものにするのか,といったことなどがある。これによって,建物の形,ひいては総体的・部分的な面積構成も大きくちがってくるはずである。ところで,このような諸条件がきめられた上で,さてその面積規模はとなると,きわめて建設量の多い,したがって典型的なケースともいえる地域の中心病院についてさえ,適切な基準と呼べるような資料の見当たらないのが現状である。
 そこで,ごく一般的な条件の下におかれた病院を対象にして,その総体的な面積および各部門ごとの配分比について若干の分析をおこなってみる。とくに水準の高い病院や研究的・教育的な病院,規模のぼう大な病院,特定の疾患だけを扱う病院などについては,一般論としての取り扱いがむりであろうから,ここの考察からは除くことにする。

救急病院の配置について—救急医療に関する研究・その1

著者: 岩本正信

ページ範囲:P.82 - P.89

 救急医療はその名の示すごとく,その初療の適否がその予後に重大な影響をもつものであり,そのためには医療施設の配置と受入態勢ならびに救急患者に対する初療および搬送機能のいかんが,計画的に組織化されていることが必要である。ことに救急病院の配置については,実態に基づいた計画を要すると考えられるので,約45万の人口を有する(昭和37年現在)中都市たる仙台市の実情を調査し,これに基づいて救急病院の配置について考察した。

編集主幹ノート

著者: 吉田幸雄

ページ範囲:P.96 - P.96

 新年明けましておめでとうございます。昭和40年—敗戦後20年を迎えました。思えばこの20年間,復興から経済成長へとひた向きな努力が続けられてきました。その結果,経済成長も国民死亡率の減少も世界の注目をあびるものになりました。しかしこれだけの成果を上げた裏には,ずいぶんムリがあったように思います。敗戦後の刻苦勉励の惰性もいっまでも続くものではないでしょう。貧国のドン底から,今日をうるためには,ひたすら経済成長一本槍で進んできたわけですが,いろいろのユガミを生じております。
 佐藤内閣になって,いよいよ社会開発というカケ声がかけられるようになりましたが,国民の経済を安定させるばかりでなく,本来の国民生活の福祉全体が調和のとれたものにするためには,形式的な制度でなく,真に文化的な生活が享受できる社会状感を作り上げなければなりません。

論壇

看護の場に理解を

著者: 東綾子

ページ範囲:P.61 - P.61

 昨年の7月号の「看護婦の勤務体制」(友谷鷹雄)と10月号「第三者の論争」(山田芳一)を拝読しました。私は決して,これらの意見に反発するものではありません。同じ病院の職員の人にすら,なかなか"看護"という職業を,正しく理解されず,もどかしさにコンプレックスを感じるとき,このように関心を示してくださる人があることに,感謝せねばなりますまい。「第三者の論争」を拝読して,いささか心静かにいたしております。当時者のひとりとして,思ったままを述べてみたいと思います。
 "看護"という職業を,もっとも魅力的なものにするには,いかになされるべきか。戦後,向上したといわれるけれども,看護婦のみの戦前・戦後を比較した場合であって,他産業に比して,決して向上しているとはいえないと思います。すべてにわたって,戦前・戦後には向上があるのではないでしょうか。現実の問題として,いまの社会では,どの面から押しても"看護という職業"には,魅力がありません。看護学院を卒業して,ようやく国家試験に合格してすら,転職を志す人がたくさんいるのが実情ではないでしょうか。「勤務体制を一般サラリーマン化する」ことなど夢のような話です。

各国の医療事情

豪州およびニュージーランド

著者: 岩佐淳子

ページ範囲:P.62 - P.69

 かねがねいろいろな本を読んで,医療保障の完備した国,ニュージーランドへ是非いちど行ってみたいものだと考えていたが,たまたまWHOから,さる昭和39年3月から8月までの5か月にわたって,豪州およびニュージーランドへ行く機会を与えられた。私のテーマは,「社会保障制度体制下の病院看護サーヴィスについて」であったが,看護の問題を知るうえで,その背景となる病院,医療保障制度,一般公衆衛生行政などを見聞する機会もあったので,ここでは,主として病院という観点から,医療保障制度を含めて,とくに印象深かった事柄を中心にお伝えしたい。

ホスピタルトピックス 建築・設備

ベッドまわりの設備

著者: 伊藤誠

ページ範囲:P.91 - P.92

 看護の面から,また診療の面から入院患者のベッドまわりに求められる諸設備の重要さは今さらいうまでもない。ことに生活の場を,方数尺の間に限られる患者の側からすれば日常の生活にかかわるもろもろの設備はベッドまわり集中されることになるから,これに対してじゅうぶんな行きとどいた配慮がなされていなければならない。診療・看護上の利便と病室を落ちついた雰囲気に保ちたいとする要求とから,たとえば酸素ボンベを病室に持ちこまなくとも壁つきのアウトレットから即座に酸素がえられた方が具合がいいとなるといわゆる中央配管による建築化された設備となってくる。この種の問題については,建築家の側からもいろいろな研究や試みがが提起されてきたが,ここでは最近竣工した東邦大学医学部付属病院における例を紹介しておこう(設計:田中建築事務所)。
 第1図は6床の一般病室であるが各ベッドの枕もとの壁にとりつけられた四角い板(床頭台に対応して床頭板とでも呼ばれるべきであろうか)が注目される。これは木製のパネルに,もろもろの設備を組みこんだもので,各種の要素を一体化したという意味において,建築ならびに設備の工法上も妙味のある案であるが,ことに数ベッドを容れるこのような「あいべや」において,それぞれの患者に空間的なよりどころを与えている効果も見のがせない。

特殊病院

バンコクの精神病院

著者: 岩佐金次郎

ページ範囲:P.92 - P.93

 タイ国には精神病院が5つある。バンコクにあるのが72年前に設立されたSOMDEJ CHOA PHYA HOSPITALである。他は,国のほぼ中央部(17年前設立),北部(25年前設立),北東部(12年前設立),南部(20年前設立)に散在している。いずれもSTATE HOSPITALで,入院者合計は約4,000名である。バンコクには,この精神病院のほかに,神経病と神経症の施設1(入院者約80名),精神薄弱児の施設1(入院者約20名),精神科のある総合病院2,麻薬中毒者専門病院1(200名収容可能)などがあり,いずれも公立である。精神障害者を対象にした私立施設はひとつもない。
 SOMDEJ CHOA PHYA HOSP ITALは,塀もなく低い生垣に囲まれた約3万坪の敷地を持ち,院内の建物は分棟式で,神経外科病棟,精神衛生相談所が併設されている。入院者は約1,100名(超過率10%)いた。訪れた3月末は,この地方では,多くの花が咲きそろう季節だが院内に植えられてあったブーゲンビリヤの紅や紫の花が目をひき,庭の手入が行き届いていて清潔であった。検査,研究,手術室か階4建の1棟に収められてあるほか,建物は大部分がコンクリート2階建,保護室病棟,合併病棟だけが木造平屋で近く改築される予定だという。痴呆および精薄者を収容している病棟と保護室を除いて,すべて開放されている。

霞ガ関だより

医療法人の減免税の問題

著者: T.T.

ページ範囲:P.94 - P.95

1.法人税の問題
 医療法人の法人税の減税は,昭和25年の医療法の改正によって医療法制度が創設されてから,多年の懸案であったが,昭和39年度から,その特定のものにいては,軽減された法人税率(100分の28)が適用されることとなり,このため,租税別措置法施行令および同法施行規則の改正が,昨年3月31日付でおこなわれている。

基本情報

病院

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1383

印刷版ISSN 0385-2377

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