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雑誌目次

雑誌文献

病院29巻13号

1970年12月発行

雑誌目次

特集 病院に残る古きもの

病院に古さを温存するものは何か

著者: 石原信吾

ページ範囲:P.19 - P.21

まえがき
 ‘古きもの’について語るためには,まず‘古い’とは何かということを明らかにしなければならない.そして,‘古い’という概念を明らかにするためには,‘新しい’という概念をも同時に明らかにする必要がある.‘新しくないもの’がただちに‘古いもの’であるとはかぎらないとしても,‘古い’が‘新しい’の反対概念であることは確かだからである.
 いずれにしても,そうした概念規定を明確にしておかなければ,‘古い’といい‘新しい’といっても,結局は水かけ論に終わる場合も少なくなかろう.それでは,せっかく今回のようなテーマを取り上げてみても意味がない.

病院とその周辺に残る古きもの—局外者の立場から,または建築的な視点から

著者: 伊藤誠

ページ範囲:P.23 - P.26

 あまり品のよい表現ではないが‘目糞が鼻尿を笑う’という言い方がある.体質の古さを問われている‘大学’に座を占め,しかも基盤の古さからして,これまたなかなか他にひけをとることはあるまいと思われる‘建築界’に足をつっこんでいる人間が,よその世界の古さを論じようというのであるから,いささかこっけいでもあろう.
 しかし‘岡目八目’ということばもある.つまり部外者の観察には当事者の気がつかない新鮮な所見が期待できるということである.

病院に残る古いことば

著者: 島内武文

ページ範囲:P.27 - P.29

 病院に残る占いことばという題をちょうだいしたが,考えてみるとむずかしい.われわれの使うことばはだいたいが古くから使っているわけで,わずかな新しいことば以外のすべての古いことばをあげていったらきりがないことになる.
 編集関係の方から示唆をうけたことばには,詰所・まかないさん・監督・調定などがあげられていることからいえば,今日病院で使われているが,種々の理由からすでに古くさく感ぜられることば,理解が困難になったことばについて書けということであろう.あるものは内容がすでに今日に適していないもの,あるものは過去のある時代に密接に関係しているもの,あるいは今日は使われなくなってきた文語体のものやむずかしい漢字や訳語,あて字のものなどということになる.

病院に残る古きもの・1

臨床大家と病院長

著者: 尾村偉久

ページ範囲:P.30 - P.32

 ‘病院に残る古きもの’の1項目として本題が取り上げられたが,この項目に関するかぎり,わが国の現状では,古きものとして一部に残存しているというような生やさしいものではなく,社会全般の基本観念がいまだそこに停滞している状態であるといえるように思う.ただ本題の論述者として私に白羽の矢を立てられたことは,私が三十余年前にわずかに数年間の臨床医としての経験を有する以外は,もっぱら衛生行政,特に病院統括の行政に従事したうえで,この7年前から本題の標的となっている病院長--病院管理者になっていることがその理由ではないかと推察しているのであるが,実は臨床大家であってしかもりっぱな病院管理者でもある多くの先輩を知っている身にとっては,まことにつらい役割でもあり,また我田引水のそしりをまぬがれないことと,大いにちゅうちょしたしだいである.
 しかしながら本題がわが国病院管理の改善発展に関する基本的な課題として常に問題となっていることを思えば,社会一般の啓蒙という意味であえて筆をとるしだいである.

病院に残る古きもの・私もひとこと

創立者の人格の影響

著者: 木下正一

ページ範囲:P.32 - P.32

 病院に残っている古いものといえば,その1つは,創立者の人格の影響であるように思います.数多くの人びとをひきつける人格者が魂をこめて建設したという病院は,その後いかに時勢が変わり,人心が変わっても--そうして病院自体の姿が変わっても--創立者の人格の影響は,どこかに,なにかの形で残っていると思います.どの学校にも校風というものが認められるのと同じことかと思われるのです.

病院に残る古きもの・2

医師の話し方

著者: 守屋博

ページ範囲:P.33 - P.33

 陰語というものがある.特定の業種に属するものが,第三者にわからぬように,意志を通ずるために発明されたものである.そのいちばん著明なものは,暴力団や香具師の間に用いられているものである.‘デカ’とか‘スケ’などのことばは,一般化して,今では本来の目的を失っているが,本職の連中はまったくしろうとには通じぬことばを使っている.彼らにしてみると,それが一種のパスポートであって,それが使えないと本物でないことを見破られるのである.なかには本職でないしろうとでそんな特殊語が使えることが,なんとなくカッコいいとして得意になって使うこともある.
 陰語には,実用性と虚色性とある.医師の使うドイツ語まじりの特有の会話は,そのどちらであろうか.むろん,医師の陰語のうちには,患者に聞かせたくないものもある.しかし,患者にしてみると,自分の目の前で自分の運命に関することをベラベラと,しかも単なる研究的興味で話されることは,なににもまして気になるものである.しかもたまには,ドイツ語のわかる患者もいないわけではないので,たまに耳にはいったドイツ語から,思いもかけぬ想像をして,すっかり悲観してしまうことがなきにしもあらずである.こんな会話は,患者の前でないところで行なうのが医師としてのエチケットではあるまいか.

病院に残る古きもの・3

看護婦寄宿舎

著者: 室賀不二男

ページ範囲:P.34 - P.35

近よりがたき女の城
 ‘古きものが必ずしも悪しからず’といえば,おまえは明治憲法だといわれる.古い施設をもち続ければ,東京都はなにをしているのか笑われ,少し金のかかった前向きの施設を作れば,おやじ日の丸はうらやましいねとやられる.
 ‘看護婦宿舎’は私たち男性のみだりに足をふみ入れがたい‘女の城’であり,労基法からは,使用者は‘寄宿舎自治の原則’に違反すれば,6か月以下の懲役または5000円以下の罰金というこわい場所である.

病院に残る古きもの・4

まかない的給食

著者: 阿久津慎

ページ範囲:P.36 - P.37

 まかない的ということばに抵抗を感ずる人があるかと思う.まかないということばは,だいぶ昔から使われている.宇津保物語(984年)楼上,下の巻に‘師の君日暮るるめり,御まかないせられよ’と出ているもの,源氏物語(1005-14年)夕顔の帖に‘取りつぐ御まかないうちあはず’と出ている‘まかない’は,今日われわれが理解しているまかないとは,少し違ったものであるが,江戸幕府のころのまかない方は,ほぼ今日のまかないに近い意味で使われているようである.
 いずれにしても,まかない的ということは,古いということであり,近代化されない時代おくれということに解釈して,年の瀬にスス払いをして,こんなものが,こんなところにあったと気づいて,もうじゃまだから,明治村へでも持って行こうかというようなものが,炊事のどこかに残っていたら,探し出してみようということにしたのである.

病院の残る古きもの・私もひとこと

人の存在価値

著者: 臼田美智子

ページ範囲:P.37 - P.37

 病気になり,病院という組織のなかに足を一歩踏み入れたとたん‘患者’という肩書きがつけられる.このことばはたいへん便利で民主主義的であるが,反面非人間的感じをいだかせることにもなっている.この肩書きは同情的扱いを受けるが,時には重い鎖をつけているがごとく感じさせるものでもある.
 そこで患者とは何かということを,全医療従事者はもう一度考えてみる必要があるのではないか.このことが,ひいては患者の医療の受け方への意識を喚起することにもなり,その1つひとつの行動の積み重ねが'医療体制の充実化への足がかりにもなっていくのではないかと思う.

病院に残る古きもの・5

病院の下足

著者: 山口寛人

ページ範囲:P.38 - P.39

 こないだある大学病院に午後3時ごろ行った.下足におばさんが1人いたが,靴はもう預からないから,自分で下げてゆけという.そこらに散らばっているスリッパのなかで比較的程度のよいのを選んだが,片方はレザーがはげてボール紙が露出しており,靴下を通じてもザラザラと感じる.靴を下げて院長室まで歩いて行った.あんまりかっこうのよいものじゃない.さりとて玄関に雑然と脱ぎ捨てられている靴やサンダルの混沌のなかにわが靴を捨ておいて,万一帰りに見つからなければ,遠路はだしで帰らねばならない.
 病院によっては,私がはいってゆくと,特別りっぱなスリッパをそろえて下さる所もある.これもたいそう気持ちがよくない.一般患者さんは汚ないスリッパなのに,私だけが新しいきれいなのをはくのは抵抗感がある.

病院に残る古きもの・6

病院職員のユニフォーム

著者: 荒井蝶子

ページ範囲:P.40 - P.41

‘衣食住’の序列には意味がある?
 ロンゲットと呼ばれるミディやマキシが,ミニにかわって若い人の間で実際に着用される時代になった.今さら,戦後時代の話題を持ち出すのもおかしいほどだけれど,何物もない欠乏のときに,そして少しずつ満たされる経済になったときに,よく耳にしたことばに‘衣食住とはよくいったものだ.ポロをまとい芋づるを食べていたものが,まず着るものだけは形がついてきたじゃないか’と.そして‘着るものと食べるものは,なんとか豊かになったけれど,これからは住だナ’などと.
 医療制度の貧困のなかでは,しかし,この序列にはいささかの迷いがあったようだ.どちらかといえば,住的なものが,やっとどうやら,戦後20年たって第1回脱皮の時点を過ぎつつあるように思われる.しかも世間一般のいわゆる社屋ビル,ホテル,店舗の類からは,1サイクル遅れて……,衣や食は,さらにかなりのサイクルをへだたった時点で低迷しているのだろうか.

病院に残る古きもの・7

病院の薬好き

著者: 砂原茂一

ページ範囲:P.42 - P.44

‘古きもの’か‘新しきもの’か
 ‘薬好き’というのが与えられた題目である.‘病院’自身が‘薬好き’だという言い方もちょっと変だが,それが‘病院に残る古きもの’の1つに数え入れるにふさわしいことなのかどうか私にはよくわからない.
 しかし病院では薬がたいへん幅をきかせていることは確かである.国立病院の支出の40%は医業品購入費で,50%は人件費であるから,たくさんの人が薬をもって右往左往しているところが病院だといえないこともない.

座談会

古いものを探る

著者: 井上昌彦 ,   寺島敏子 ,   四方淳一 ,   ブラウンフランク A ,   落合勝一郎

ページ範囲:P.46 - P.53

病院にいまもみられる古いもの——それがたとえほんの小指の先ほどの露出であっても,探っていけば奥深く,幅広く,日本の医療のあり方にまでかかわってくる.1970年の最後にあたって,クモの巣を払いがてら,古いものを拾ってみると……

グラフ

病院完成への歩み—国保旭中央病院

ページ範囲:P.9 - P.13

病院は成長するものである.しかしその蔭には院長を中心として,多くの人の努力がある.昭和28年に133床から発足した旭中央病院は,572床の全科を有する総合病院にまで成長した.そこには医療の本質と病院管理に徹した諸橋芳夫院長の意思が根幹となり,多くの力が結集されている.救急からリハビリテーションまで一貫した医療が行なわれる体制が樹立された.
千葉県の銚子の手前に,国鉄旭の駅がある.新宿駅から急行で2時間あまり.病院のために急行が停まるようになったといわれるほど病院は旭市の看板である.(千葉県旭市イの1326).

杏林大学医学部に病院管理学講座開設 高橋政祺教授の誕生

著者: 永沢滋

ページ範囲:P.14 - P.14

新設杏林大学医学部にまっ先に病院管理学講座の設置を申し人れたのは私である.それは今建築しようとする付属病院の根本から専門家を参画させて検討立案することが将来の大学病院の理想実現のために必要だからである,これを率直に受け入れられた松田理事長に敬意を表するとともに,今小使となり,あるいは事務長となり,ときに建築家となり,経理士となり,また初期学生の病院研修により医の何たるかを植え付けるための指導者としてあらゆる努力をされている高橋君に,ほんとうの生きた学問を身につけて,将来の管理学が単なる理論でなく,実際の必修医学講座としての発展とその成果をひそかに念じかっ祈っているのは単に私だけであろうか.高橋君がんばれ!

病院の広場

新しい社会保険小倉記念病院の建築にあたって

著者: 副島謙

ページ範囲:P.17 - P.17

 大正5年に創立され,50数年の歴史を持つ旧病院を売却して,北九州市小倉区貴船町の紫川畔,国道沿いの現在地に総合病院を新築し,移転することを決定したのは昭和42年3月であった。旧病院が繁華街の中心にあり,騒音・排気ガス・スモッグなどの公害に抗しきれず,加えて敷地(2944m2)の狭小のため今後の医療の進歩に対応する施設の拡充や,患者のための駐車場にも多大の支障をきたしたためである.
 建築設計にあたって70年代の公的総合病院は,より多くの人びとのために,ホスピタリティの名の示すごとく,1.心身ともによりよい環境で,2.よりすぐれた高い水準の医療を提供するとともに,3.地域社会の健康管理をも担当すべきものでなければならない,との考えで,その基本設計を九州大学工学部建築科青木正夫教授に依頼するにあたって,1.従来の病院の暗いイメージを排除し,あくまで患者中心とした,明るく親しみやすい,樹木に囲まれたホテルのごときイメージを与えるものであること,2.急速に進歩する医学に対応した診断・治療・看護を行なうための施設を整え,これらのものが有機的かつ能率的にその機能を発揮できるように配置されるべきこと,3.将来2次,3次拡張と,自動車の駐車場に備えるために十分の敷地を残すこと,などを主たる目標としてほしいことを希望した.

精神病院の管理・12

精神病院の課題

著者: 鈴木淳

ページ範囲:P.55 - P.59

はじめに
 今年1月から‘精神病院の管理’と題して1年間にわたる連載が続けられてきた.いままでの連載のすべての論文にみられるように,精神病院は変貌の渦中にある.過去からの羈絆(きはん)から脱して未来を創造する時期であるからである.戦前からの連続性は失われ,10年前の輝かしい業績は影薄く,不動の鉄則は基盤を動揺させている.この変貌は国の内外とも同じであるが,変貌の様相はわが国より外国が時期的にやや早く,規模も速度もより広くより激しいので,国によっては変貌を改革とも革命とも呼んでいるほどである.
 これらの潮流の底にあって今後とも引き続き影響をもつと思われるいくつかの要素を取り出してみよう.

救急医療に関する研究・6

救急室の人的組織について—救急機構調査(4)

著者: 岩本正信

ページ範囲:P.60 - P.64

 原素行氏が昭和34年に行なった調査1)によれば,救急室を有する72病院のうち担当者人員構成のあるものは(73.7%)の高率を示すが,ここにいう人員構成とは専任職員の配置を行なうものはほとんどなく,せいぜい看護婦の配置,あるいは兼務などであることと想像される,との報告があるので,本調査においては‘救急患者のための救急室勤務者’について兼任・専門の別を明らかに回答を求め,救急室の人的組織について究明することにした.したがって,救急室を救急患者以外の目的に使用する場合の勤務者は除外した(救急患者以外の目的に使用する救急室については,本誌第29巻第9号‘救急医療に関する研究・3’を参照されたい).

管理者訪問・33

仙台赤十字病院長 女川浩先生

著者: 車田松三郎

ページ範囲:P.65 - P.65

 日赤ということばを聞くと,すぐ‘病院’を思い出すのが,一般庶民の意識ではなかろうか.そのうちでも‘看護婦’とか最近は‘病院スト’ということばが思い出される.
 確かに日本でいちはやく看護婦の養成を始めたのはほかならぬ日本赤十字社の前身である博愛社であった.明治19年のことである.またこの時期に戦傷病兵の収容,治療を目的として博愛社病院も作られた.これが現在の日赤病院の前身であり,のちに全国各地に広く病院が設置され,診療所や産院を含めると101施設(病院91,分院2,診療所15,産院3)にもなっている.仙台赤十字病院はそのひとつである.

英国国営医療研究メモ・12

VI.むすびにかえて

著者: 姉崎正平

ページ範囲:P.66 - P.67

 ‘英国国営医療研究メモ’と題し,今回を含め12回にわたる連載を終わることになった.メモというのは覚え書きであり,本人や周囲の人びと以外には,わかりにくい場合が多い.この連載も,ライトブルーの色ページにふさわしからざる軽妙さを欠いた,ペダンチックで中途半端なひとりよがりな記事の連続であったかと,思う.
 そこで,最後に,この連載執筆を通じての筆者の問題意識を明らかにして,むすびにかえたい.

病院と統計

国民の傷病量

著者: 前田行雄

ページ範囲:P.68 - P.69

 一般に傷病統計では,ある一時点で傷病にかかっている者の数を有病者数,傷病そのものを対象とした場合(1人で2つ以上の傷病にかかっている場合,重複して計上する),有病件数という.また,有病件数の対象人口に対する割合を有病率(pervalence)という.これに対し,ある期間中に発生した傷病者の数を発病者数,傷病を対象とした場合にはり患(発病)件数といい,り患件数の対象人口に対する割合をり患率(incidence)という.
 病院や診療所で受療した者,買薬で治療した者,薬は飲まずに寝ていた者などを含み,すべての傷病についての有病率・り患率をとらえるものとしては国民健康調査がある.この調査は,毎年1回10月に行なわれ,各世帯にカレンダー式調査票が配布される.各世帯員は,調査期間中の傷病の状況をこの調査票に記入し,調査員が3日ごとに各世帯を訪問してこれを確認し,最後に集約する方法によっている.この調査における傷病の定義は次のとおりである.

見のがされやすい実務の知識

病院の焼却炉

著者: 倉持一雄

ページ範囲:P.70 - P.70

 都市の過密化現象から,ごみ処理が社会的問題にまで発展しているが,各都市の清掃能力は主として一般住宅を対象としており,各事業体は自己処理を余儀なくされている現状が多い.
 一般の処理方法には,回収業者が再生を目的として般出処分するものと,厨芥類を飼料用に搬出処分するもの,あるいは可燃性雑芥を焼却炉により処理する場合のほか,公共下水道が完備した区域では,厨芥類をディスポーザで処理することがあるが'下水管内の異物堆積あるいは損傷原因となることがあり,また,処理場の負荷の増大などから,あまり利用されていない.特に病院のごみは一般事業体と異なり,施設外への搬出が不適当なものが多く,公衆衛生的見地からも,焼却炉の必要性は大きな比重となっているので,この問題について少し述べてみる.

病院の職員教育 駿河台日本大学病院職員教育資料より・12

電話のエチケット—前号つづき

著者: 田中栄一

ページ範囲:P.71 - P.71

5.電話の取り次ぎ方
(4)名ざし人が出るまで責任をもつ
 ‘○○さん,お電話です’と取り次いだままにすることがあります.取り次いだ人は,その人が電話に出るまで責任があります.名ざし人がすぐに出られないときには,その理由を告げて,お待ち願えるかどうかを尋ね,あまり長くなるときは,‘たいへんお待たせしておりますが,ただいますぐまいりますので少々お待ち下さい’と途中で断わりを言えば待つほうも気持ちがよいものです.

病院経営戦前戦後・12

病院組織の変化(5)

著者: 山元昌之

ページ範囲:P.72 - P.72

 患者収容態勢のうち,最後に寝具設備をふり返ってみよう,昭和20年の初めころから,空襲が激しくなった.病院は爆撃しないはずだから,病院の屋上に標示をしたらどうだ,などと大まじめに議論しているうちに,夜間の無差別大爆撃が始まり,軍需工場も,住宅も,学校も,お寺も,病院もいっさい区別なしに焼き払われた.焼かれた病院では,物資のないときで,寝具の補充がつかないので,それから後は入院患者に寝具を持ってこさした.これが実情だ.
 この当時の状況をみて,戦前はベッドにふとんはついていなかったと思っている人たちもいるようだが,それは大きな誤解で,むしろ今日のようにベッドと寝具とを切り離した考え方のほうがおかしい.

病院建築・24

結核療養所一部転換のための建築計画—高槻赤十字病院の場合

著者: 松本啓俊

ページ範囲:P.75 - P.79

まえがき
 ここ十数年来の結核患者の滅少,精神病・交通外傷患者の増加などは,わが国における近年の疾病構造変化の著しい例といえよう.
 このような状況を背景として,結核療養所は廃止・統合,あるいは精神科・運動器疾患などの専門病院への一部および全画転換,あるいは一般病院への一部および全面転換を余儀なくされている.ちなみにわが国の医療施設の経年推移を表1に示す.

病院図書館

—伊藤 誠 著—「建築計画学10 病院」

著者: 諸橋芳夫

ページ範囲:P.80 - P.80

病院人・患者の立場に立った病院建築学
 病院長たるものだれでも一度は病院を新・改築してみたいものである.
 病院の建築は専門家にまかしたほうがよいという人もあるが,都立豊島病院長室賀不二男氏の経験ではまかすべきでないという.室賀氏は豊島病院新築とその問題点として病院設備8巻6号にそのことを発表している.

病院長時代の思い出・6

看護の話

著者: 萩原義雄

ページ範囲:P.81 - P.86

看護管理の基礎づくり
 わたしは京大を卒業するとすぐ外科にはいり,しばらくして熊本の大学へ行かされ,一般総合病院へはいったのは,国立京都病院が最初で,また最後というわけである.
 だれでも知っているように,昔の大学病院の看護婦は,患者は付添にまかせ,自分は医者の手伝いをすればそれでよい,ときにはサーバントのような用事もする,暇なときは看護婦室で若い医者と雑談にふけるというようなことをしていた.また付添婦なるものが実にひどいものだった.病院などについてはなんらの知識のないわたしではあったが,看護婦はこんなことをしていて,はたしてそれでよいのだろうかという疑問を,かすかながらいだいたことも,ときにはあった.

座談会

医師と看護婦—パートナーへの理解を求めて

著者: 吉岡幸枝 ,   増田澄江 ,   山内香住 ,   小山弘 ,   山下政行 ,   富田重良 ,   森日出男

ページ範囲:P.87 - P.96

もつれた糸のほぐれるきっかけは‘相手の立場をわかる’ところから始まる.医師のエリート意識,看護婦の狭量など,一方的なうらみつらみはさておいて,理解の原点を求めてお互いに腹を割って話しあっていただくと……

資料

精神病院在院措置患者の実態(2)

著者: 鈴木淳

ページ範囲:P.97 - P.102

在院措置患者の医療
1.診断別分類
 診断別分類には疾病概念,診断基準,それらのまとめ方など数多くの疑問がもたれるけれども,本調査では,比較の便宜性もあって,昭和29年の精神衛生実態調査時の分類が使われていた.
 表6のように,狭義の精神疾患(ここでは精神病)が総数の約9割を占め,なかでも精神分裂病が総数の77.6%である.どの疾患でも男性は女性よりも多く,男性在院措隅患者数を100とすると,女性の精神分裂病患者数は69,精神薄弱46,精神病質24である.しかし,50歳以上に限ると,精神分裂病1306名のうち女性患者数は男性よりも100名多く,60歳以上の‘その他の精神病’148名中,女性が12名多い.

霞ガ関だより

優生保護に関する諸問題—優生保護実態調査の検討から

著者:

ページ範囲:P.103 - P.105

はじめに
 大正の中ごろに始まったわが国の産児調節運動は,生活改良という労働運動の色彩が強く,当時の社会主義者がこのにない手であった.しかし,満州事変以後の‘産めよ,ふやせよ’の政策推進により,この運動は事実上消滅し,終戦を迎えたといえる.
 戦後の日本は混乱と窮乏のなかにあり,食糧難と生活苦にあえいでいた.このような窮迫した状況下にあって,妊娠・出産は母体の問題のみならず出生児の育児の問題にも深くつながる深刻な問題であった.さらに,社会不安に伴い暴行・脅迫などによる妊娠の増加の問題は,単に堕胎罪で罰することで済まされる問題ではなかったといえる.

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「病院」 第29巻 総目次

ページ範囲:P. - P.

基本情報

病院

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1383

印刷版ISSN 0385-2377

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