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雑誌目次

雑誌文献

病院33巻2号

1974年02月発行

雑誌目次

特集 事例からみた労働問題

病院労働組合の現状

著者: 師勝夫

ページ範囲:P.22 - P.24

病院労働者の組織の現状
 病院の労働組合というと,総評系の日本医療労働組合協議会(略称「日本医労協」)を筆頭に同盟系,無所属などさまざまである.労働省の労働組合基本調査によると,昭和46年6月現在で,7万4027人が日本医労協に加入していることになっている.
その内容は, 全日本赤十字労働組合連合会(全日赤)………4850人 健康保険病院労働組合連合会(健康労連)……2939人 全日本国立医療労働組合(全医労)………2万6012人 全国労災病院労働組合(全労災)………………1363人 国家公務員共済組合連合会病院労働組合(国共病組)……1394人 全日本厚生農業協同組合連合会従業員組合協議会(全厚従)……8829人

病院における労働問題の系譜

著者: 斉藤公男

ページ範囲:P.25 - P.30

課題と時期区分
 私に与えられた課題は,病院における労働問題の系譜である.労働問題という言葉は,きわめて曖昧な言葉で,広くも狭くも解することができるのであるが,ここでの労働問題とは,賃労働者としての従業員または労働運動,ないしは労働組合運動と病院経営との間に派生した賃金,労働時間やその他労働条件などをめぐる紛争,つまり労使関係の中で何が問題となったかを探る,このような意味で使用していることをお断わりしておきたい.したがって,その歴史と事例とは,以上のごとき労働問題の歴史系列の進展の中で,特徴的な出来事について取り扱うものである.
 なお,以下では考察の便宜上,昭和20年から昭和34年までを第1期,昭和35年から昭和40年までを第2期,昭和41年以降現在までを第3期とし,主な事例を中心に記述する.

事例

昭和35年の武蔵野日赤スト

著者: 神崎三益

ページ範囲:P.31 - P.35

 このたび「病院」が‘事例からみた労働問題’という特集を企画したので,ぜひ武蔵野の事例を書いてくれと頼まれた.これが病院発展史とでもいわれるなら喜んで書けるが,あまり名誉のことでもなく,少ないながら当時の組合員も残っていて時どき顔を合わせる間柄でもあれば,古傷をつつくような気がして気のりがしない.しかし,武蔵野日赤のストといえば,日本の病院史,いや,労働史にも残るような有名なものであってみれば,社会的責任からも無下に断わりもならず重い筆をとったしだいだ.
 筆はとったものの,すでにひと昔半の昔のことで記憶はうすれ,記録も十分にはない.尽くさない点はよろしくご寛恕をお願いする.

ニッパチ闘争がめざすもの—‘夜勤’から‘日勤’のたたかいへ

著者: 横山広

ページ範囲:P.36 - P.39

はじめに
 いまから6年前のいまごろ,私はどんなことをしていたか——医学書院の寄稿依頼にペンをとる前に考えた.そういえば,あとで‘ニッパチ’と名付けられた看護婦夜勤制限闘争のことで頭がいっぱいだったことを思い出す.日本医労協結成10周年記念レセプションに出席し,"必ずやる"と吹いたがだれも本気にしてくれなかった.夜行で新潟ヘトンボ帰り,途中駅所在の県立病院へ朝早く降り,雪のふりしきる夜勤の病棟をたずね,ストーブに暖めてもらいながら1週間後に報告の原稿を書いていた.たたかいの成否は,その集会にかけられていた.私は,祈る思いで原稿を書いた.
 あれから,6年経った.私は,それ以来,この運動について責任をもって活動してきた.この一文は,そうした活動をしてきたものの所感として,随想のつもりで読んでいただければ幸いなのである.

東京厚生年金病院の労災方式をめぐる労使紛争

著者: 千田広二

ページ範囲:P.40 - P.43

病院の概要と労働組合
 当院は昭和27年,厚生年金保険の福祉施設として設立された総合病院で病床数526,看護単位13,外来患者1日平均950,職員数490(うち看護職員は230).労働組合員数は昭和44年6月52,同年10月165(うち看護職員140),昭和48年12月末現在65(うち看護職員50).44年9月,医労協・東京医労連に加入.

複雑な労使の三角関係

著者: 藤田栄隆

ページ範囲:P.44 - P.46

ストの総本山?に組合が2つ
 大阪赤十字病院というとすぐストに結びつくのか,まるでストの総本山のように思っている人が多い.たしかにストの発生件数も少ないほうではないし,マスコミにもよくとりあげられる.夕刊の第1面に鉢巻をした看護婦の写真が載り,その説明欄に"天王寺区の大阪赤十字病院で"などと書かれると,世間は年中ストをやっているように思いこんでしまうのである.とにかく,関西における医労協の最大拠点でもあり,組合も2つあるといった条件下では自然ストも多くなり,また,世間からもそういう目で見られるようになるのだろう.
 さて,日赤には古くから‘全日赤’と呼ばれる労働組合があった.それが,いつからか‘日赤新労’という組合ができ,さらに‘日赤労組’と呼ばれる組合が誕生して全部で3つになった.わが病院の場合,‘日赤新労’はないが,‘全日赤’と‘日赤労組’はある.

インタビュー

事例からみた病院労働問題の特質

著者: 宮沢源治 ,   石原信吾

ページ範囲:P.48 - P.56

"病院聖域論"からはある程度脱却したとはいえ,病院でみられる労使の関係はまだまだ未熟な点が多く,稚拙な対応が目についたりする.そこで,最近の病院労働問題の動向を的確に把握し,適切な労使関係樹立への一助とするため,宮沢氏にいろいろとおたずねしてみよう.

病院と統計 病院の部門別原価計算・2

給食部門の原価計算

ページ範囲:P.10 - P.11

原価算定方法
 給食部門においては,一般的に患者給食のほか,職員,看護学院生その他の給食もあわせて行なっているので,これらの給食を含めて,まず全原価を把握し,さらに,患者,その他に分離して患者給食原価を算定した.この場合,材料費は実績により,その他の原価は食数を基準にして配分した.ここに示すものは患者給食についてのみの原価である.

グラフ

村ぐるみの健康自衛—豪雪のなかの沢内病院を訪ねて

ページ範囲:P.13 - P.19

 人工衛星が飛ぶ時代に虫けらのごとく死んでいった村民の姿.雪や貧困や医師不在のためだった.いまの沢内村にはそんな悲惨さはない.豪雪は相変わらずだったが,除雪車が道を確保してくれる.マイクロバスが患者の送迎をたゆまずやる.急患や往診には道なき道を越えて病院のジープや雪上車が出動する.寒冷僻村を象徴する‘雪囲いをつけたワラぶきの,昼なお薄暗い農家’もほとんど消えた.跡には明るい‘豪雪モデルハウス’の集落ができ,徴塵の貧しさも帯びていない.
 ヘルス・ケアとメディカル・ケアを統一した‘沢内方式’は与えられたものではない.生存権を村民みずからの責任において獲得せんとした長い苦闘の歴史の産物なのである.病院は,与えられた条件・制度の中で最良の包括医療サービス提供を工夫した.村当局も自治権の最大限の行使を試みた.この村民・病院・行政の一体化こそ,昭和35年当時,加藤院長,深沢村長(故人)が求めていた医療再建の道標であった.

‘医療維新’をめざして東奔西走山口県立中央病院院長 棟久一夫先生

著者: 尾口平吉

ページ範囲:P.20 - P.20

 先生と私との出会いは昭和30年頃,全国都道府県立病院協議会の結成をめぐってであった.先生が山口県立中央病院長に就任されて2,3年後であった.先生は,昭和23年当時の日本医療団山口県中央病院副院長に就任以来,県のセンター病院の管理にあたられてきただけに,わが国の医療供給体制の中に占める自治体病院の役割を高く評価され,わが国の医療の乱れと立遅れを克服する道は,自治体病院がその機能を強化・拡充することにあり,そのためには病院という小さい枠の中だけでの努力では不可能であり,病院が一丸となって医療供給体制の確立,病院財政の安定など病院経営環境の改善を行なわなければならないとの信念に立って,都道府県立病院協議会(37年より全国自治体病院協議会に改組)の設立に参加された.以来約20年間,副会長として,また諸橋現会長のもとでは常務理事として,協議会運動の推進役を勤められるとともに,山口県病院協会会長あるいは日本病院協会理事として,遠隔の地にありながら,わが国の病院界の前進と医療制度改革の旗手としての役割を果たされてきた.
 先生のこのような行動は,維新の原動力となった長州の血が起こさせたのかもしれない.私は協議会結成以来,約20年間先生の指導を受けてきたが,先生の終始一貫した強固な信念,外柔内剛,加えて温い人柄に心酔してきたひとりである.

世相あれこれ

物資不足・物価値上げ—このチグハグのやるせなさ

著者: とう

ページ範囲:P.30 - P.30

石油が現われ値上げが残る
 昨年の暮れは,石油危機が叫ばれ,物みなすべてというように姿を消し,‘消費は美徳’が急転回して‘節約は美徳’となった.灯油も洗剤も砂糖も姿を消した.買い出しに行く暇がない女医さんが,日曜日にタクシーに乗って東京都内を回って,トイレット・ペーパーをさがしたという実話もある.
 石油がないために薬の製造ができないと,薬屋が泣きごとを言うのを聞いて,買いだめしようとしても,日常使う安い薬は製造があと回しだと言われた.

ニュース

橋本寿三男氏病院管理研究所長に就任

ページ範囲:P.43 - P.43

 橋本寿三男氏(上写真)が本年1月1日付で厚生省病院管理研究所長に発令された.一昨年末に前所長の吉田幸雄氏の退官のあと1年と半月の間空席となっていた研究所長の椅子も,やっとこれで主を得たこととなる.
 所長欠員という不自然な状態が,しかも1年間も続いたわけであるが,橋本氏がその座を継ぐことになってみると,いかにもその人を得たという感じで,1年の空間など初めからなく,直接バトンタッチが行なわれたみたいに思われてくるから不思議である.

病院建築・60

空調設備の運営

著者: 阿久津慎

ページ範囲:P.57 - P.62

空調のしかた
 病院が空調をしようと決心したとき,まずどのような設備で,どのような空調をするかを決めねばならないと思う.
 以下空調のしかた,そしてその運営について話を進めることにする.

連載・2

病院における物品搬送設備の概要とその導入状況(2)

著者: 栗原嘉一郎 ,   中野明

ページ範囲:P.63 - P.68

ボックスコンベヤー
 物品を一定の大きさのボックスに収容し,循環駆動されている2本のエンドレスな垂直チェインに,2.5m間隔でとりつけられたフレームカー(ハンガー)でボックスを支え,昇降路内を垂直連続搬送する装置である.搬出入口に水平ベルトを接続することにより,水平・垂直の連続搬送も可能となる.
 ステーションの選局は,ボックスの上端の片側についているナンバープレートのカーソルを,目的ステーションのナンバーにセットすることによって可能となる.すなわち,セットしたボックスを搬入ストックコンベヤー上に置くと昇降路内を上昇してきたフレームカーに自動的に乗せられ,いったん最上階までのぼってから下降してくる際に,各ステーションの検出装置がカーソルを検知し,搬送ローラー弁を働かせ,目的ステーションの搬出ストックコンベヤー上に自動搬出し,到着を知らせる信号(ブザー,ランプ等)を出すのである.また,ボックスの底部には,水平搬送の際に,途中で自由に方向転換をするためのコーナーガイドがついている.

病院のクオレ

第2話院長職の見かた

著者: 原素行

ページ範囲:P.69 - P.69

前近代的管理者と批判されたこと
 20余年前,広尾病院を会場として,病院給食懇談会が催されたことがある.参会者はおよそ100人ぐらい.そのうちには,東一病院の栗山先生,看護会長の井上女史,たまたま在京中の台湾の婦長さん,著名な病院栄養士諸姉,都衛生局の病院指導者の方がたがお見えになって,病院給食に関する広範囲にわたる問題と取り組んだ.当日の司会者は,会場主の院長がなり,問題提起者をも兼ねた.問題が広範囲であるため,とても筆者には大変な重荷であった.ついに筆者は腹のなかをさらけ出して,‘院長には手が2本しかないので,何からかにまで手が回りかねて……’と申した.この日の報文を何かの雑誌に投稿した.やがて,ある大銅山会社の付属病院の事務員から,筆者に対して厳しい批判の文が雑誌に投稿された.いわく,某病院の院長は非常にコセコセして,前近代的管理者である,八幡(やはた)の社長はドッシリと構えるものだと書いてあった.
 一般に仕事は,管理者がトップに立ち,下へ下へと権限を委譲するのがオーソドックスの方式である.病院でもそのとおりである.筆者は,コセコセして,そんじょそこらの小自転車屋のオヤジみたいだということになる.これが筆者の生態学みたいなことになる.——橋本寛敏先輩によれば,旧式病院の院長は最高の技術者であった.さて,これからの病院長は何からかにまで知っていなければならないという.

英国で学んだ病院管理・2

看護管理と看護教育(1)

著者: 関武矩

ページ範囲:P.70 - P.71

ここも看護婦不足(?)
 看護婦不足の問題は洋の東西を問わず深刻であり,イギリスにおいても例外ではない.3か月の研修期間中に訪れたいくつかの病院の看護婦長は口をそろえて,看護婦不足の悩みを表明していたし,病院に働く勤務医の中からも,看護婦の充足を願う声を聞かされた.ところが,説明を受けながら院内の見学をさせてもらうと,‘これでも看護の手不足なのだろうか’という疑問がわいてくる.これは見学したいずれの病院においても,同じような印象をうけたのである.
 前半に1週間の病院実習を行なったルイシャム・ホスピタルを例にとってみると,550床の総合病院で,看護婦が410名だという.そのほか約45名の看護助手がいるという.これは‘この病院には何名の看護婦が働いているか’という質問に対して返ってきた答えである.ただし,この数字には,カラクリがある.410名のうち,なんと50%は看護学生だからである.ひとつの病院に働く看護婦のうち50%が学生ということは,イギリスでもいわば極端な例かもしれないが,保健省の看護部長も‘いまや勤務する学生数が50%を超えている病院もある’と述べているし,平均的には,1病院あたりの看護学生の労働力構成比は30%とみてさしつかえないだろう.もちろん彼女たちは有給である.このように,看護学生を労働力として確保するという割りきった考えをもっている特徴がある.

病院職員のための医学知識・14

臨床病理学とは

著者: 河野均也

ページ範囲:P.72 - P.73

 臨床病理学とは,どのような学問でしょうか.また,従来のいわゆる病理学とはどのように違うのでしょうか.
 臨床病理学とは英語,とくにアメリカで用いられているClinical Pa-thologyを直訳したものであり,日本ではわずかに20年の歴史しかもたない医学の中ではもっとも若い学問の1つであります.また,わが国においては一部の私立大学医学部に臨床病理学教室が開講され,活動を開始しているのみであり,国立大学には講座の開設が許可されていないのが現状でありますから,臨床病理学とはどのような学問であるのか疑問をもたれる方が多いのも当然のことと思います.
 従来,病理学は基礎医学の一分野に数えられ,病理解剖を通じて死因を追求し,病気の本態を解明する学問であると考えられてきました.ところが,今世紀後半にはいりますと,病理形態学的変化も針生検法の開発をはじめ,いろいろな臓器を生検することによって患者が生きているうちに検索することができるようになりましたし,これと平行して患者から採取される血液や尿をはじめ,いろいろな試料を生化学的に,あるいは免疫学的な手技などを用いて分析する技術や,患者自身から発せられる情報を心電図などの生理機能検査手技を用いて検査する技術が飛躍的に進歩してきました.

医療事故と法律・2

麻酔による事故

著者: 饗庭忠男

ページ範囲:P.74 - P.75

質問
 最近,医療事故の中で麻酔に関する事故が非常に増加してきたといわれますが,具体的な麻酔の実施にあたって,担当医師や病院側はどのような点にあらかじめ注意しておけばいいでしょうか.

医療提供システム論入門

1.医療の多面性

著者: 紀伊国献三

ページ範囲:P.76 - P.76

連載にあたって
 現代の社会問題のうちおそらく医療の問題ほど解決の困難な問題も少ないのではないか.わが国のみならず社会体制の如何を問わず,進歩する医学の成果を実際の社会に適用する医療に問題を持たない国はほとんど存在していない.これは医療が過去の特権であった時代から,今日生活のもっとも基本的な権利として認められてきたことによるものであろう.
 医学を中心とする関連諸科学のめざましい進歩にかかわらず,その提供の組織,方法についての検討はたんにその不完全さを指摘するにのみ熱心であり,科学的な検討はほとんどなされず,経験による直観が支配していたといえる.この医療提供のしくみにも科学的検討の必要性と可能性のあることは,しかししだいに指摘されはじめている.しばらくのあいだ,この検討が世界的にどのようになされているのか,傾向を探ってみることにしよう.

私的病院からのレポート・25

—岡山・榊原十全病院—名声とどろく心臓病の専門病院—榊原宏院長にきく

著者: 一条勝夫

ページ範囲:P.79 - P.87

 院長の榊原宏氏(写真右)は,心臓外科の権威榊原仟東京女子医大教授の実弟であり,長兄の亨氏とともに‘榊原三兄弟’として,父上の偉功を継がれたことでつとに有名な方である.岡山城と後楽園という岡山でいちばん風光明媚なところに位置するこの病院は,心臓病を総合的に扱うレベルの高い専門病院として,中国から近畿にまで知られているユニークな病院である.昭和7年の開院以来順調な発展をたどってきたが,現在の医療制度と看護婦不足の中で,改めて新しい対処の方策が練られているようであった.
 なお,このインタビューには松木黙雄事務長にも加わっていただいた.

今日の精神医療・14

精神病院の看護の変遷

著者: 浦野シマ ,   木川及栄子 ,   下条律子 ,   栗原福次 ,   金子嗣郎

ページ範囲:P.88 - P.95

向精神薬がなかった時代には精神病院の看護といえば,むしろ事故防止のための監視・拘禁の要素が強かったが,最近ようやく患者の意志の尊重,自分で責任をもたせるやり方に変わりつつある.戦前,戦中,戦後を通じて精神病院の看護の内容はどう変わってきたか.実際に看護の仕事にたずさわってきた各世代の方々に,その体験談をうかがった.

時評

‘技術料重点’という改訂の中味

著者:

ページ範囲:P.96 - P.96

‘焼石に水’の改訂内容
 医療費の改訂は,現在では,病院という高熱重篤の患者に投与する解熱剤的色彩がだんだん濃くなってきているように思われる.それが間に合わなければ死ぬ病院も出かねない状勢の下で,2月1日からやっとその改訂が実施されることになった.しかし,改訂内容が示されたとたんに,病院の間からは‘焼石に水’という声も出ており,実質17.5%引上げという近来にない上げ幅も,今となっては病院の経済的窮状を救うのには必ずしも十分ではないもののようだ.病院の経済的失調状態がいかに深刻であるかをあらためて悟らされたような気がする.
 ここまで事態を放置してきた責任は一体どこにあるのだろうか.端的に言って,その責任の大半は,やはり中医協の医療担当者側委員自身が負うべきものではないかと思う.医療担当者側には,もちろんそれなりの言い分もあろうし,支払者側委員にまったく責任がないとも言えない.しかし中医協がとにかく折衝の場であるかぎりは,そこには自ら折衝のルールがあるはずで,その点,医療担当者側委員の行動はあまりにも一方的で強引にすぎたと言える.そのあげく中医協解体論では,いくらなんでも世間が納得するはずがない.

追悼 橋本寛敏先生

橋本日本病院協会名誉会長の思い出

著者: 神崎三益

ページ範囲:P.98 - P.98

 敬愛する橋本先生のご逝去に遭って,わが国病院界の巨木が音もなく倒れたような感を受けた.
 先生に接するようになって約20年.限りない思い出の中から,とくに印象深いことを語ろう.

橋本寛敏先生を偲ぶ

著者: 吉田幸雄

ページ範囲:P.99 - P.99

 橋本寛敏先生が逝去され,まことに哀悼に堪えない.在りし日の先生はわれわれの心の支えであった.医師には師表であり,病院管理者には指導者であり,看護婦はじめ医療関係者には大いなる慈父であった.1月19日の午後,先生の葬送が厳粛に聖路加病院の礼拝堂で進められているとき,落日に輝くステンド・グラスにようやく照らされた会堂の裡で,壇上に安置された先生の遺影を見つめていた多くの参列者の心の中には,先生の偉大な行蹟を畏敬の念をもって思い起こさざるものはなかった.私もその1人である.今あらためて先生を偲び,この一文を草する.
 私が先生の馨咳に接することができるようになってから,私の4半世紀の人生行路は,先生の光明に導かれたといっても過言でない.先生と今や幽明を境にし,師を失った心切なるものがある.しかし「病院管理大系」を企画し,先生のご指導の下に今や大半を刊行しえたことは,私の望外の幸せであり,この大系こそ心から先生の霊にささげる唯一のものである.

橋本寛敏先生のご逝去を悼む

著者: 日野原重明

ページ範囲:P.100 - P.100

 橋本寛敏院長は,去る1月13日の午前11時52分,家族の方がた,病院の医師・看護スタッフに看とられ,内科病棟No.302で静かに永遠の眠りにつかれました.
 先生は平素,健康には十分配慮されて,規律正しい生活を送られていたのでありますが,戦前,戦後の心身の侵襲にもよく耐えられ,33年間の院長職をみごとにつとめられ,83歳5か月の長寿を全うして昇天されたのであります.

橋本先生と語る—満80歳のお祝いの意をこめて

著者: 橋本寛敏 ,   落合勝一郎 ,   長谷川泉

ページ範囲:P.101 - P.104

この座談会は昭和46年2月1日,東京のホテルオークラにおいて橋本寛敏聖路加国際病院長の満80歳のお祝いの意味をこめて開かれたものです.話は生いたちから医局時代,さらには留学時代に及び,生涯を捧げられた病院管理問題に触れられております.その偉大な足跡を偲ぶ意味で,潤色を加えない生の声を誌上に再現します.

座談会

橋本先生が遺したもの

著者: 橘敏也 ,   落合勝一郎 ,   紀伊国献三 ,   内田卿子 ,   守屋博

ページ範囲:P.105 - P.111

 橋本寛敏先生は,現代日本の病院の土台を築き,そしてそれを発展させた第一の功労者であった.1月13日,私たちは先生を失った.いま一度,ここで先生の遺された偉大な業績をその日常の中からなつかしみ,先生を偲ぶよすがにしたいと思う.

基本情報

病院

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1383

印刷版ISSN 0385-2377

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