文献詳細
病院建築・77
文献概要
沿革
敗戦の傷跡もなまなましい昭和20年9月,しかも戦災を被むった直後の松山市に,市内唯一の公的医療機関として,北持田町に日本医療団「愛媛病院」が開設された.同22年1月に市内三番町6番地に本病院を移転新築し,診療科10科の総合病院として,松山市を中心に中予地区における医療センターとしての役割を果たしてきた.翌23年6月,日本医療団解散に際して全施設を受け継いで,県営に移管のうえ「県立愛媛病院」として発足した.その後数次にわたる施設の改修と医療陣の充実とにより,病床数400床の規模を有するに至っている.
しかし,近年都市地域における疾病の多様性と,それに伴う医療技術のめざましい進歩に対応するには,現状の敷地および規模では限界に達したため,現状の打開にとどまらず,将来予想されるさまざまな事態に対応すべく,現敷地への移転と大規模な拡充が決定された.
敗戦の傷跡もなまなましい昭和20年9月,しかも戦災を被むった直後の松山市に,市内唯一の公的医療機関として,北持田町に日本医療団「愛媛病院」が開設された.同22年1月に市内三番町6番地に本病院を移転新築し,診療科10科の総合病院として,松山市を中心に中予地区における医療センターとしての役割を果たしてきた.翌23年6月,日本医療団解散に際して全施設を受け継いで,県営に移管のうえ「県立愛媛病院」として発足した.その後数次にわたる施設の改修と医療陣の充実とにより,病床数400床の規模を有するに至っている.
しかし,近年都市地域における疾病の多様性と,それに伴う医療技術のめざましい進歩に対応するには,現状の敷地および規模では限界に達したため,現状の打開にとどまらず,将来予想されるさまざまな事態に対応すべく,現敷地への移転と大規模な拡充が決定された.
掲載誌情報