icon fsr

雑誌目次

雑誌文献

病院40巻2号

1981年02月発行

雑誌目次

特集 病院増改築の実例

病院増改築の考え方

著者: 河口豊

ページ範囲:P.110 - P.113

増改築の要請
 増改築の主な原因を挙げると次のようになろう.
 ①医療需要の拡大 ②疾病構造の変化 ③医学の発展と医療技術の進歩 ④医療機器の発達に伴う専用空間と設備(核医学診療やCT診断など) ⑤病院管理学の確立とその普及 ⑥建築的水準及び一般設備の向上

モニュメント「早蕨」の下で—十和田市立中央病院

著者: 末武保政

ページ範囲:P.114 - P.117

 昨年の春は,いつになく桜の開花が遅れて,お陰で病院増改築事業の落成式は満開の桜の下で行われることになった.当院は,市の誇りとする雄大な運動公園を前にした官庁街の美しい松並木に面してい,低い段丘の上にある.その正面玄関前に紅白の幕におおわれた2メートルの彫刻が晴れの除幕を待っている.官庁街の桜の木の下におり立ってみると,まぶしいばかりの五月晴であった.
 はじめて踏む十和田の地に,私が,院長として着任したのは4年前の昭和51年8月のことである.当時,不幸なことに,当院は累積赤字約3億円を抱え,しかもそんな背景下にあって医局が解体,医師は四散,303床の病院に残っていたのは精神科の医師一人だけ,という極限の状況下にあった.

民間病院における増改築—医療法人(財団)柏戸病院

著者: 土橋明次

ページ範囲:P.118 - P.122

 これは,補助金等公的援助のない独立自営の民間病院の当院が,どのような途を歩いて建物等病院の近代化を図ってきたかの報告である.なお当院は,昭和3年個人病院として発足,昭和26年に財団の医療法人となり,増改築終了後の現在の診療科目は内科,外科,許可病床194床である.

病棟改修の苦い経験と省エネルギー対策の一つの試み—関東中央病院

著者: 樫田良精

ページ範囲:P.123 - P.126

 関東中央病院では昭和48年から主力病棟の窓枠及び配管・電気幹線などの建築設備の改修工事が開始され,この工事期間が2年余にわたったので,苦い経験をした.これに引続き冷暖房設備の整備工事,核医学検査棟の増築,消防法による防災設備の改修,電源設備の更新・増強の諸工事が今日まで行われ,更に昭和55年度末までには超音波検査棟の増築が終わる予定になっている.8年余の長期間各種の工事がこま切れに行われたのは,種々の情勢の急激な変化に対応したためでもあるが,年間の設備投資予算の制約に縛られたことのほうが大きい.
 これらの諸工事には省エネルギーと大震災に対する防災をできる限り計ったので,一つの事例としてご参考に供したい.

増改築を経験して感じたこと—医療法人同愛会山崎病院

著者: 山崎則夫

ページ範囲:P.126 - P.126

 当院のある鴻巣市は戦災を受けなかった町で,戦前からの木造建築物が随所に残っているが,昭和18年10月,木造の診療所から出発し,その後医療の進歩に伴って増改築を繰り返した当院もまだ老朽化した木造部分に病棟があった.そこで,その木造部分が火災に対し危険であること,また継ぎ足しの連続で増築されており,医療の進歩及び近代的管理運営に対応できなくなったこと,そして駐車スペースが不足してきたことを理由に増改築に踏み切ったので,その経験の中で感じたことをまとめてみよう.なお,現在,当院は102床,内科・外科・整形外科を診療科としている.
 まず増改築計画から設計までの苦労としては,①病院全体の管理運営システムや増改築計画という観念的なものを,実際に働く場として認識し,建物として具体化していくことの難しさ,②公共性のある建物とはいえ近隣問題があり,不在地主との交渉で6か月もの時間と手間,建設費の2〜3%に当たる費用を要したことが挙げられる.

狭いスペースにいかに高機能を盛り込むか—三井記念病院

著者: 百瀬達也

ページ範囲:P.127 - P.130

 三井記念病院の増築は,今から10年前に建設された第1期新築工事に続く第2期新築工事として,昭和53年7月着工し,昭和55年4月に完成したものである.
 建設地は,明治39年に三井慈善病院として発足したこの病院の発祥の地である.すなわち東京の千代田区神田和泉町に,昭和45年第1期工事で地上13階,地下1階,延べ21,284m2の2棟構成パビリオンタイプの総合病院を建設し,当時は東洋一の高層病院建築と評されたものである.

結核病院から一般病院へ—中国中央病院

著者: 五味通雄

ページ範囲:P.131 - P.133

増改築の理由及び目的■
 公立学校共済組合の病院は,もともと戦後の教職員にも多かった結核患者の長期入院の施設として,昭和30年当初から全国ブロック別に八つの病院が順次建設された.その一つとして,当院は昭和36年7月に開院した病院である.開院時の規模は病床数200床のうち8割の160床が結核,残り40床が一般病床.診療科目は,内科,外科,耳鼻咽喉科,放射線科,歯科の計5科であった.
 また,敷地建物については,平地から約10mの小高い丘の上に約3万m2の敷地面積を有し,建物は地下1階,地上3階で延床面積は約8,000m2であった.

工事開始から完了まで11年—小松島赤十字病院

著者: 大倉市三

ページ範囲:P.134 - P.136

改築の経過■
 当院は昭和25年4月当時の小松島町立(現小松島市)診療所を日赤に移管を受け現在地に開設された.昨年4月をもって開設30周年となり,戦後新設された数少ない赤十字病院の一つである.開設時は診療科5科,病床数100床程度であったが,患者数の増加に伴い施設もこれに呼応して順次増築を重ねてきた.
 昭和42年には診療科13科,病床数416床,病院建物延面積7,061m2の総合病院へと発展した.しかし建物は,木造モルタル造スレート葺であり建物の下部構造が腐蝕老朽著しく,これの保全,管理に毎年多額の経費を要し,また内部構造的にも近代的治療機械器具等を整備するには耐用度の点から不可能に近い状態であった.徳島県は,昭和39年に新産業都市に指定され当院の診療圏である小松島,阿南市には相当の企業が進出し,人口が増加した.これに伴い必然的に患者数の増加が見込まれる一方,既存の設備では医療の高度化,近代化に立遅れ地域中核病院としての機能が果たせなくなると考え,施設の全面改築に取り組んだ.昭和43年12月に第1期,48年11月に第2期,52年3月に看護専門学校,54年12月に第3期工事を完了した.これによって病院ならびに関連施設の改築不燃化が計られた.この間約11年を要して施設の増改築が完了したことになる.昭和55年12月現在,病院の概要は表1のとおりである.

斜面を削って平坦化から—鹿児島共済会南風病院

著者: 桜井之一

ページ範囲:P.138 - P.140

 当院は昭和29年開設して以来毎年発展し,鹿児島県下でも医療技術の優れた病院の一つとして,市内はもとより県内外の広域的な医療機関として地域医療に貢献している.一般に病院建設の多くがそうであるように当院も開設後,周囲人口の増加,医療技術の進歩等により増築,改築また模様替え等を繰り返して面積を拡大してきた.これらの建物が敷地全体に拡がり(図1),建物の老朽化も限度に達した.殊に防災上の危険を思い,また病院機能上著しく支障をきたす状態になっていた.
 このような状況を打開して病院本来の機能を回復すべく鉄筋にして,改築を行うために今回の計画を決定したのである.設計は大阪市の昭和設計に依頼した.最も困難な点は入院外来共に運営しながらの工事であることで,設計者といろいろ談合した.なお敷地が斜面であり一般道路から約16メートルの台地である.その余分の土地を削り取らねばならない.これに最低2か月を要するであろうという結論に達した.

地域の専門病院の増改築—園田病院

著者: 牧角仙烝 ,   園田俊作

ページ範囲:P.141 - P.142

 枕崎市は九州の最南端に位置しており,昭和24年9月1日市制施行以来人口はさして増減なく現在約3万,周辺市町村を加えて診療圏内,約10万と思われる.
 当院は昭和4年2月11日園田眼科医院として開院.眼科専門医院として,昭和7年増改築し,戦後昭和26年4月1日医療法人明星会園田病院として認可を受け,内科を併設し,結核病棟40床が増設された.昭和38年外科部門の外来及び病棟を増改築,昭和41年胃腸科新設,増改築,その後小規模の増改築を時折行い,昭和47年人工透析部門設置,昭和49年11月1日厚生大臣より更生医療機関指定(腎臓疾患)され,昭和52年外科,手術施設,回復室,病棟の増改築を行って来た.同時に結核病棟は閉鎖した.

グラフ

ニュータウンの包括医療を推進—財団法人千里保健医療センター新千里病院

ページ範囲:P.101 - P.106

 昭和30年代,都市の人口集中緩和を目的に大都市周辺に作られたベッドタウンとして有名な千里ニュータウンは,大阪府によって作られた人口15万,吹田・豊中両市にまたがる住宅都市である.ニュータウン内は12の住区に分かれ,各住区ごとに教育施設,民生施設,公園等が整備されているが,中でも医療施設については,12住区に69の專門診療所と財団法人千里保健医療センター新千里病院を配置し,診療所群と病院が有機的連携を図れるオープンシステム医療体制を敷いている.
 この財団法人千里保健医療センターは大阪府と大阪府三師会(医師会,歯科医師会,薬剤師会)の設立によるもので,42年その傘下に病院を開設,54年には,地域住民の健康管理体制の充実を目的に,病院に隣接して千里保健医療会館を建設した.この館内には,新千里病院外来部門のほかに,南千里調剤薬局,府立千里救命救急センター,府立千里看護学院,吹田保健所支所,市立休日急病診療所等が設けられている.新千里病院とこの多くの保健・医療関係施設を有する会館は一体となって,ニュータウンのメディカルセンターとして機能することになり,ここにユニークな地域の包括医療体制が確立した.

甲状腺専門医として学問と社会の融合を実践した 伊藤病院院長 伊藤國彦氏

著者: 飯野史郎

ページ範囲:P.108 - P.108

 東京原宿の表参道にある甲状腺専門の伊藤病院の院長さんである.1日の外来患者数平均450人,年間新患数7,000人,年間手術数1,300件といえば,その繁栄ぶりがお分かりになると思う.この病院には宣伝用の看板は一枚もない.その必要もないほど有名である.この病院の基礎は先代伊藤歩博士によって築かれたが,昭和34年女婿である國彦先生が先代の遺志を継承された.爾来,苦節20年,今日の伊藤病院に発展させた氏の功績は大きい.自らが甲状腺専門医に徹するばかりでなく,看護婦,栄養士から調理士,事務員に至るまで『甲状腺の専門家たれ』をモットーにしておられる.
 氏の性格は控え目でテレ屋,シンは強いが涙もろく,長者番付の1位,2位を争う人とは思えないほど質実であり,患者思いである.仕事をするに当たっては冷静にして沈着,その手術は巧緻にして迅速,手術例は2万を超える.学問に対する情熱は大学(昭和23年慶応義塾大学医学部卒,33年まで同大外科島田信勝教授に師事)を離れてからも衰えず毎年学会報告を怠ったことがない.進取の気性に富み,基礎代謝測定器第一号機,PBI測定装置,放射性ヨード治療などをいち早く導入して,学問的レベルを常に大学並に保っておられるのは立派である.

トピックス

「病院管理大系」全6巻7冊の完成

著者: 長谷川泉

ページ範囲:P.113 - P.113

 橋本寛敏・吉田幸雄両先生の監修になる「病院管理大系」全6巻7冊が完成をみたので,その出版記念会が昨年12月20日,パレスホテルで開催された.
 元聖路加国際病院長橋本寛敏先生は,この完成を見届けることなく他界されたが,元病院管理研究所長吉田幸雄先生は残された監修者としての大任を果たされ,第6巻の「建築・設備・医療器械I」の上梓によって,病院管理の近代化を先進諸国にならってかけ足で戦後の軌跡として定着させた偉業を完結させた.全6巻7冊の体系は外国にもその比をみない道標を刻んだものである.

病院精神医療の展開

開放病棟運営管理の課題—駒ケ根病院全病棟開放10年の経験

著者: 鴇田元夫

ページ範囲:P.143 - P.148

 駒ケ根病院の病棟開放化については学会誌1,2,3,5),専門雑誌4,6)に発表されているが,運営管理の立場から書くのは初めてである.昨年7月25日〜26日の2日間で行われた「精神医療夏季大学駒ケ根’80」,の中で述べた駒ケ根病院開放病棟10年の歩み「管理職の立場から」をレポートしているので,これを骨子として述べる.標題に入る前にまず,病院の概要と沿革(表1)を紹介する.
 当院は単科の県立精神病院として,昭和31年に設立され,定床310床(運用病床244床),敷地面積約1万坪,職員数135名,5病棟編成で,1病棟の看護婦17名,看護婦総定員93名,現在数89名(うち看護士8名),医師6名,PSW2名(うち1名非常勤),CP1名,OT2名である.

--------------------

機器短報

ページ範囲:P.149 - P.149

マツダカルテックス4500型及び新型コントローラシステム
 マツダカルテックス(電話03-722-3001)はカルテ,カード,書類のランダム自動抽出装置「マツダカルテックス4500型」及びマイクロプロセッサー内蔵の「コントローラ(CRC-15S型)」を発売した.
 4500型の特徴は,①大量のフォルダーが収納できる,②操作が簡単,③6桁までのコード番号が使える,④A4判までのカルテやカード,書類が収納でき,X線フィルムも同時にファイルできる,⑤ワンボタン操作で同時に多数のカルテやカード,書類が抽出できる,⑥多数のラックを増設できる,など.

講座 解説・新しい医療機器・8

超音波診断装置

著者: 加曾利末喜

ページ範囲:P.150 - P.151

超音波の歴史と超音波診断装置の概要
 我が国において超音波が実際に利用され始めたのは昭和24年(1949)で,超音波が診断に利用されたのは昭和29年(1954)頃のことで,順天堂大学の田中,和賀井らによって脳診断に用いられたのが最初であろう.その後超音波診断装置は急速の発展を遂げ,今日のような時代を迎えたのである.
 パルス法で用いられる装置の原理図を図1に示す.(a)高周波パルス発振器:略して発振器または送信器ともいい,振動子(電気振動を超音波振動に変換)に加えるべき高周波電圧を発生する電気回路である.(b)探触子:振動子をケースに取付けたもので,一般に送受共用として使用する.(c)受信器:組織などから反射して振動子によって受信され電気信号に変換された微弱な受信電圧を増幅拡大する回路である.(d)ブラウン管指示器:螢光面上に緑色などの輝点が現われる.(i)一定の輝度の光点が,時間軸方向(水平方向)に移動しながら,エコーの受かった瞬間に振幅軸方向(たて方向)に振れるようにした指示方法をAモード表示といい,(ii)エコーの受かった瞬間だけ光点が光るようにした表示方法を輝度変調といい,この方法で表示される.(e)横軸掃引器(スイープゼネレータ):時間軸電圧発生器ともいい,ブラウン管の光点が螢光面を一定速度で水平方向に移動するための電圧を発生させる.

医療の周辺 社会学(家族関係論)—老人と家族・4

家族周期研究と老年期

著者: 奥山正司

ページ範囲:P.152 - P.153

 ここでの課題は,家族周期(fami-ly life cycle)とはどのようなものかを概説し,その主な研究史を跡づけることにより,老齢期の特徴を若干明らかにしようとするものである.

病院職員のための医学知識

核医学の進歩

著者: 飯尾正宏

ページ範囲:P.154 - P.155

核医学(nuclear medicine)とはどんな学問でしょうか
 今でこそ,「核医学」の名前は定着し,日本医学会の分科会にもなっていますが,20年前この専門を対象とする学会が誕生したころ,事務局をあずかっていた私たちは,細胞"核"の研究グループと誤解されて申込を受けるなど,いろいろと当惑したことが多かったものです.米国でも,頭の"n"を反対に"u"にして,unclear medicine (分からない医学)などという冗句が流行したものです.閑話休題.核医学とは,原子核物理学の医学利用であることは,現在広く知られています.1895年のX線の発見が,放射線医学を生んだように,核医学の起源は,1900年に発見されたγ線に始まっています.仁科芳雄博士らにより,世界でも早くから原子核物理学の研究が始められた日本は,戦後の一時の中断はあったにせよ,核医学の先進国の一つであり,質的にも量的にも,米国に次いで,世界第2の位置を占めています,現在600以上の病院が核医学施設を有しており,会員も2500名を数えます.

病院管理の工夫

節電と節水の工夫

著者: 辺見九十九

ページ範囲:P.156 - P.157

節電の工夫
 当院の契約電力は800kwでその電力負荷系統は,一般動力用,冷房動力用,レントゲン用コンデンサなど5系統に大別される.
 昭和49〜54年までの年間電力使用量は図1のとおりである.49年から52年までは5.8%の伸び率で,53年は52年に比べ9.8%も伸びている.その第一の理由は,夏が暑かったことと電源不足のためのトランスの増設であるが,電力使用量の増加傾向は,医療機器の増加と機器の大型化,精密化によるものである.

放射線科における小さな工夫—聖路加国際病院

著者: 大内周信

ページ範囲:P.158 - P.159

 古い話しで申し分けありませんが,今から30年ほど前,聖路加国際病院がアメリカ軍に接収されアメリカ陸軍病院として機能していた時のことです.
 院内のいくつかのコーナーに,「提案箱」というものが設置されておりました.規定の用紙と筆記用具がそえられていて,だれでも自由に必要事項を所定の用紙に記入して気軽に投函できるようになっていました.アメリカ人でも,日本人でも,英文,日本文どちらでもよいのですが,用紙の最後には必ず提案者の責任を明確にするために所属と氏名を記入することが義務付けられていました.

病歴管理についての小さな工夫

著者: 三浦葉子

ページ範囲:P.160 - P.161

 病歴は利用されてこそ,はじめて価値があるものと言われるので,「利用のための中央管理である」ことを目標に,関係職員の理解と協力を求めながら私たちは,いろいろな試みをして参りました.そのいくつかは今日,定着し.ルールの中で円滑に運用されております.小さなことですが,いくつかを紹介させていただきます.

統計のページ

医師と医療従事者の所得・6—3.開業医の所得

著者: 二木立

ページ範囲:P.162 - P.163

開業医(診療所開設医)の「平均」所得(承前)
2)中医協「医療経済実態調査」
 中医協は,病院,一般診療所,歯科診療所における医業経営の実態を把握し,社会保険診療報酬の適正化を図るための基礎資料とすることを目的として,昭和42年11月,45年11月及び51年5月の3回「医療経済実態調査」を実施している.しかし,45年11月調査は未公開であり,51年5月調査も,4年後の55年4月になってようやく発表されている.
 51年11月調査による,一般診療所当たり収支額(やはり「平均」値)を表22に示す.

新 病院建築・38

藤枝市立志太総合病院の設計

著者: 宝田昌秀

ページ範囲:P.165 - P.171

 瀬戸川に,大井川のつくる大デルタ緑なすなかにあゝ志太病院富める貧しきみな人を守らなんすこやかにあゝあゝ志太病院(志太総合病院歌)作詞二階堂惣四郎に示されているように藤枝市は,東海道大井川の少し東で静岡駅より3つ目にあたり,大井川と瀬戸川によって作られた扇状地のちょうど扇の要の位置を占め,この地方の文化,物資の中心地となっているといえる.
 藤枝市立志太総合病院は,藤枝市の他,大井川町,岡部町の人口115,260人(昭和52年,企画当時)を対象とした市唯一の公立病院であるが,その沿革は昭和25年,当地の志太郡の名称を冠した共立志太病院として開院し,以来30年間地域住民の疾病予防と健康保持の役割を果たしてきている.

海外の医療

40人の見たUCLA Medical Center (5)—虎の門病院のUCLA見学プロジェクト

著者: 加野弘道 ,   笹尾茂代

ページ範囲:P.172 - P.175

UCLA見学
病院薬局にみる"第三の波"
 今回のUCLA研修に当たって,薬剤部には院長より一つの課題が与えられていた.それは,「新虎の門病院では,病棟での薬剤業務は薬剤師にやってもらうように考えている.そこで,UCLAで実施している病棟薬局をよく研究してくること」であった.
 病棟薬局は,臨床薬剤師制度とともに,米国で始まった病院薬剤師の新しいあり方で,既に我が国にも紹介され,病院薬剤師の間では盛んに意見が交わされている.しかし,紹介記事や人々の意見だけでは納得しにくい部分が残っていた.そこで今回のUCLA出張命令は,病棟薬局や臨床薬剤師制度の実状を知る上で,願ってもない機会であった.

リハビリテーション・その現状

京都府立洛東病院リハビリテーション科の運営

著者: 佐藤能史 ,   原島裕 ,   小谷啓一 ,   西沢明彦 ,   森雅彦

ページ範囲:P.176 - P.179

 京都府立洛東病院は,京都市内の繁華街に近く位置する.祇園の東側を南北に走る東大路通りに面し,八坂神社と清水寺へ通じる五条坂の間にあり,朝夕寺々の鐘が病院の中へ静かに響いてくるのが聞かれる.
 当院の前身は古く,現在の位置に移ったのは明治43年であり,当時は京都府立八坂病院と称した.昭和30年,現在の名称に変わり,昭和48年8月に成人及び老人を対象とした脳卒中,循環器系専門病院として再発足した.このとき設備も人員も改められ,理学診療科も独立した診療科として病院の新しい内容を担うために誕生した.したがって理学診療科は7年半を経過したことになる.この間,脳卒中を中心とした患者を対象として,京都市内のみならず府下におけるリハビリテーションの中心的存在として診療業務を行ってきた.しかし,後述するように,規模においても,対象患者の疾患別からみても,本来リハビリテーションの第一線病院のはずであり,職員もこの第一線で患者と接していきたいという意欲をもっている.しかし常に今日までセンター的性格も果たし,数多い実習生を府下の病院より受け入れ,講演,講義にも積極的に出向くよう努めてきた.このための苦しみも喜びも,いわば揺藍期にあるもののそれであった.この状態はしばらくは続きそうである.

我が院内報

財団法人三友堂病院「はつあい」

著者: 加藤直一

ページ範囲:P.179 - P.179

 52年に病棟,管理棟を新築し,現在242床の一般病床と15床の血液透析室を有する私的病院で,今年で創立70周年となる.
 当院は昔から家族的な雰囲気があり,200名近くの職員を擁する現在でもそれが受け継がれ,業務においても良い面が引き出されている.その反面,問題提起があまりなく「よい子」「かしこい子」が多いのも否定できない.

民間病院の経営と管理

民間病院の健全経営には人件費率は何パーセントが適当か

著者: 酒泉春雄

ページ範囲:P.180 - P.181

人件費率とは
人件費率=人件費/医業収益×100人件費俸給賞与退職金法定福利費医業収益入院収入外来収入その他の医療収入
 この比率は人件費の医業収益に対する割合を表したもので,病院の経営分析の諸比率のうちで最もよく知られているものである.

事務長訪問

長野県厚生連佐久総合病院 飯島聖人事務長

著者: 本誌編集室

ページ範囲:P.182 - P.182

「事務職員は,まず患者さんに親切にすることが大切です.特に農村地域の患者さんは,医者と心やすく話合うことがうまくありません.その点を配慮して,受付けでは患者さんたちとの対話を第一にしています.また職員のほとんどが地元出身ですから,患者さんとは顔見知りですし,私なども,患者さんによく紹介を頼まれます.」
 厚生連佐久総合病院事務長飯島さんは事務系職員の原則として,患者と医師との橋渡しの役割を強調される.とかく,事務的に業務を処理しがちであるが,人間同士の触れ合いが大切であるということであろう.

基本情報

病院

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1383

印刷版ISSN 0385-2377

雑誌購入ページに移動

バックナンバー

icon up
あなたは医療従事者ですか?