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雑誌目次

雑誌文献

病院43巻2号

1984年02月発行

雑誌目次

特集 病院トップマネージメントを考える

現代管理者の条件

著者: 奥田健二

ページ範囲:P.109 - P.113

古い時代の管理者
 管理者に求められる条件,能力要件は,時代の移り変わりとともに,大きく変化してきた.例えば,昭和23〜24年前後から始まった日本経済の再建の時代において,多くの管理技法が,主としてアメリカから導入されたが,この時代の理想とされた管理者像とは,「強力な力をもった管理者」というイメージだった.それはアメリカの社会における管理思想を,そのままに反映したものであったと言ってよい.
 アメリカにおける管理の思想が最も典型的に表現されている例は,F.W.テイラーが体系化した「科学的管理法」である.テイラーは米国の鉄鋼業に長年勤務した機械技師であり,また経営コンサルタントとしても名をあげたが,このような彼自身の体験に基づいて体系化したものが,いわゆる科学的管理法だったのである.

病院管理とは,病院の管理者とは何か

著者: 砂原茂一

ページ範囲:P.114 - P.118

出会い
 とにかく院長稼業を30年余りも続けていたわけですから,管理者のありようについての編集子の設問にまともに答えられないのはお恥ずかしい話です.病院管理学なるものをまじめに勉強をしないで行き当たりばったり,全くのその日暮しで今日に至ったことを今更後悔してもはじまりません.
 もっとも"病院管理"という言葉との出会いは割合早いほうで,戦前,30歳を超えたばかりでハルピンの病院の院長を押しつけられ,医者の平均的常識だけを頼りに,約束の1年間をどうにか勤め上げ,東京に帰って来たのは昭和19年の初夏でした.ぶらぶらと本郷の通りを歩いていて,ある古本屋で"病院管理"(マッキーカン)という本を見つけました.まもなく清瀬村にある病院へ赴任することになっていましたから,今度はいくらか筋の通った病院管理をしなくてはならないという殊勝な気持ちもなくはなかったのでしょうが,それよりも戦時下,外国語の本に飢えていたというのが本音です.

私の院長体験を振り返って

著者: 中島達雄 ,   山本敬 ,   諸橋芳夫 ,   藤原拓士 ,   牧安孝 ,   今井澄 ,   伊藤研 ,   下司孝麿

ページ範囲:P.119 - P.130

地域医療への思いが支え
院長就任とこれまでの経緯
 私が院長(市立水沢病院・一般180床,結核26床)に就任したのは,昭和37年7月,37歳の時であった.内科長,副院長から昇格し,地元医師会の理事,福祉事務所嘱託医,岩手県国保審査会委員等の経験があるとはいえ,人事管理や財政の知識はなく,自分は臨床医として育ってきたため,大衆を相手にしたり,管理的な政治的な仕事は不向きであると思っていたので院長就任に抵抗した記憶がある.しかし,事務長に事業・財政・市政のベテランをつけるという説得と,大学医局からの勧奨があり,引き受けざるを得ない状態であった.医療を通じて職員や住民と接しているうちに,いつの間にか院長に推挙されていたというのが実感である.
 院長就任に当たって,ひそかに心に決めていたことは ①自分なりに精一杯やること ②医局員はじめ対人関係には誠意をつくす ③できるだけ個人的欲を抑えるということであった.

私の事務長体験を振り返って

著者: 土橋明次 ,   宮西清睦 ,   村沢友康

ページ範囲:P.131 - P.135

私が事務長になったころ
1.組織なき社会
 私が恩義ある先輩のご推挙で当院の事務長となったのは,昭和37年夏.この病院も,千葉市も私には全く未知のところであった.
 当院は,昭和3年,初代院長の建築になり,その木造平屋建,延面積1,900m2の病院は,既に30数年を経過して老朽となっていることと併せて,都市計画による前面バス通りの拡幅の線が病院玄関にかかることにもなっていて,病院の全面改築は急を要することとなっていた.

私の総婦長体験を振り返って

著者: 寺島敏子 ,   木村千枝子 ,   細井恵美子 ,   前田マスヨ

ページ範囲:P.136 - P.141

私の行ってきた看護管理
看護部長就任の経緯
 看護婦,専任教師,教務主任と学校勤務15年目の昭和40年に現在の看護部長に任命された.生意気のようであるが,正直言って私は看護部長という職は余り好まず,この職を受けるについては,少々迷った記憶がある.しかし現在の名誉院長(当時院長)の佐藤元一郎先生に説得され,少なくとも3年はやらなければと心に決め引受けた.しかし今振り返ってみると後わずかで看護部長になって20年の歳月を迎えようとしている.当時は若さのためか,世情に疎かったためか,就任の挨拶の際「日本一の病院に,そして日本一の看護を実現しよう」と看護職員に誓ったことを昨日のように思い出す.世はまさに高度成長時代,また全国的に嵐のごとく吹き荒れた病院ストもようやく少し落ち着いたころであったが,今振り返り前近代的な医療体制の中でしかるべくして起きたストであったかもしれないとも思う.

グラフ

急増する団地群に対応する病院—恩賜財団済生会横浜市南部病院

ページ範囲:P.101 - P.106

 咋年6月10日にオープンした済生会横浜市南部病院は東京駅から京浜東北線で約1時間,国電根岸線港南台駅から徒歩わずか2分のところに褐色タイル貼り8階建ての瀟酒な姿を見せている.周辺は四方とも広大な団地群で囲まれた病院である.
 玄関ホールを入ると床は絨毬敷,フロントは大理石で広々とした待合ホールがあり,病院臭を感じさせない.

第34回日本病院学会会長 高知県立中央病院院長 近藤慶二氏

著者: 岡島邦雄

ページ範囲:P.108 - P.108

 昭和23年,岡山医科大学(現岡山大学医学部)を卒業された近藤先生はインターンの後,岡山大学第一外科の陣内傳之助先生の門下に入りました.岡大における臨床,研究生活の後,昭和33年高知県立中央病院に赴任され,外科部長,副院長を経て昭和54年院長に就任されたのでありますが,この間,日本胃集団検診学会,日本癌治療学会,日本臨床外科医学会,日本外科学会などの評議員として学会活動をされるかたわら,高知医科大学講師として医学教育にも携わっておられます.また,高知県医師会理事,全国自治体病院協議会常任理事,日本病院会常任理事として医療行政の分野にまで八面六臂の働きをされている姿は敬服のほかはありません.
 近藤先生は昔から,一面ではもの静かな方でしたが,他面では意志の強い人でもあります.その表れが高知県立中央病院に赴任され,実地臨床に当たられながら日常直面する胃癌の予後向上には早期発見が第一であるとのお考えから,その第一歩として胃の集団検診の体制作りに手をつけられ,現在では広く普及された状態にまでもってゆかれたことであります.胃集検の啓蒙に対する先生の情熱はもの静かなご性格のなかに秘められたものであるだけに一層我々に強く感じられます.更にこれらの成果は学会及び論文に発表され,その数は枚挙にいとまがないほどであり,そのご努力には全く感服する次第であります.

病院精神医療の展開

総合病院精神科の医療と医療経済

著者: 佐々木時雄

ページ範囲:P.142 - P.144

■総合病院精神科の実情
 総合病院において,現行の精神衛生法に則しながら,しかも限られた制約のもとで精神医療を行うことは誠に根気の要ることである.というのは総合病院に併設されている精神神経科病棟は,精神神経科のみではなく他科と同居している,いわば混合病棟がその多くを占めているのが実情だからである.単科病棟は大学附属病院に限られているのが現状ではなかろうか.こうした事情から混合病棟に重症患者を入院させることは不可能に近く,たとえ入院することができたとしてもその患者は緊急を要し,かつ短期間の間に転院の方法を講じなければならない症状をもっている人に限られてくる.したがって総合病院における精神神経科病棟の入院患者の構成は軽症者に限られてくることになる.
 ここで軽症者というのが問題になってくるのである.軽症者というと一般的な視点からするとその対応も比較的円滑に行われると想像されがちであるが実情はそうはいかない.最近,諸家の間でも話題にのぼるのがこの軽症者なのである.精神分裂病の神経症化,うつ病の神経症化,精神病患者の症状の軽症化などということが言われてから久しいが,その患者への対応となると従来の治療技法では効果が少なく,また古典的な精神医学の知識のみでは患者を理解できなくなっているのが実情である.

病院と地域活動

玉川病院リハビリテーション科の活動

著者: 長谷川幹 ,   田村幸子 ,   中村恵子 ,   福原征子 ,   小山ぎん ,   皆川晃慶

ページ範囲:P.145 - P.148

 東京で発病した脳卒中患者は,近医に入院し,内科的治療を受ける.そして完治しないで後遺症が残った障害者の大多数は,「内科的治療は終わったから,あとはリハビリテーション専門病院のほうが良いでしょう」の一言で,居住地域から遠く離れた病院への転院を余儀なくされている.このとき,障害者自身の意志というより(失語症で意志を表明できない場合もあるが),家族の意志で,話が進んでいく傾向があり,本人にしてみれば勝手に転院させられたという印象はぬぐいきれない.そして遠隔地の病院へ入院すると,家族がなかなか面会に来れなくて,孤立化することが多く,やっと来たとしても,週末のため主治医などに会えず,現在の状態と今後の方針についての話し合いができない.そのため本人と家族との調整が困難となり,更に退院後の病院と障害者及び家族のフォローアップも距離的な問題で困難となっているのが実情であろう.
 更に,都内にはリハビリテーション病院が少ない上に,入院基準に様々な制限を設けていることが多く,脳卒中障害者への対応を狭めていることも,遠隔地病院への転院を余儀なくさせる状況に追い込む要因である.

厚生省から'84

国立医療機関のこれからのあり方について

著者: 南澤孝夫

ページ範囲:P.149 - P.149

20,30,40,50年代の医療
 昭和58年も過ぎ去り,50年代最後の1年を迎えたわけであるが,この1年は医療行政にとっても大きな試練の年になりそうである.これまでの我が国における医療行政の流れをみると,おおよそ10年間をひとつの周期として移り変わってきたようにみえる.すなわち昭和20年代は終戦とともに猛威をふるった伝染病や栄養失調対策に明け暮れ,30年代に入って結核対策や医療保険制度の整備が大きな成果をあげて,新しい医療行政の時代を迎える礎が固められてきたのである.昭和40年代は母子保健対策や脳卒中対策にみられるように予防や早期発見,保健指導の考え方が飛躍的に普及するとともに,老人医療費の公費負担制度に代表される無料化の考え方が一気に拡がった時期でもある.
 しかし48年11月のオイルショックを契機として,50年代は無料化の見直しが大きなテーマとして論議を呼び,58年2月には老人医療費の自己負担制度が復活するに至ったのである.

講座 「修正病院会計準則」について・11

貸借対照表原則

著者: 針谷達志

ページ範囲:P.150 - P.151

主な修正点
 今回から貸借対照表原則について検討してみよう.貸借対照表原則も,損益計算書原則と同様に大幅に修正されている.修正原則における貸借対照表原則の構成は次のとおりである.
 貸借対照表の本質(第16条) 貸借対照表の区分(第17条) 貸借対照表の配列(第18条) 貸借対照表科目の分類(第19条) 資産の貸借対照表価額(第20条)

病院職員の基礎知識 院内各部門

看護部門

著者: 内田卿子

ページ範囲:P.152 - P.152

看護の歴史
 ヨーロッパでの看護は,キリスト教の布教により,尼僧や女執事(deaconess)が,貧困者や病人,老人の世話をしたころから形づくられてきた.19世紀に入り,イギリスのナイチンゲールにより科学的な知識に裏付けられた技術を用いてケアを行う近代看護へと発展した.
 また,日本においても仏教の影響を受け,光明皇后(701年〜760年)の時代に,施華院,悲田院を設置し,らい病者の世話を行ったと伝えられている.明治以後,アメリカ人による近代看護の導入が行われ,看護教育が開始された.しかしもっとも大きく発展したのは第二次世界大戦後である.昭和23年,保助看法が制定され,国家試験を受け,免許登録を行い,看護婦,保健婦,助産婦として働く身分が確立したのである.昭和26年,准看護婦の制度も設けられ,看護教育も整備されてきた.そして看護の水準向上と,看護のリーダーの育成の必要性が言われ,3年制短期大学,大学の看護学部や,大学院に至るまで,看護教育課程は発展をして今日に至っている.

防災の知識

防災マニュアル(2)—避難方法

著者: 石山稔

ページ範囲:P.153 - P.153

 病院における防災問題で特に配慮されなければならないのは,患者さんの避難方法であろう.ニューヨーク聖ルカ病院の防災マニュアルでは避難方法について次のように具体的な説明をしている.

ケーススタディ・人の管理

気分屋で自己中心的な婦長

ページ範囲:P.154 - P.155

〔事例〕
 私たちの職場のA婦長は,勤続15年くらいで若くして婦長になった.いわばエリートコースに乗っている人と見られている.独身で,とても気分屋である.
 病棟内外の何事についても知っていなければ気が済まない性格で何か決めることがあっても,自分が知らないと「私は聞いていませんでしたからあなたたちでどうぞ」と言い,それではやっても良いと思い,話し合いの末,決めて実行すれば,「どうして実行する前に言わないの.私が若いからバカにしているのでしょう」と.言うことがその日により一転二転して,いったいどうしたら良いのかスタッフは迷ってしまう.スタッフに対する叱り方も問題で,相手の成長を願って言うのではなく,徹底的にやっつけてやろう式の言い方をされ,反省しようという気持ちなど持てなくなる.

定点観測

—長崎から—患者のための本当の病院を

著者: 岩崎栄

ページ範囲:P.156 - P.157

スローガンだおれ
 11月の終わりの「今日の問題」(朝日新聞)で病院の暮らしという何げないテーマが取り上げられていた.
 毎日を病院で過ごしている病院勤務者にとっては耳の痛い話であるし,その内容もややもすれば看過しがちのことばかりであることに気付かされた.

インタビュー

古巣の都立松沢病院に帰任した加藤伸勝院長に聞く

著者: 本誌編集室

ページ範囲:P.158 - P.159

 母校京都府立医大の教授を定年前に退官し,昨年9月,12年ぶりに古巣の松沢病院に院長として帰任された先生に,ご自身と松沢病院とのかかわりを中心に,関連する諸問題について語っていただいた.

新 病院建築・74

山形県金山町立病院の設計

著者: 林寛治

ページ範囲:P.161 - P.168

病院の沿革
 金山町は山形県東北部の山林に囲まれた人口8,000余の豪雪地である.
 金山町立病院は昭和26年,金山町国民健康保険の直営病院として一般病床20床で発足した.開設当時は結核患者が極めて多く,健康者に対する感染の危険性が大であった.昭和32年一般病床15床,結核病床30床計45床として結核患者撲滅を期した診療に入った.この結果,昭和36年には結核患者が急減した.このように結核病のみならず,この地域特有の高血圧,がん等の成人病その他の疾病治療に果たした役割は大きいものがあるが,時代の推移とともに周辺市町村の自治体病院の建設が進み,来院患者数が減少し,財政は悪化した.昭和38年には基準給食,基準寝具の認可を受け,39年には病院を企業会計方式に切り替え財政運営の合理化を推進した.

シリーズ・病院経営

アルメイダ病院におけるTQC活動の実際と成果

著者: 吉川暉

ページ範囲:P.169 - P.174

 「企業は人なり」ということがよく言われる.病院はここで使われている企業とは本質的に異なる部分を多く含んではいるが,企業的側面を大きく持っていることも事実であろう.
 経済がつまってきて,資源の有限性が明確になるにつれて「効率化」という要求が強くなってくるのは当然であり,これをよくする組織へ向けての努力が社会的に要請される.

民間病院を見る,聞く,語る・17

民間の活力を生かした積極的運営管理—医療法人仁愛会海老名総合病院

著者: 南嘉輝 ,   田中昭太郎 ,   一条勝夫

ページ範囲:P.175 - P.180

 2,3年前,どしゃぶりの雨の中を初めて東埼玉病院に訪れてびっくりしたのは,雨にもかかわらず待合に座りきれないほどの大量の患者さんたちであった.この病院は活気があるなと思った.そして,その時,理事長から,神奈川県海老名市に400床の病院を作る計画を聞いた.56年の医療費改定の直後で,どこも設備投資に慎重になっていた当時だけに,その話は新鮮だった.その病院が昨年9月オープン,公的病院に劣らない高度の装備をしながら,どのように採算をとっていくか,運営管理の実際を伺ってみた.

基本情報

病院

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1383

印刷版ISSN 0385-2377

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