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雑誌目次

雑誌文献

病院45巻7号

1986年07月発行

雑誌目次

特集 勤務医の未来

勤務医の未来

著者: 多田羅浩三

ページ範囲:P.554 - P.557

 昭和30年には,わが国の医療施設の開設者は約4万4,600人,勤務医は約4万1,500人であったが,昭和57年には,それぞれ6万5,600人,9万4,800人になっている.この約30年間に勤務医は倍増していることになる.
 一方,病床数の推移では,昭和30年には23万6,000床を数えた結核病床が昭和57年には7万1,000床に減少し,4万4,000床であった精神病床が32万床に,また19万9,000床であった一般病床が98万3,000床に増加している.

勤務医問題をどう考えるか—日医の医育機関に勤務する医師のアンケート調査結果を中心に

著者: 渡辺信夫 ,   小林之誠

ページ範囲:P.558 - P.564

広く立体的見地より医療を勘案する中で
■勤務医部会設立の経緯
 第1回全国医師会勤務医部会連絡協議会が福岡で開催され,次いで大阪,岩手,松山,山梨,広島と会を重ねて来ているが,その底流にあるものは,勤務医の医療社会への目覚めと関心の高揚にほかならない.
 その度の協議事項を集約すると,生涯教育研修,地域医療への対応,福祉共済,勤務医の組織化,医師急増問題,医療事故対策等々であった.これは決して,勤務医のエゴの立場からの発想でもなければ,ましてや日医に対抗して第二医師会を作って闘争しようとするものではない.

勤務医志向の理由と勤務医の意識

著者: 山根至二 ,   吉矢生人

ページ範囲:P.565 - P.570

一勤務医の立場からみた勤務医の意識
 与えられたテーマは「勤務医志向の理由と勤務医の意識」ということである.本特集の企画者は最近増加している勤務医の意識が自主的なものなのか,医療界の変貌によって受動的に起きて来た現象なのかを分析することを意図しているのではあるまいか.私は非医家の家庭に育ち,大学を卒業して20年間を大学の医局で過ごし,市中病院に出て15年間を教育病院のあり方の確立に努力しては来たが,全国的規模から見れば特殊な立場かもしれず,本稿の執筆に適任であるという自信はない.しかし私なりの立場から本テーマについて考えてみたいと思う.

事例にみる医師の就職戦線

著者: 三田重人 ,   井上泰

ページ範囲:P.578 - P.582

脱勤務医,開業に至る経緯
■心臓専門医を目指して
 私の住んでいる秋田県能代市は,人口約6万人の典型的地方小都市です.今から15年ほど前,私が医学部入学を志していた頃この地には二つあった総合病院にも開業医の先生にも,いわゆる循環器病学を専門にしている方はほとんどいない状態でした.以前より父の心臓病(今思えばNCAか?)に悩まされていた私は,将来心臓の専門医になることを志し,昭和47年秋田大学医学部に第3期生として入学しました.
 在学中,運動部としてスキー部に在籍していましたが,ここには心臓外科の医局の先生たちが顧問としておられ,ますます心臓の専門医,特に故郷能代には未だなかった心臓外科の専門医を目指すようになりました.

医学教育と勤務医の未来

著者: 吉利和

ページ範囲:P.583 - P.585

■勤務医と開業医
 数年前から,わが国の医療や医学教育に関係した各分野において,医師数の問題が取り上げられている.
 私自身は大学にばかりいたので,実際の医療現場の問題として体験したことはごくわずかに過ぎないが,それでも,医師養成ということが,この問題と密接に関係していることは,私のようなものでもよく理解できる.単純に割り切って,現在あるいは近未来において,わが国の医師数は多過ぎるという状況になるのかといわれると,多少思慮のある人は,その可能性は否定しないにしても,その「多過ぎる」ことの内容について考えるべきことに気づいており,医師絶対数を取り上げて多い少ないという論をなすことは,やや不合理なことであるという立場をとるようである.

研修医座談会

将来をどう見るか

著者: 神山幸一 ,   大島久美 ,   三村俊英 ,   梅沢玲子 ,   川北祐幸

ページ範囲:P.571 - P.577

 川北 今まで,日本の医師の働く形態を大きく分けますと,勤務する場合と,開業する場合と二つであった,その勤務する場合が更に細かく分かれて,病院勤務のほかに大学などで教育,研究,臨床に従事するコース,それから官庁,要するに厚生省や地方自治体に勤める場合があるわけなんですが,本日は病院勤務と開業の二つで話を進めていきたいと思います.
 ところで,最近までは,勤務にしても開業にしても,特に問題はなかったんですね.ところが,医者が増えてきたことを契機にいろんな問題が出てきた.一つは,近代医療が組織医療になってきたこと,それから,高度な機械・設備を使わないと,いい診断治療ができなくなってきた.言い換えれば,開業を考えた時には,高機能の医療機械が必要だということから,開業資金が非常に大きな負担になって,開業が難しくなってきた.

グラフ

医療効率の良い中規模病院を目指して—兵庫県・宝塚市立病院

ページ範囲:P.537 - P.542

 宝塚歌劇団所在地として,昔から聞き慣れた地名の一つであった宝塚,しかし実際の街については,おぼろげな輪郭さえ描けぬままに大阪から30分,宝塚に着いてみると,そこはここ十数年で人口が4〜5倍に膨れ上がったという住宅地が六甲中腹にまで広がっていた.およそ19万という人口に対して,当院開院までは公立病院はなく,2〜3の私立病院だけだったというから,住民はもちろん市あるいは医師会からも病院設立の要望が大きかったことは容易に想像がつく.
 この要望に応えるべく建設されたのが宝塚市立病院である.当院の位置づけは地域医師会と後送の兵庫医大との中間で2次病院として機能すること.したがって,兵庫医大の人的・技術的支援を受けて計画・建設され,駅から車で10分,足の便には問題もあった武庫川沿いの瀟洒な建物でスタートを切ったのは昭和59年5月であった.

済生会一筋に35年済生会中津医療福祉センター総長 豊島 正忠氏

著者: 秋山博

ページ範囲:P.544 - P.544

 豊島正忠先生は,旧制松山高等学校を経て,昭和13年東大医学部を卒業された俊才である.先生が中津病院に就職されたのは,昭和26年1月であるから,すでに35年余を済生会一筋に生きてこられたのであり,いわば生粋の済生会人である.
 済生会中津病院は大正5年,済生会大阪府病院として設立され,以来,病院のみならず付属乳児院,肢体不自由児施設として大阪整肢学院,更に中津看護専門学校など医療と深く関連する福祉施設を数多く経営してきた.

今日の視点 シンポジウム

病院経営の理想と現実.2

著者: 大森亮雅 ,   渡辺らく ,   長崎太郎 ,   若月俊一 ,   広田和俊 ,   大塚宣夫 ,   大谷藤郎

ページ範囲:P.545 - P.553

 医療費抑制状況の下で病院径営は厳しくなつている.わが国の病院約8割を占める民間病院はそれぞれの理念を掲げて医療を行ってきたが,その理念も,経営維持のために,ともすれば後退せざるを得なくなつている.多くの病院はその理想と現実のギャップの間で苦闘している.では,それぞれの理想をどう病院経営に存続させるか.全日病25周年記念シンポジウム「自由社会における民間病院—その理想と現実」を前号に続き掲載する.

ホスピタル・フォーラム

昭和61年度事業計画を決定—日本病院会

ページ範囲:P.570 - P.570

 日本病院会の昭和61年度の代議員会・総会が去る3月22日,東京・一番町のダイヤモンドホテルで開催され,事業計画ならびに予算は執行部原案どおり承認された.
 事業計画は,①医療制度,殊に病院制度の調査研究,②病院の管理運営,施設の向上,③職員の教育・指導,④職員の養成確保,⑤公衆衛生と地域医療,⑥病院の資質向上,医の倫理の昂揚,医師の研修,施設の調査,⑦諸制度の調査研究,⑧税制,財政の改善,⑨病院用品の調査研究など23項にわたっている.また,委員会活動では従来の委員会に,中小病院対策委員会および給食委員会が追加設置された.

シリーズ・病院経営

病院経営戦略論序説(6)—アメリカにおける病院経営戦略の展開

著者: 田中滋

ページ範囲:P.586 - P.589

はじめに
 今回は,わが国病院経営の将来方向を探るため,模索の出発点として,激しい変貌のただ中にある米国の医療事情を分析する.その際,下記の(1)〜(3)に例示するようなアプローチは,一般性を持ちえぬ切り口として否定的に考えたい.なぜなら,経済ないしは経営という社会現象を考えるに当たり,以下の三つの接近法は科学的とは全く言いがたいからである.

事例から見た査定減防止対策

査定減対策には症状詳記欄と病名欄の十分な活用を

著者: 長嶋精吉 ,   染谷光一 ,   中野隆男

ページ範囲:P.590 - P.591

 ドクターは「病名」と「症状」は厳密に区別している.そのため,「症状」に関してはコメントという形で症状詳記することが多い.しかし,実医療と保険医療とは異なる面が多い.時には「症状」であっても,病名として記載しないと,重要な薬剤その他が査定されることがある.

隠れた戦中医学史 ペニシリン秘話

戦中のペニシリン生産量

著者: 落合勝一郎

ページ範囲:P.592 - P.594

 前にも述べたように,日本のペニシリンは陸軍軍医学校が主導したペニシリン委員会のチームワークによる研究が実を結び,工場生産が昭和19年11月29日から森永薬品三島工場で始まっている.ペニシリン委員会から出向した相澤憲氏らの技術指導で,12月23日にはその生産に成功し,急拠同委員会に納入している.日本で初めて見るペニシリンであった.
 その後間もなく,梅沢浜夫教授の指導する萬有製薬株式会社の生産が成功したことも既述した.筆者の記憶では,わかもと製薬株式会社や帝国農藝化学株式会社,明治製菓株式会社系列の山形合同食品株式会社などがペニシリン委員会の科学者たちの技術指導でそれぞれ生産計画を進めていた.

ニュース

第3回静岡県地域リハビリ研究会開かれる

著者: 編集室

ページ範囲:P.594 - P.594

 静岡県内各地で進められている老健法の機能訓練事業の現状と問題点を話し合い,今後の方向を探ろうという「第3回静岡県地域リハビリ研究会」が,去る4月20日,三島市の社会福祉会館で開催された.今回は県内の機能訓練事業に取り組む保健婦・看護婦・障害者ら約100名が参加し,現場からの問題点などを熱心に討議した.
 研究会は三島博信中伊豆リハセンター院長の講演「地域における保健婦の役割」および県内3地区(雄踏町,島田市,三島市)からの活動報告,全体討議「地球リハを考える」(司会:乾達氏=清水市・開業医),最後に大田仁史氏(伊豆逓信病院)の総括がもたれた.

統計のページ

統計から見た医療(1)—医療施設数と病床数

著者: 三浦公嗣

ページ範囲:P.595 - P.597

1)医療統計について
 医療は,医療の供給側である医師やその他の医療従事者と,需要側である患者の個別的関係の上に成り立っている.しかし,両者を取り巻く医療費,医療施設,マンパワー,医療技術など,有形無形の医療資源には限界があり,公平かつ効率的な運営や整備が求められ,公的な性格が強い.
 そのため,医療の現状を把握し医療行政の基礎資料とするために,国では医療に関する様々な調査報告を実施している.以下,それらの資料から知り得る医療の現状について,医療施設,医療従事者,患者(傷病)の各方面から解説してゆきたい.

定点観測 北海道・新冠町から

これからの医師は"人間の死"および"終末期ケア"について,いつ,どこで,誰に学ぶのか

著者: 矢澤信明

ページ範囲:P.598 - P.598

 今までの日本の医療は,ひたすら「生きること」への追求に励み,延命への努力に精力を傾けてきました.医師は自分の受け持つ患者の死に遭遇した時,医の敗北を感じ,空しさに陥るものです.
 日本では,当然かつ誰にも確実に訪れる「死」については口にすることを避ける習慣があり,病院では4(シ)のつく病室はなく,結婚式などでも「死」を口にすることは嫌われています.しかし,ヨーロッパ諸国では"Death is nature",すなわち「死」は当たり前の事象として認識され,学問的にもターミナル・ケア(終末期看護)の分野が古くから発達し,そのための施設(ホスピスなど)が多く見られます.

患者からみた病院

医学の進歩の喜びと残酷さ

著者: 村山糸子

ページ範囲:P.599 - P.599

 「後1週間くらいでしょうね.」主治医の言葉を聞きながら残念という気持ちと,心の片隅でホッとする気持ちが交差していたことを覚えている.1年3か月の闘病生活日誌3冊を読み返しながら思い出している.
 自営業であった主人が倒れたのは昭和59年11月8日,その日は主人の誕生日でもあった.「ちょっと練習してから帰る」と言ったままゴルフの練習中に倒れてしまった.すぐに救急病院に飛んで行ったが,入院の手続きをしながらも手足のふるえが止まらず,瞬間的に主人の病状,商売のこと等,断片的に様々な思いがはせていくのが分かった.「診断の結果,脳動脈瘤破裂でくも膜下出血を起こしており,非常に危険である.手術しても回復の見込みは1%もないがどうしますか」と脳外科の若い先生に言われた時,自分一人で決断することができなかった.子供たち,主人の兄弟と相談の末1%にかけてみようと,その夜のうちに先生にお願いしたが,一抹の不安がよぎったのは,先生が若いこととほかに医師がほとんどいないということだった.翌日東大の助教授が応援にきて,手術が始まり,6時間くらいかかって無事手術が終わった.

建築と設備 第3回

長崎県立大村病院

著者: 吉浦一成 ,   河口豊

ページ範囲:P.601 - P.606

新病院—理想の実現にむけて
■狭隘となった旧病院
 大村市近郊の交通の便のよい位置に,旧県立東浦病院はあった.住宅地の一角で隣接して国立総合病院があるという立地条件に恵まれた敷地である(図1).しかし,昭和28年開設以来の逐次増床のため,もとより平坦地の少ない敷地はますます狭隘となった(44.4m2/床),また建物も,平面の構造が陳旧化するとともに多くが木造であったため老朽化した.防災上の問題も起こり,何よりも居住環境が極めて悪くなった(17.2m2/床).
 "精神医療では,建物自体が医療に大きな影響を及ぼす"と言われているが,殊に基本を病者の権利擁護へと変化させつつある近代精神医療の要望に対応していくことは,この状態では困難となった.そこで県立5病院再編整備の一環として,改築計画がたてられた.

病院運営の変化 ここ10年余病院はどう変わったか

病院栄養部門の変化

著者: 太田順子

ページ範囲:P.607 - P.610

 「よい食事」が,病気の治癒を促したり,病態を改善するのに欠かせないものであるのは言うまでもないことで,歴史の古い病院の中にも,創立当初からこのことに力を入れてきたところは少なくない.たまたま金沢大学医学部附属病院は,大正15年に既に,今日全国の病院の栄養部門が目指しているような患者の栄養管理,つまり病態に合わせた食事の提供や栄養指導や摂取栄養量の実測を,診療科と同格の「栄養部」を設けて,日本で最初に行った病院である.その創始者である当時の学長,須藤憲三先生(医化学)の業績を忍んで,当時,先生のもとで研究生活を送られた現全国栄養士養成施設副会長・田中静雄先生と,金沢大学医学部教授・竹田亮祐先生が,Diabetes Journal (1(2):1978)誌上でされている対談からは,今日では類を見ないきめ細かい栄養管理の一端を伺うことができる.
 時代が変わり,合理化による新しい技術やシステムが導入されるに伴い,「よい食事」を目指すという目標には変わりなくても,本質的に個人的なものであり,保守的なものである食事の問題に対し,常に大なり小なりの未解決の部分が残ったり,新たな問題が生じている.

ケースレポート

高齢化社会における医療と福祉のあり方を求めて—なにわ病院医療社会事業部の活動を中心に

著者: 蔭山充 ,   沖津邦弘

ページ範囲:P.611 - P.614

 昭和60年1月に社会保障制度審議会が建議した「老人福祉のあり方」によって,老人問題に関する政策方向として保健,医療,福祉を統合した具体策の緊要性が提言された.
 人口の高齢化にからんで欧米でも,老人の保健,医療,福祉政策が研究され,種々の試みがなされている.わが国の場合,急速な高齢化社会への進行に伴って75歳以上の後期高齢人口が増加し,老人の患者が激増し,それによって医療費の増大,また,要援護,要介護老人の増加の一方に,家庭介護能力の低下等が顕著となっている.そして,これを支援すべき公的な在宅サービスが立ち遅れていることもあって,建議は,社会的責任として緊急に対処すべき問題であると指摘している.これを受けて大きく表面化したのがいわゆる中間施設設置を含めた地域医療,地域福祉重視の政策である.高齢化社会を迎えるなかでは,病院にも当然のこととしてこれに対応した医療活動が必要となっているのである.

時評

中間施設論議に一言

著者: 姉崎正平

ページ範囲:P.615 - P.615

 昨年1月に出された社会保障制度審議会の「老人福祉の在り方について」と題する建議の中で示された中間施設構想が一石を投じ,関係方面を中心に少なからぬ波紋を起こし,多くの議論を巻き起こした.各種団体や個人が中間施設について意見や提言を出し,その潮流に乗って,中間施設について雑誌が特集を行ったり,単行本も出された.
 厚生省もすかさず「中間施設に関する懇談会」を発足させ,4月から8回の会合を開き,8月初めに中間報告を発表した.同省はこれらを受けて,すでに今年から中間施設のモデル事業を全国10か所で始めており,来年には法制化する模様である.臨調路線に沿って,審議会などの動きを睨みつつ,行政当局が具体案を準備し,調査費やモデル事業を予算化し,法制化にもっていくという最近の行政当局の早い対応の例である.

基本情報

病院

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1383

印刷版ISSN 0385-2377

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