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雑誌文献

病院47巻12号

1988年12月発行

雑誌目次

特集 わが病院のめざすもの—新・改築時の理念と実際

日鋼記念病院—536床

著者: 西村昭男

ページ範囲:P.1012 - P.1013

増改築の契機と経緯
 夢と現実の落差から
 夢と現実の落差は世の常ではあるが,時にはその大きさが新たな発展を促す起爆剤となることがある.1978年8月1日に新しい病院長として全職員の前で就任の挨拶をしたが,初めて見る日本製鋼所病院の印象は,構造不況の工業都市という背景の暗さのためもあって,一言でいえば,まさに「野戦病院」のイメージであった.病院の建物は,昭和32年に木造から改築されたもので,創立68年という歴史からみても,また周辺の建物とのバランスからしても,必ずしも恥ずかしいものではなかった.
 しかし,事務職員の工場スタイルのユニホームとか,外線電話は事務に1台だけなど,臨床面では負けない医療を目指して大学を飛び出してきた新院長の夢を打ち砕くのに時間はかからなかった.当時は会社の合理化計画の一つとして,病院の分離・独立の手続きが進んでいるなど,最悪の状況下にあり,改築提案など問題外であった.

手稲渓仁会病院—500床

著者: 前久保博士

ページ範囲:P.1014 - P.1015

契機
 渓仁会は札幌市内に二つの病院(一つは942床を有する老人病院,西円山病院であり,他方はリハビリ主体の366床の定山渓病院)を有する法人組織であった.これら二つの病院に共通していることは,老人主体ということであり,それなりに高い活動度のある病院であるが,老人主体なるがゆえに生じた各医療スタッフの充実度は,満足のいくものではなかった.加えて昭和62年頃より生じた医療法改正に伴う病院設立ラッシュは既存の病院の存続を脅やかすに足る規模であり,渓仁会の二つの病院も,その影響なしとは言えぬとの結論に達した.

清田内科消化器科病院—140床

著者: 西里卓次

ページ範囲:P.1016 - P.1017

現況
 清田内科消化器科病院は,札幌市の中心部から車で約30分を要する新興住宅地にあり,昭和62年12月の開院からようやく10か月を過ぎたばかりの新設病院である.現在,スタッフの真剣な努力によって日一日と各部門のシステム,部門間の協力関係,病院としての機能が作られつつあるが,残された課題もまた山積しているといえる.
 内科専門で140床の病院が,今後どのように地域に貢献できるかは,自分たちの提供する医療サービスを常に検証し続ける態度にかかっているともいえる.このような時,まことに時宜を得たテーマをいただき,この10か月を振り返る機会を得たのは本当に有難いことと思われる.

青南病院—186床(精神科のみ)

著者: 千葉潜

ページ範囲:P.1018 - P.1019

新築への背景
 青森八戸市は人口24.8万人,地域医療圏約50万人で,地域医療計画における青森県東南部地区の中核としての機能を果たしている.
 当院は昭和34年開院,昭和37年に医療法人となった病床数186床の単科精神病院である.昭和52年より新改築計画に着手,中途で八戸自動車道(高速道)へのアクセス道路計画が当院の敷地の一角を通過することになり,延べ6年間にわたり計画の進行が中断した.昭和59年に二次計画の建築(病棟部)を終え,最終段階の管理外来棟と病棟部を昭和62年9月に着工し,翌63年7月に竣工した.この間に初代院長は健康を害し,昭和59年に次代へと交代が行われている.

盛岡赤十字病院—492床(一般のみ・うち人間ドック8床)

著者: 川村隆夫

ページ範囲:P.1020 - P.1021

新築に踏み切った契機
 盛岡赤十字病院は,大正天皇御即位記念事業として大正9年に創立された.以来昭和38年,42年と増改築を重ね,地域保健医療と非常災害時における医療救護に努力するなど,岩手県の医療の中核的役割を果たしてきた.
 しかし,病院は岩手県庁やオフィス・ビルの建ち並ぶ中心街にあり,敷地面積わずかに6,056m2,全くビルの谷間に存在するようになり,日照は侵され,また騒音などで医療環境はとみに悪化した.加えて建物は老朽化,狹隘化して,新たな医療需要の増大に対応することが不可能となった.

新潟市民病院—736床(一般625・救命救急センター30・新生児医療センター30・リハビリ21・伝染30)

著者: 笹川力

ページ範囲:P.1022 - P.1023

新築時の理念と実際
 昭和48年の開院の経緯
 昭和40年,新潟市医師会員から新潟大学附属病院と県立がんセンター新潟病院に対し,もっと市民の入院患者を受け入れて欲しいと強く要請する協議会がもたれた.43年には新潟市議会に市立総合病院建設特別委員会が設置され,45年には新潟市民病院運営審議会が県医師会,市医師会,新潟大学医学部,学識経験者,市職員の代表各3人,合計15人の委員で組織された.新潟市民病院は,このように,重症・専門・救急医療を必要とする患者の入院ベッドを,という市民の声と,その線に沿った高度の機能を発揮する真の総合病院を,という県・市医師会の要望と,臨床研修病院にふさわしいスタッフおよび施設を整えねばならないという新潟大学医学部,更には国および県,各方面の指導と援助により48年に誕生した.

本島病院—350床

著者: 中野隆男

ページ範囲:P.1024 - P.1025

増改築に踏み切った契機
 まず第一に,昭和16年建造の木造モルタル本館(各種事務室その他管理棟)と,昭和36〜41年に建設した2階棟(1階外来,2階病棟)が老朽化し,機能的にも構造的にも近代化に障害となってきたことがあげられる.また一方で,近代化及び拡張のため,1期,2期工事として,昭和49年には鉄筋コンクリート造り地下1階〜地上5階建て,同じく55年には地上5階建ての合計延べ面積約1万m2を逐次増設してきた.
 今期計画を着工した昭和62年は,第2期から数えて7年を経過し,タイミング的にも資金的にも機が熟した時となっていた.それと合わせて地域医療計画上のベッド数の制限(当院にとっては全体の計画の延長線上にあり,特にそのために計画の変更はなかったが)もあり,今回の第3期増築工事となったわけである.

諏訪中央病院—200床

著者: 鎌田實

ページ範囲:P.1026 - P.1027

新築の契機
 昭和25年開設の病院は狭小,老朽化がめだつようになった.そして,増・改築を毎年のように繰り返したため,不調和な建物となった.利用する患者の居住性を考えるような空間が作れなくなり,スタッフにとっても働きづらくなっていた.そこで病院の全面新築案が出て,旧病院のあとに建て直しを考えたが,1,700坪の土地しかないため,将来の病院の拡大や,医療と福祉の連携の利点を考えて,新築移転を行うことにした.駅から徒歩5分の街の中心部にある利便な旧病院の土地を処分し,昭和61年に駅から車で10分の郊外へ12,200坪の土地を確保し新築移転した.現地新築ではなく郊外へ移転新築を行って良かった点は,
1)建築中,医療が中断・縮小せずに移転が行えた.

甲州病院—200床

著者: 三島博信

ページ範囲:P.1028 - P.1029

本院の特徴と増改築の契機
 わが甲州病院グループは,ヘルスケアマンション(サンライフ寿152室),特別養護老人ホーム(寿の家80名),老人保健施設(甲州ケアホーム120床)からなる総合的な老人福祉施設群であり,その中核となっているのが,リハビリテーション専門病院である甲州病院(200床)なのである.
 昭和40年に発足した甲州中央温泉病院は,60床の規模で,山梨県内で最初のリハビリテーション専門病院であり,脳卒中を主対象とするものであった.その後,時代のニーズに応えつつ,2回の増改築によって200床の中規模病院にまで拡大した.同時に将来の高齢化社会の到来を予測して,特別養護老人ホーム,ヘルスケアマンションを順次併設してきた.

東京女子医科大学糖尿病センター—64床

著者: 平田幸正

ページ範囲:P.1030 - P.1031

新築の契機
 東京女子医科大学は市中にあって土地が狭い.ちょうど古くなった事務の建物を他の場所に移転できたので,その跡地に病院内のどの部門を移すか,それと同時に800席の講堂も一緒の建物に移し,前時代的になった二つの臨床講堂も付随して作りあげようという話で,3年半前に委員会が設けられ,筆者もその一委員になった.
 どうも当大学の腎臓病総合医療センターが狭そうであるから,作りなおしてはどうかと話し合っているうちに,肝腎の腎センターが,狭いことを理由に新築を断ったことが,糖尿病センター新築の契機となったようである.

医療法人喜峰会東海記念病院—225床

著者: 岡山義雄

ページ範囲:P.1032 - P.1033

新築に踏み切った契機
 昭和25年4月,筆者はそれまで名古屋大学より派遣されていた長野県農協(現在の厚生連)の昭和病院長を辞し,名古屋市の中央,中区大津橋角(県庁はじめ諸官庁の入口)に外科岡山病院を「急性腹症の早期診断と治療」,「救急災害医療」を二本の柱として開設.44年5月,更に市の中心,中区栄一丁目の現在地に,千坪の三方道路に面した土地を得,「第二次救急」,「人間ドック並びに健診と健康管理面からリハビリ」までの準総合病院として新築移転.60年11月には広小路伏見角の日土地ビル(御園座斜前)3階に中日文化センターと呼応し,「フィットネスとプライマリーケア」としての拠点を確保し,第一線開業医師として,初療より社会復帰まで一貫した医療に専念してきた.
 その間国民の生活環境は著しく改善され,日本は世界一の長寿国となったが,一方,高齢化社会の到来と共に「健やかに美しく老ゆる」ことが大切な時代となった.そこで,従来にない各科にわたる総合リハビリテーションセンタ」の必要性を痛感し,同時にそれを支える成人病,老人病の専門外来,更に第二次救急と当院の在来医療の内容とその範囲の拡大を計り,広く地域社会の保健,医療,福祉に役立つ新病院の建設を意図するに至った.たまたま将来の相続税対策として30年前に購入した土地があり,今回更に隣接地を求め,五千数百坪となった.

藤田学園保健衛生大学七栗サナトリウム—218床(ホスピス18床含む)

著者: 森日出男

ページ範囲:P.1034 - P.1035

新築の契機
 当サナトリウムは藤田学園保健衛生大学の第四教育病院として,昭和62年4月に誕生した.当然のことながら一般の他の病院と異なり,病院の医療思想と共に教育理念が共存する.いうまでもなくこの両者は,別個のものではなく一つのものである.医のこころの高揚なきところに教育があるはずはなく,よい医療の場での同化現象が教育の最大の力であり,感動とモチベーションの教育はまた,よりよい医療提供に努力する医療現場にこそあるはずである.あるいはよい医療の発展を願う者にとって,よい後継者づくりを願う努力は当然のことでもある.大学が学問的研究において斯界の先駆先導的役割を果たすことはもちろん,将来変化していく社会の中で求められるであろう医療形態・機能の先取りをして具現化することは,その教育的意義と相まって,大学としての社会的意義は極めて大きいといえよう.

京都府立洛南病院—328床(精神科のみ)

著者: 小池清廉

ページ範囲:P.1036 - P.1037

全面増改築の経緯
 峻工に至るまで
 このたび5年にわたる全面増改築工事が竣工した.昭和20年の開設以来の木造建築物が,昭和36年と40年に増築されたRCの2病棟を除いて,そのまま存続していたのであった.少なくともハード面の医療環境は劣悪であったといえる.昭和49年に,院内に改築委員会(委員長:中村五郎副院長,各職場より委員を選出)を設け,京大意匠研究室加藤邦男助教授らと月1回の研究会を57年まで続け,以後竣工に至るまで,実施設計担当の横河設計社員と常時打ち合わせを行ってきた.全面増改築が実現したのは,林田府政に変わってからである.

北摂病院—217床

著者: 木野昌也

ページ範囲:P.1038 - P.1039

改築に踏み切った契機
 医療法人仙養会北摂病院は,昭和40年4月,病床80床で新築開院した.2年後増築102床となり,43年5月に総合病院の承認を得るとともに増築を続け,16年目に217床となり現在に至っている.
 増築に増築を続けてきたので,建蔽率いっぱいに敷地を利用しつくした.現在,全設計図面をつなぎ合わせて見ると,非常に無駄の多い個所や,非能率的な部分が目立ち,現実に日常医療行為に支障をきたすようになってきた.また,最初の建築から23年経過し,全面的に補修工事をしなければならない時期にも達したのである.

水島協同病院—320床

著者: 松岡健一

ページ範囲:P.1040 - P.1041

 私たちの病院の経営母体は倉敷医療生活協同組合で,組合員34,483名(8月末)をもって構成され,今年創立35周年を迎えている.組合員の居住範囲は,倉敷市の水島地区を中心に,岡山県南西部から県北西部に拡がっている.35年前,戦後の生活環境の崩壊の中から,医療に恵まれない地域の人々が,苦しい懐から集めた出資金をもとに,ささやかな診療所を開設し,患者中心の医療を創り出そうという夢をかけた事業が始まった.この事業は,現在,3病院3診療所,4歯科診療所を作り,昭和62年度末で,職員数639,医科入院426,外来1,120,歯科448(各1日平均患者数),医療収入55億1,384万円という規模になっている.私たちの病院は3年前,倉敷医療生協のセンター病院として,320床の総合病院を新しく建設した.

松江記念病院—120床

著者: 杉原徹彦

ページ範囲:P.1042 - P.1043

開院の背景
 今医療の世界は"冬の時代の到来"といわれている.この厳しい時代に病院をつくり開業したのかと友人から笑われもしたが,私が医者になった当時の夢でもあり,決断実行することにした.もともと医者の家に生まれたわけでもなく,田舎寺院住職の長男として生を受け,子供心にも将来は何を学び社会に役立つ人間になればいいのかと自問自答することが多かった.たまたま高校3年生になったとき郷里の開業医が亡くなられ無医村となったため,父親の強いすすめもあり医学部に進路変更をせざるを得なくなり,鳥取大学医学部から大学院に学び卒業後1年後に松江市立病院に就職した.ここで23年間内科(主に消化器内科),それに臨床検査部長,薬局長代行をそれぞれ10年間勉強させてもらって,今回の新築開院に大いに役立ったと思う.神の思召しといおうか,運が良いといおうか,とても感謝している.
 このような"冬の時代"といわれる中にあっても,今日の日本社会を見たとき医療分野はいろいろな意味で素晴らしい可能性に満ちた事業分野だというのが,実は客観的な分析ではないだろうか.それが現在,可能性であって現実となっていない理由として,経営の近代化の遅れがあると思わざるを得ない.

対馬いづはら病院—200床(一般150・精神50)

著者: 伊藤新一郎

ページ範囲:P.1044 - P.1045

新築に踏み切った背景
 当院は,人口約5万人の離島対馬にある3国公立病院の一つである.当院は,1967年町立病院として建設され,1968年長崎県離島医療圏組合の設立に伴い,同組合病院として再発足している.当院は,3町と県により構成されている特別地方公共団体で経営されている.このような病院は,県下に九つ存在し,一つの組合を形成している.
 9病院の総病床数は現在1,112床で,離島の医療を守るための大きな組織となっている.

今津赤十字病院—180床(一般120,痴呆60)

著者: 鵜池保之

ページ範囲:P.1046 - P.1047

本院の変遷と新築の契機
 結核の歴史とともに
 昭和4年,富国強兵下の亡国病,結核が全世界の若者を冒し,日本もその例外ではなかった.万国赤十字の指導のもとに日本赤十字社も結核撲滅策を練り,全国各地にサナトリウムが設立され,九州では鹿児島の錦江と福岡の今津に白羽の矢が立てられた.
 治療法は大気,安静,栄養の三大療法のみであった当時のこと,風光明眉で空気が清澄であり,海の幸に富み,しかも北に山を背負い,冬に降雪を知らない温暖の地,今津が選ばれた.地元発展期成会の肝煎りで10,000坪に及ぶ土地山林の譲渡も順調に進み,初代院長秋武博士が理想に燃えて着任され,45床が開かれた.5年後には100床となり,色とりどりのパラソルは海岸の木蔭を埋め,戸外静臥の花が咲いた.やがて気腹・気胸療法が加わり,すべて個室で広い静臥廊下を有する海辺のサナトリウムとして名を馳せた.戦時中は海軍病院に,終戦時は厚生省引揚病院に接収されたが,昭和22年から再び日赤に返還され,2代目院長勝屋博士の下に戦後のサナトリウムが再開され,小生もその頃に着任した.

野村病院—85床

著者: 野村敏彰

ページ範囲:P.1048 - P.1049

本院のめざすもの
 基本構想—医学的リハビリテーションの充実
 本院の基本計画は,高齢化社会における地域医療(プライマリ・ケア)のニーズに応えるため,一般病院に医学的リハビリテーション部門を包括させた点が特徴的である.宮崎県では,脳血管障害をはじめとする肢体不自由者のための医療施設の対応はかなり遅れており,本院は近い将来,地域の基幹病院としての機能を持つべき施設となると思われる.
 現在,病床数85床であるが,1床当たりの占有床面積は68.60m2で,50m2/床前後の病院が一般的である中で,ゆとりある空間を持つ病院と言えよう.このうち,リハビリ部門は全体の20%を占めており,医学的リハビリに対するニーズに十分応えられるよう計画がなされている.

垂水市立医療センター垂水中央病院—126床

著者: 柚木一雄

ページ範囲:P.1050 - P.1051

設立の理念
 垂水市立医療センター垂水中央病院は,公設民営というユニークな理念のもとに設立され,昭和62年3月23日,開院した.自治体病院であるとともに,医師会病院であり,病院活動も両者の機能を併せ持つものである.
 垂水市は,医療活動面では鹿児島県肝属郡医師会に所属している.肝属郡医師会は,既に昭和56年2月,医師会立病院を大根占町に設立,地域医療の中核的存在としての機能を果たしてきている.肝属郡は,広域な医療圏を抱えながら,医療機関の数は少なく,医師の老齢化は進み,近代的な高度医療からは置き去りにされざるを得ない状態にあった.ほとんどの医師会員の意見一致をみて医師会病院の設立された所以でもある.このような弱小医師会にありながら,更に医師会病院を新設した理由はどこにあったのか.

グラフ

病める人の立場に立つ「総合診療」を展開—天理よろづ相談所病院

ページ範囲:P.997 - P.1002

 医療の専門分化が進むなかで,そのはざ間にある患者への積極的な対応が求められている.天理よろづ相談所病院(以下「天理病院」と略)ではこのはざ間の患者に的確な対応をすべく総合診療を始めて10年を経過した.今回は,現代医学の粋を集め専門医療を展開している天理病院で総合診療がどのように進められているかを中心に紹介しよう.

「常に病む者と在る医療」を推進天理よろづ相談所病院 柏原 貞夫院長

著者: 今中孝信

ページ範囲:P.1004 - P.1004

 天理よろづ相談所は昭和10年に天理教団により人間の苦しみを救済することを目的に設立された財団法人で,病院はその機能の一部である.
 現病院は昭和41年に再発足したものであるが,柏原先生はそれに先立つ昭和36年に新病院建設のために着任され,5年余,新病院の基本構想,設計,設備,医療機器などの立案実施に心血を注がれ,初代院長山本俊平先生(京大名誉教授,現名誉院長)と—丸となって当時東洋—と称せられた高度先進医療を行う病院をスタートさせられた.以来副院長(腹部外科部長兼任),病院長と病院発展の歴史を生き抜いて来られた.院長職は既に10年以上務められ,その間当初の予定の1,000床の病院を完成された.また,独自の構想に基づいて作られた総合診療およびレジデント制度は,先生をはじめ数多くの留学経験者の衆知を集めて作られたもので,病院の「病人中心の医療」のポリシーに深く根ざしたものである.さらに,臨床と研究の融合を目指して天理医学研究所改革3か年計画を主導され,大学に劣らぬ研究ができる内容に改善され,今後の臨床研究に一段と深みを加えることとなった.

今日の視点

看護力の再編成—高齢化社会に向けて考える

著者: 加藤政子

ページ範囲:P.1005 - P.1010

I.高齢化社会と看護者の需給対策
 今世紀後半から西欧諸国ではすでに人口の高齢化による多くの社会問題が表面化し,老人医療費の急激な高騰が国家財政をおびやかしたことで,各国はこの解快に向けてさまざまな対策を打ち出してきた.
 今,わが国にも同じように未曽有の高齢化社会の到来が予測され,医療・福祉予算の増大とそれに伴う住民負担の税率をめぐり,各界が真剣に討議を重ねつつある.ここではまず,西欧諸国と日本の老齢人口の比率と国民の負担税率の様相を図表によって見ながら,高齢化のすすむわが国にあって,将来,より必要とされる看護者の需給対策について量と質の両面から考えを述べてゆきたいと思う(図1).

建築と設備・32

病室の環境を考える

著者: 中谷義宣

ページ範囲:P.1053 - P.1059

 はじめに
 「病室の環境」を考える前に,まず環境を構成している要素を,患者さんの立場に立って具体的に拾い出してみよう.例えば<生活の場>としての観点からみると,
・衣:寝具類の清潔さや上等さの程度はどうか.

シリーズ・病院経営 健全経営への道

じん肺専門から市民病院化へ—愛知県・旭労災病院 土田勇院長に聞く

著者:

ページ範囲:P.1060 - P.1063

 「今回の医療費改定は大打撃でした.特に私どもの病院のように内科系を主体とした病院はどこの病院でもそうでしょうが」と旭労災病院の土田院長は開口一番,今回の医療費改定の病院経営への影響を語る.
 今春の医療費改定は2年ぶりの改定として病院界は多大の期待を寄せたが,意に反して厚生省の思惑にそった効果をもたらしていることは周知のとおりである.

医療従事者のための患者学

"病気"を意識する(その2)

著者: 木村登紀子

ページ範囲:P.1064 - P.1067

 前号では,病気や怪我とは無縁の生活を送っていた人が,体に不調を感じ,病院の診療室を訪れるまでの段階を5つに分け,"病気"を意識する第1段階,受診を決心する第2段階,そして受診を実行に移す第3段階までについて,患者の心理的な動きを具体的に検討してみた.
 本号では,それに引き続き「病院に着いて受付を終える」第4段階と,「待合室で診察の順番を待つ」第5段階について,患者の"こころ"の動きを考察することにしよう.更に,このシリーズの2回目(3月号)と3回目(4月号)に述べた哲学的意味での人間存在の特質や東洋的な人間観と照らし合わせながら,患者の置かれている立場を吟味することを通して,診察室に現れるまでに既に独特の患者心理が形成されていることを浮き彫りにする.そして,このような患者に対して,この段階までの間にどのような対応が必要かを論じてみたい.

日本の病院建築の七不思議・7(最終回)

不完全な病院の設計条件

著者: 柳澤忠

ページ範囲:P.1068 - P.1069

 前回,病院建築を設計するのに病床回転率のような重要問題が設計条件として示されないのはおかしいと書いた.今回はこのシリーズの最後として設計条件を取り上げたい.どういう条件があれば設計が始められるかということである.建築家の提案を期待すべきことと,病院側で決めておいてそれを前提に建築家に設計してもらうべきことが,しばしば混同されていると思うからである.
 ところで,最近の病院は余りにも複雑である.先端医療技術あり,経営問題あり,物品・情報の管理問題ありで,全体像がつかみにくい.そうした中で設計に必要な条件を病院側で総てまとめるのは難しい.アメリカであれば病院コンサルタントが病院側と建築の間の橋渡しをしてくれる.日本でもこの数年,病院コンサルタントと自称する人が増えているが,まだ十分な人材が育っていない.従って病院の設計条件は,病院側と建築家側とで協力して組み立てるしか方法がないのかも知れない.その辺の事情を分析してみたい.

新しい医療情報システムを作ろう!

メーリングについて

著者: 滋賀医科大学医学情報センター

ページ範囲:P.1070 - P.1071

メーリング・モジュールは病院でパソコンネットワークを実現するもの
 最近,新聞の第1面をにぎわした事件で,日本に新しいウイルスが侵入したということがありました.新種のウイルスといっても,これは人間に対するものではなく,コンピュータのプログラムに侵入するウイルスということでした.このウイルスはパソコン通信によって広く伝播しそうな気配があるということです.
 このパソコン通信というのは,いま私たちが使っている郵便・電報・電話・ファクシミリ・公報といったものをパソコンを用いて実現したものです.郵便や電報などの1つ1つよりも,より幅広い機能をコンピュータネットワーク上に実現しています.

厚生行政Q&A

コーヒーブレイク座談会'88—病院機能評価とテクノロジー・アセスメントを中心にして

著者: 厚生行政研究会

ページ範囲:P.1072 - P.1073

 司会(編集部) 今年も早いもので恒例になりました年末の座談会を行う時期になってしまいました.この座談会も今年で4回目になります.今年のまとめ,来年のテーマを中心に議論していただきたいと思います.今回は人事異動の関係でメンバーが4人になってしまいましたが,いつものようによろしくお願いします.
 松田 昨年は国民医療総合対策本部の中間報告に係わる議論が多く,この厚生行政研究会の中で議論されたことが今年4月の診療報酬点数改正でも取り上げられているので,我々にとってはなかなか有意義な一年でした.

病院管理トピックス

—図書—入院患者への図書サービス/—検査—経済管理

著者: 奈良岡功

ページ範囲:P.1074 - P.1076

◆はじめに
 欧米ではかなり一般的である入院患者に対する図書サービスは,わが国では戦後約20年を経て初めて開始された.公共図書館による病院内でのサービスも事例としてはあるが,いまだにその多くは病院外のボランティア団体によるサービスであり,病院内に患者の入れる図書室を持ち,しかも正規職員(司書)によって管理・運営されているのは数えるほどしかない1)

医療・病院管理用語ミニ辞典

—病院管理—チェーン・ホスピタル(マルチ・ホスピタル・システム)/—検査—聴性脳幹反応

著者: 一条勝夫

ページ範囲:P.1077 - P.1077

 最近の医療技術の進歩と高度化により,高額な機器の導入などの設備投資に莫大な資金を必要とし,設備投資を行ったとしても,それに伴って各種の専門職を雇用しなければならなくなった.それゆえ,中小病院にとっては,資金の調達が難しいだけでなく,高度設備を使いきるだけの専門職の確保も,また患者数の確保も困難となっている.このため自由競争のアメリカでは,1960年代において,多くの中小病院が経営困難に陥った.
 そこで,この打開策として,数個の病院が協力して,資材の共同購入や職員の共同募集を行ったり,検査や滅菌業務,血液銀行,会計計算,職員研修等をそれぞれ分担したり,特殊専門職のかけ持ちを行うなど,協同事業化を行った.この方式は,それぞれ経営の独立を維持しながら,病院サービスを分業することで切り抜けようというもので,shared serviceと呼ばれている.

定点観測 北海道・広島町から

地域医療における病院の役割—過去・現在・未来(その3)

著者: 竹内実

ページ範囲:P.1078 - P.1078

 地域医療における病院の役割というテーマで過去・現在における自院の歩みを報告した.我が国における病院,特に民間病院の役割はどうあれば良いのか,今まで果たして正しい姿であったのかどうかを反省する必要がある.
 そもそも病院は本来であれば,入院医療を中心に行うべきである.家庭医機能は地域の現在の診療所の多くが果たすであろうし,高度医療は大学病院をはじめとする公的医療機関が機能するのが自然である.勿論,民間病院も専門機能,高度医療に参加する場面もあり得る.しかし,地域における民間病院の役割は,第一次の入院医療を中心に,医療機器の共同利用,在宅ケア支援のためのサポートシステム,救急二次応需体制の強化を図り,病診連携による地域住民の安心できる医療供給体制を確立することである.

時評

今,なぜ「死」が語られるのか?

著者: 斎藤芳雄

ページ範囲:P.1079 - P.1079

 『死をどう生きたか』,『死を抱きしめる』,『死の医学への序章』,『死の位相学』,『死への準備教育』,『生と死の最前線』などといった本が出版されている.本だけではない.雑誌の特集でも,「死ぬための生き方」,「いま,老・死をどう迎えるか」といった具合に,様々な形で「死」が論じられている.大書店には,「死」をめぐる書物のコーナーができるほどの勢いである.
 書物だけではない.「生と死を考える会」,「死の臨床研究会」,私も関係している「医療と宗教を考える会」,その他,全国に,「死」と,その周辺をめぐる研究会が,次々と誕生しつつある.

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「病院」 第47巻 総目次 フリーアクセス

ページ範囲:P. - P.

基本情報

病院

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1383

印刷版ISSN 0385-2377

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