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雑誌目次

雑誌文献

病院50巻12号

1991年11月発行

雑誌目次

増刊号 日本の病院建築

〈鼎談〉「QOL時代」の病院建築

著者: 小滝一正 ,   河口豊 ,   長澤泰

ページ範囲:P.5 - P.19

病院建築の最近のコンセプト
 長澤 ここ10〜20年ぐらいの間に,日本の病院はある意味ではずいぶん進歩してきたと思います.建築の面だけでも,たとえば面積の増加,合理的な平面計画,それから仕上げもよくなってきています.今日は病院建築のこれまでの歩みを振り返るとともに,これからの病院建築についてどう考えたらよいか,夢なども含めて語り合いたいと思います.
 病院建築の動きの中で,とくに印象的なことは市立病院クラスの公立病院のレベルが大変上がってきていることです.たとえば,かなり前に,東海道新幹線に沿った東海地区の掛川市とか清水市など,いくつかの公立病院ができたときにその印象を強く持ちました.このごろでは他の地域の病院でもいろいろと工夫された良い建物ができています.これは面積に余裕ができたことも一つの要因かとも思われますが,病院側でも,あまり粗末なものではまずいという意識を持つよつになったこともあると思います.この点に関して河口先生いかがでょうか.

国公立的病院の建築

盛岡赤十字病院

著者: 細川一

ページ範囲:P.22 - P.27

 ①親しみのある,②分かりやすい,③増築に備え,④安い,⑤少し患者に配慮した,そんな病院ができました.

盛岡赤十字病院を運用して

著者: 川村隆夫

ページ範囲:P.28 - P.28

 盛岡赤十字病院は移転新築してより,早3年を経過した.ここに実際に運用した感想を述べてみよう.

東京都立大塚病院

著者: 小山文雄

ページ範囲:P.29 - P.34

計画の経緯
 旧都立大塚病院は,昭和55年7月末に事業を休止したが,東京都財政3か年計画で,母子医療センターの設立要請がなされ,また都立病院整備検討委員会報告の中では,今後の都立病院が取り組むべき課題として都民のニーズに応えるべく,再建が計画された.さらに休止以来の地域住民からの強い再建要請も事業化を早めた要因となった.
 新しい大塚病院は,障害者,難病,母子,リハビリテーション医療の4本柱を軸に,一般総合医療を含めた高度専門医療を整備し,都立病院全体の総合的な医療体制の一翼を担うべく計画されている.

東京都立大塚病院を運用して

著者: 東晃

ページ範囲:P.35 - P.35

 都立大塚病院は,建物の老朽化のため全面改築されることになり,①四つの医療(母子医療,膠原病系難病医療,障害者医療,リハビリテーション医療)を重点医療とする.②他の医療機関との連携を密にし,紹介予約制による診療を行う.③患者の立場に立った医療の提供などを運営の基本方針として開設され,4年を経過してきた.

組合立諏訪中央病院

著者: 今井澄 ,   大場則夫

ページ範囲:P.36 - P.41

病院らしくない病院づくり
 諏訪中央病院は昭和25年ちの町国保直営病院として開設され,現在は茅野市・諏訪市・原村の2市1村による組合立病院として運営されている.そして,多くの自治体病院の例に見られるように,敷地が狭隘なために移転新築を余儀なくされた.
 昭和50年,院内にマスタープラン委員会を設置して病院の将来構想を検討し,昭和54年,自治体病院施設センターにマスタープランの作成を委託した.翌年7月,「移転による精神科を含む350床の総合病院と,検診センター・老人福祉施設・看護学校の建設」という答申を得た.それを受け,議会・医師会を含めた検討を経て,「当面,200床の総合病院を建設する」ことが決定した.

諏訪中央病院を運用して

著者: 鎌田實

ページ範囲:P.42 - P.42

 病院を新築移転して5年が過ぎた.18,000坪の土地に1990年老人保健施設「やすらぎの丘」(50床)を建設し,順調に運営をしてきている.整形外科が年間100例近くの脊椎外科を行っているので,MRI検査室の増築を行った.350台の駐車場を確保したので安心していたが,外来患者の増加とともに駐車場は毎日足りない日が続くようになり,本年小規模であるが駐車場の拡充を図った.
 計画どおり1991年老人保健施設に隣接して特別養護老人ホーム(90床)の建築がはじまった.この中にデイサービスセンターがっくられる.老人保健施設ではリハビリテーションを目的とした通所訓練を行い,障害老人の楽しみを重視した通所訓練はデイサービスセンターで行う予定である.さらに本年中に厚生省の新しい事業である老人保健施設整備モデル事業を受けて,老人保健施設「やすらぎの丘」に①研修センター,②家庭復帰モデル室,③在宅介護支援センターを併設した多機能の複合施設へと整備拡充を行い,1980年から行ってきた訪問看護や1984年より行ってきた病院ディケアを発展拡充させ,24時間の地域ケアのバックアップ体制をつくるべく計画中である.さらに1992年に看護学校の建設を予定している.

沼津市立病院

著者: 平岡眞 ,   株式会社佐藤総合計画 ,   松浦 ,   山上 ,   室殿

ページ範囲:P.43 - P.49

“いの右を守る”器の誕生
 長年の念願であった新病院が名実ともに充実した形で完成した.この建設に当たり多大のご尽力を賜った関係者の皆様方に深く感謝を捧げたい.
 既設病院は沼津駅に近い交通便利な市域の中心に,昭和30年に建設されたが,この後の施設の老朽・狭隘化に伴い,新たな敷地への全面移転新築となった.また計画の第一段階として,総合的な監修を千葉大学の伊藤誠教授に,マスタープランを自治体病院施設センターにお願いし,敷地の選定の段階から参画していただいた.

沼津市立病院を運用して

著者: 平岡眞

ページ範囲:P.50 - P.50

 新病院開院から3年が経過した.
 旧病院は築後30余年を経て老朽化が著しい上,最新の医療に対応するには手狭となった.そこで新たな敷地へ移転し,鉄骨鉄筋コンクリート造り7階建,500床の新病院建設に着手し,昭和63年3月完成をみた.

碧南市民病院

著者: 名古屋大学柳澤研究室 ,   久米建築事務所

ページ範囲:P.51 - P.55

長年の市民の夢「市民病院」
 碧南市は岡崎・安城・刈谷・西尾の各市に囲まれた人口約6万5千の都市で,市民は長い間市民病院を希望していた.正式な陳情は昭和37年である.現在地が決定して,柳澤忠が祖父江逸郎氏(当時名古屋大学医学部教授)・山元昌之氏(当時日本病院管理学会会長)とともに基本計画の作成を依頼されたのが昭和50年である.当時,国保請求伝票を分析し,ハフモデルで診療圏を予測して病床規模を想定し,類似病院の運営状況を調査して経営水準を想定し,1床当たり43m2の建築計画をまとめた.計画は昭和58年まで中断し,再び診療圏調査(市民医療実態調査を全市10%世帯で行い97%の回収率)からやり直し,地元医師会の臨床検査センターを併設した330床の総合病院の計画がまとまり,1床当たり66m2,総工費72億円の建築が63年4月に竣工し,5月に開院した(院長:吉井才司).

公立松任石川中央病院

著者: 古我大作

ページ範囲:P.56 - P.61

 当院は石川県加賀地方の手取川によって形成された肥沃な扇状地のほぼ中央に位置する松任市に建つ285床の総合病院である.松任市,野々市町,美川町の1市2町によって構成される施設組合が運営主体で,構成団体の行政区域内の人口はおよそ10万人である.旧病院は松任市の市街地に立地していたが,御多分にもれず医療技術の発展と需要の増大に比して,建物および設備の狭隘化,老朽化が明らかとなり市郊外に新たな敷地を求め,移転新築をしたものである.
 限られた設計期間の中で,病院当局との討議を経て確認された基本的なコンセプトは以下の項目である.

公立松任石川中央病院を運用して

著者: 鏑木護郎

ページ範囲:P.62 - P.62

 当院は地域の病院として昭和23年に開院されて以来,経営主体を国保連合体から一部事務組合へと移行し,医療の進歩に即した施設の充実・診療規模の拡大などを逐次図りながら40年余を経過して,平成元年に移転新築を行い現在に至っている.
 当院は霊峰白山と日本海を望む手取川扇状地にある松任市のほぼ中央に位置し,松任市・美川町・野々市町で構成される松任中央医療施設組合立の総合病院で,行政区域内人口は約11万人である.

大阪府済生会中津病院

著者: 伊藤誠

ページ範囲:P.63 - P.69

建設の経過
 中津病院は1916年済生会大阪府病院として北区中崎町に創設された.現在地(北区芝田)に移設されたのは1935年で,建設費には地元の資産家,嘉門長蔵氏からの寄付金100万円が当てられた.設計は中村与資平(1905年東京帝国大学工科大学卒)で,地下1階・地上3階の建築は小規模ながら密度高く味わい深いデザインである.しかし,第二次大戦を含む歳月の経過に施設の老朽化.狭隘化が目立つようになり,その上,以前からの高架の阪急電鉄に加えて,これも高架の自動車専用道路が病院の前面を遮ることになり,環境としては必ずしも好ましい条件の所ではなくなってしまった.
 現院長豊島正忠先生は1969年の就任早々から,新しい用地を千里ニュータウンの近くに求め,そこに病院・看護学校・職員宿舎と併設の整肢学院および乳児院を移す新しい医療福祉センター構想をたて,精力的に多方面との折衝を重ねられたが,諸般の事情から約10年にしてこの構想は断念しなければならないことになった.現在地での整備計画が開始されたのは1977年の暮からである.この場所には,大阪駅から近い(徒歩10分),地下鉄の駅がすぐそばにある,永年培った固有の診療圏を持っている,など先にあげた欠点を補って余りある利点が数えられるから,方針変更にもそれなりの意義はある.

兵庫県立尼崎病院

著者: 牧野尚彦 ,   梶原昭二

ページ範囲:P.70 - P.75

基本構想
 新しく病院を建て替えるに当たり,後藤保郎院長(当時)はじめ病院関係者の一貫した希望は,次の4点であった.
1)患者サービスを中心に運営する病院であること

兵庫県立尼崎病院を運用して

著者: 藤岡晨宏

ページ範囲:P.76 - P.76

 新しい県立尼崎病院が完成し,私たちが新病院,新システムで仕事を始めてからちょうど5年が経過した.新病院の特色といえば,第1に職員の希望やアイディアをできる限り設計思想の中に組み入れた,いわば私たちの手づくりの病院といえることである.マスタープランを職員の一人である外科部長が作り,県の営繕課の技師たちが基本設計,さらに実施設計と仕上げてでき上がった病院である.その間には,医師や看護婦,さらにコメディカルの実に多くの人が建築のための各委員会に参画し,職員たちの経験からの要望を十分に盛り込んだという経緯がある.運用してみての評価を私たちが行うというのは,我田引水といわれても仕方がないかもしれないが,ここではなるべく客観的な視角から新病院の検討を行ってみたい.

結核療養施設の転換3題

著者: 伊藤誠 ,   関信男 ,   西野範夫 ,   石本建築事務所 ,   浅野忠信 ,   石井寛美

ページ範囲:P.77 - P.83

結核療養所から一般病院へ
 一時期,“亡国の病”といわれた結核は今や我々の周辺から忘れ去られようとしている.そして,1950年代の中ごろ一般病床を上回っていた結核病床も,1957年を頂点に,以後は廃止もしくは用途変更を迫られ急速にその数を減じてきた.それにもかかわらず病床利用率は低下する一方で,例えば1960年の78.1%が1970年には66.2%,1980年になるとついに55.4%といった状況である.多くの結核療養所は方向転換を余儀なくされ,今や字義どおりの療養所は全国でも30施設ほどを数えるに過ぎない.病床の主流は一般病院にわずかに残されている結核病棟に移った.その大半(約70%)は国立および公的医療機関である.
 精神病床や重症心身障害児の病床に振り替えられたものなど,それぞれ新しい分野で相応の役割を担っているものの,施設的に見ると多くは一時しのぎの域を出ないものであった.需要の低下に伴う方向転換にあっては受け身もしくは守りの態勢にならざるを得ず,変身のための豊かな建設費など期待できなかったのも当然であろう.

宮城県立瀬峰病院を運用して

著者: 馬場健児

ページ範囲:P.84 - P.84

 宮城県立瀬峰病院が全面改築して県北地方における中核病院として新しく発足してより,早6年の歳月が流れた.おかげさまで当初の予想を上回る実績を上げることができている.これも県民の皆々様,医師会の先生方のご支援および大学と県当局の暖いご理解の賜であり,この誌面をお借りして深くお礼申し上げたい.またいろいろ努力してくれた病院職員の労も多と致したいと思う.これを機会に過去を省み,さらなる将来の飛躍を期したいと思う.

国立基幹病院3題

著者: 辻吉隆 ,   小塚良雄 ,   冨澤展一 ,   青島弾

ページ範囲:P.85 - P.91

国立医療施設のあり方
 終戦直後全国が焼土化したため,医療施設は著しく不足し,厚生省は日本医療団の施設や軍事医療施設を転換し,国の医療施設として開設,量的確保に努めた.これが,現在の国立病院・療養所の始まりである.昭和26年の時点では全国病床数の約30%を国立病院・療養所が占め,地域医療の確保,結核の撲滅などに大きく貢献した.
 当時の施設は,旧陸海軍の兵舎や戦時中の臨時構築物が大半であった.そこで昭和20年代の後半より,全国主要都市の10施設を選び“基幹施設”として,鉄筋コンクリート造による施設不燃化整備に着手した.施設規模は40m2/床前後を有し,当時としては大規模な施設であり,他の医療機関の規模拡充のために寄与したところは大きいと考えられる.

国立名古屋病院を運用して

著者: 安井昭二

ページ範囲:P.92 - P.93

 初めに国立名古屋病院の更新築の経過を紹介する.
 日比野進院長時代の昭和52年1月に,厚生省基幹病院の近代化整備計画の一環として,本院更新築計画案が厚生省に提出された.

国立大阪病院を運用して

著者: 古川俊之

ページ範囲:P.94 - P.94

 本院の建築の構想やその長所はすでに述べられているので,あえて反省と批判を列挙するが,最初の特記事項については当事者ながら賛辞を許していただきたい.

民間病院の建築

トヨタ記念病院

著者: 石田好

ページ範囲:P.96 - P.101

計画の経緯
 昭和17年,トヨタ自動車株式会社の附属病院として開設されたトヨタ病院は,以来時代の進展に伴い数次にわたる各種施設の整備,医療設備の拡充に努め,従業員の健康管理はもとより,愛知県西三河地域住民の医療を担う基幹病院として大きな役割を果たしてきた.
 しかしながら,近年の医療技術の高度化・変化に加え,救急医療体制にいっそうの整備が要求されるに至り,それに対応した旧病院での敷地と建物の拡充は限界にきていた.

トヨタ記念病院を運用して

著者: 鈴木孝

ページ範囲:P.102 - P.102

 トヨタ記念病院は1987年9月新築開院以来,4年近く経過した.旧トヨタ病院に比べ,機能面においても,施設面の規模においても格段の拡大(約3倍)がなされたため,当初は職員の間にその運用にあたり戸惑いがみられ,若干のトラブルもあったが,現時点ではすっかり落ち着き,次の発展を期してのプランニングに着手すべき時期となっている.

小山田記念温泉病院

著者: 川村耕造 ,   藤川壽男

ページ範囲:P.103 - P.108

理想的な老人病院づくり
 小山田記念温泉病院は,医療と福祉の老人福祉施設群の中核的医療施設となるべく従来の小山田病院(内科・外科・整形外科・眼科・神経科・リハビリ)を新築移転し,小児科,産科を除く全科を整え昭和61年11月にオープンした.
 小山田施設群設立の動機は,筆者が名古屋大学医局在職中に祖母が80歳で脳卒中で倒れ,以来5年間,寝たきりの祖母を母が在宅で介護したことより,老人福祉・医療に多くの問題点と矛盾を肌で感じたことに始まる.

小山田記念温泉病院の推移と今後

著者: 川村耕造

ページ範囲:P.109 - P.109

 小山田記念温泉病院は小山田総合医療福祉センターの中に,従来の小山田病院(現行は身体障害者療護施設小山田苑として運営中)を新築移転し,小児科,産科を除く全科を整えた総合老人病院として,昭和61年11月にオープンしたが,平成3年11月で,ちょうど満5周年を迎えることになる.
 約5年間の小山田総合医療福祉センターの推移,また小山田記念温泉病院を運用しての考察,将来への動向などを述べてみたい.

松下記念病院・松下健康管理センター

著者: 奥長隆敏

ページ範囲:P.110 - P.115

予防と治療の総合医療センター
 この施設は,松下記念病院・松下健康管理センター・松下電器健康保険組合本部の三つからなり,松下グループ社員(健保組合の被保険者・家族)の健康管理のための,海外を含む情報・健診・管理・治療センターである.また総合健診・事業所健診などの一般的な検査によるスクリーニングにより,必要に応じて精密検診部門で詳細な検査・診断を行い,さらに病院で治療を行うことができる予防と治療が一貫してなされる総合医療センターでもある.
 病院は昭和15年に開院し,その後5期にわたる増築・改築工事を行って,病床数319床・外来患者950人/日で運営されてきたが,施設の老朽・狭隘化は解消できず,全面移転計画となった.高度医療・新しいシステムの展開と,予防・治療の一体的運営,患者サービスの向上ならびに防災面の充実を目指し,昭和59年1月に工事に着手し,昭和61年3月,359床の新病院・新健康管理センターとして生まれ変わった.

松下記念病院を運用して

著者: 横尾定美

ページ範囲:P.116 - P.116

 松下記念病院は大阪市の北東部にある守口市に位置し,大阪市の中心部より電車で20分ほどの距離にある.守口市といえば隣接する門真市とともに松下電器産業や三洋電機の本拠地として有名である.しかし豊田市や日立市のような企業城下町のイメージはない.

阿品土谷病院

著者: 奥村昭雄

ページ範囲:P.117 - P.122

土谷総合病院と阿品土谷病院
 阿品土谷病院の敷地は,島々の浮かぶ穏やかな瀬戸内海に面した台地の上にある.中でも宮島は間近に広がり,厳島神社の鳥居も遠望(後出スケッチ)できる.
 広島市の南西部——廿日市町,大野町などの地域は,近年ベッドタウン化が進み,人口急増が続き,地域医療サービスが追い付いていない状態にあった.広島市内に土谷総合病院を持つ医療法人あかね会は,この阿品台の敷地に219床の地域病院を計画した.独立した地域病院であると同時に,車で20分の距離にある二つの病院は,いろいろな意味で相互に補完し合うように計画されている.すなわち,ケア度の低くなった総合病院の術後患者は,より環境のよい阿品病院でリハビリテーションを行う.早くから業務のコンピュータ化を進めてきた総合病院のコンピュータを,阿品病院はホストとして利用する.洗濯・焼却などは阿品病院が分担する.将来は,市街地に増設することの困難な高度医療部門は阿品病院が受け持つ,などである.また,消毒・滅菌は法人系列会社が千代田(広島県北部)に新設した滅菌センターを利用する.

中小病院3題

著者: 長澤泰 ,   辻野純徳 ,   高橋公雄 ,   阿部影

ページ範囲:P.123 - P.129

魅力ある病院を目指して
 病院の新築で話題になるのは大病院であることが多い.また,患者側にも大病院指向があることは否めない.しかし,1万を超える全国の病院の85%が300床未満の病院である.100床未満の病院だけでも46%を占めている.病床数で見ても163万床の56%が300床未満の病院のベッドである(1988年10月1日現在).したがって,これらの病院抜きでわが国の病院建築の全体水準を語ることはできない.
 1987年の医療施設調査によると,これらの規模の一般病院の78%が民間病院(医療法人・会社・個人)である.現在の保健医療制度のなかで民間病院はとくに採算を確保することが絶対条件になる.勢い,建築・設備投資に対しても厳しい条件が設定される.結果として建物の床面積は最小限に抑えられ,「むだ」な部分は最大限に削りとられる.

富田浜病院を運用して

著者: 河野稔彦

ページ範囲:P.130 - P.130

 当院は大正7年から結核病院として運営されてきたが,近年結核患者の減少とともに業績が衰退しつつあった.そこで,昭和58年7月に新生富田浜病院として再発足し,救急受け入れを主体とした一般病院に転換した.累積赤字1億2千万円を抱えての再出発であったが,翌59年度の収支は黒字となり老朽化している木造病棟の建て替えを計画した.
 一般に鉄筋コンクリートの建造物は,耐用年数60年と言われており,新病院建設は企業としての命運をかけたといっても過言ではない.日本の医療は高度化し,技術,機器などの進歩は目を見張るものがある.また医療制度も変革の時期にきており,これらを踏まえ将来を見越した計画を立てねばならない.

石井病院を運用して

著者: 石井朗子

ページ範囲:P.131 - P.131

 ■皮膚科主体の病院から内科(呼吸器科・循環器科・消化器科)の充実へ 皮膚科主体の病院として平成元年7月にオープンし,早2年が経過.診療科も皮膚科,形成外科,内科,外科,整形外科,眼科,麻酔科の7科目を持つ.当初の理念どおり現在も「地域医療に貢献し,総合的診療を行える病院.健全な医療,健全な経営」がモットーである.現在,総合的診療をもっと高めるため,各科専門領域を深め,その中でも方向的に,内科領域を拡充している.
 ソフト面での拡充策に対しハード面ではどうだろうか.今回のテーマに沿って一考してみたい.

神尾記念病院を運営して

著者: 神尾友和

ページ範囲:P.132 - P.132

 病院の移転・新築の目的は,1)現代の高度化・複雑化した患者さんのニーズに対応すること,2)近年の医学の進歩および現代の医療に適応するため,3)職員orientedな職場をつくること,4)耳鼻咽喉科の専門病院としての専門特化をさらに推進させることなどであった.新病院にて診療を開始して2年半が経過した今日,旧病院との比較について報告する.

大学附属病院の建築

自治医科大学附属大宮医療センター

著者: 長塚弘

ページ範囲:P.134 - P.139

 自治医科大学附属大宮医療センターは,昭和47年4月栃木県に開学した学校法人自治医科大学の附属施設として大宮市に設置されたものである.
 その建学の精神に則って地域における医療への貢献と,へき地などの地域医療に従事する医師に対する生涯教育の確立を計ること,などを目的とし設置されたセンターである.

自治医大大宮医療センターを運用して

著者: 金澤康徳 ,   前田羊三

ページ範囲:P.140 - P.140

 自治医科大学附属大宮医療センターにはいくつかの特徴がある.組織上では,従来の臓器別の医療の欠点に対する反省から生まれた総合医学講座1,2の設置であり,大学病院としての,教育・研究・診療の3本の柱を持ちつつ地域に対する高度医療の提供を期待されている.また卒業生が大学に残らないという自治医大の特徴から卒後一定期間を経過してからの修練や研究の場を用意することも必要でああり,きわめて複雑な機能を負わされている.その上,院内の全施設をコンピュータネットワークで結びつけるコンピュータのトータルシステムを導入したことより,未来型病院としての試行をすることも必要になり,病院勤務者にとっては従来経験した病院と異なった新しい分野の開拓という任務が与えられている.
 全体として統一された思想でつくられており,各々の機能がまとめられているため,外来では患者の受診,またそれに対応する職員の動きについても考えられており,良い機能が発現されるように工夫されている.各々の機能をまとめてしまったための動線の長さは,キャリーワゴンと自走台車によってカバーされ,人力によらなくてもよいはずであったが,現実には走りまわる必要があることがしばしばである.

慶應義塾大学病院新棟

著者: 岩堀幸司

ページ範囲:P.141 - P.146

多くの関係者の努力と参加で実現した記念事業
 慶應義塾大学病院新棟は,義塾創立125周年記念の最大の事業として多くの関係者の多大の協力によって実現された.
 昭和52年5月の現石川塾長就任を契機に具体化に向けての検討が開始されて以来,昨年末に竣工,引越・調整を経てこの5月に使用開始となったわけで,実に10年来の計画であったことになる.

慶應義塾大学病院を運用して

著者: 入久巳

ページ範囲:P.147 - P.147

 義塾創立125年記念事業の一つとして昭和62年に開院した当院の新棟(病棟・手術部および外来診療部,他)を中心とした大学病院機能の整備は,その後の年次計面によって引き継がれた旧棟部分の新棟に対応した諸機能の合理的な再配置と整備・改修計画の完了によって,ようやく本来の機能の発揮をできる段階になってきた,といえます.
 かつての戦災で病院施設の大半を焼失した当院の場合,その建物のほとんどが戦後の間もないうちに建設されたものであっただけに,これら建物,施設の老朽化は昭和50年代以降,高度に進展する診療機能との物理的不整合として病院運営上の懸案事項の一つとなってくるに及んで改善は急務となってきたといえます.とりわけ外来診療部門は昭和40年に1日当たり1,500人程度の患者数を想定して設計されたものであっただけに,昭和50年代後半期ですでに設計想定の2倍を上回る患者数を受け入れるのは限界に近く,物理的な狭隘化は“3分診療・3時間待ち”と形容されるような混雑と診療待ち時間の延長傾向が常態化するに至りました.したがって,このような状況を改善して,来院する多数の患者さんのニーズに応えるための診療サービスの追求は当時の病院運用上の緊急で大きな課題でもあったといえます.

東京慈恵会医科大学附属柏病院

著者: 河辺和年

ページ範囲:P.148 - P.153

計画の基本
 慈恵会医科大学柏病院は柏市が地域中核病院として大学附属病院の誘致を決定し,これを受けた慈恵医科大学が第4番目の附属病院として計画した.したがって,この病院は大学附属病院の使命である教育,研究,診療の3機能を具備するとともに,地域住民のニーズに応える高度医療を提供する場となっている.
 この計画が具体化した時点から,大学は態勢づくりを重視し,また,われわれも計画の初期から参画することができたため,短期間に効果的な実施の進捗が可能となった.

慈恵会医科大柏病院を運営して

著者: 石井教男

ページ範囲:P.154 - P.154

 慈恵医科大柏病院は昭和62年4月,千葉県柏市の手賀沼を間近に見る平担地に開院した.当院は国道6号線と16号線の交わる付近に位置しており,最寄りの駅は常磐線柏駅と北柏駅である.また,周辺には南西に柏公園,北東に田園風景が広がり,緑に囲まれた閑静な環境にある.現在では外来患者1日平均1,450名,入院患者1日平均400名に達し,開院以来,今日まで地域の中核病院として,また高度医療を提供する大学附属病院として,その使命を果たしている.

私立大学附属新病院3題

著者: 河口豊 ,   高野重文 ,   由利忠雄 ,   木下晴二

ページ範囲:P.155 - P.161

大学附属新病院の役割
 ここ5年くらいのうちに私立大学附属の新病院がいくつも開設された.紹介する3病院の他にも,新しいところでは帝京大学市原病院,埼玉医科大学総合医療センターなどがある.いうまでもなく大学附属病院は診療の場であるとともに,臨床教育・研究の場でもある.そしてわが国では,医学教育を行う大学は附属病院を設置することが義務づけられているから,当然教育・研究に必要な陣容と設備を誇る病院を既に持っている.では第2,第3の附属病院はどのような位置づけにあるのであろうか.それによって建築や設備のあり方も変わってこよう.
 まず研究の観点からみてみよう.例えば慶應大学の月が瀬リハビリテーションセンターは,昭和16年から月が瀬温泉治療研究所として療養所が開設されていたが,昭和33年の狩野川台風により閉鎖,10年近く前に再開された.これは温泉という地域特性を利用したもので,場の規定を受け,そこに病院を持たざるを得ない.正に分院である.しかしこのような例はごく少ない.

順天堂大学浦安病院を運用して

著者: 大塚親哉

ページ範囲:P.162 - P.162

 病院建設に当たって要求されることは,建造物から受けるイメージが清潔であり,信頼性があることであろうが,最近の流行語になったアメニティということも,豊かな国,日本では忘れてはならないことである.筆者はさらに加えて,効率性の重要さを強く感じている.効率性とは,そこで医療に携わる職員にとっての効率性であり,仕事をしやすい職場ということである.
 病院の経営は極めて厳しい現状にあり,合理化を計らねば赤字経営に転落するかも知れない.そのような中で,流行のアメニティまで演出するとなると,建造物の構造,諸設備はもちろん,職員の患者サービスのよし悪しまでが問題になる.サービスをよくするために,豊富な人的資源があればよいが,現在の健康保険制度下ではとても無理な注文であり,せめて職員のむだな動きをできる限り減らして,その分を患者サービスに向ける以外にない.

北里大学東病院を運用して

著者: 赤星精一

ページ範囲:P.163 - P.163

 北里大学東病院は,北里大学病院に続く2番目の大学病院として,昭和61年4月に開院した.北里大学病院から東方に600mの距離にある.診療は消化器疾患,慢性疾患難治疾患,精神神経疾患を扱う3センターを中心に,消化器内科,消化器外科,神経内科,整形外科,精神神経科の5科を配している.特殊診療系部門として,歯科,耳鼻咽喉科,眼科,皮膚科,泌尿器科,婦人科,循環器内科,形成外科,麻酔科を併設している.

専門病院・保健健康関連施設などの建築

長崎県立大村病院

著者: 吉浦一成 ,   河口豊

ページ範囲:P.166 - P.171

理想の実現に向げて
狭隘となった旧病院
 大村市近郊の交通の便のよい位置に,旧県立東浦病院はあった.住宅地の一角で隣接して国立総合病院があるという立地条件に恵まれた敷地である(図1).しかし,昭和28年開設以来の逐次増床のため,もとより平坦地の少ない敷地はますます狭隘となった(44.4m2/床).また建物も,平面の構造が陳旧化するとともに多くが木造であったため老朽化した.防災上の問題も起こり,何よりも居住環境が極めて悪くなった(17.2m2/床).
 “精神医療では,建物自体が医療に人きな影響を及ぼす”といわれているが,ことに基本を病者の権利擁護へと変化させつつある近代精神医療の要望に対応していくには,この状態では困難となった.そこで県立5病院再編整備の一環として,改築計画がたてられた.

長崎県立大村病院—新病院の6年

著者: 吉浦一成

ページ範囲:P.172 - P.172

 新病院に移転して,7回目の夏を迎えた.この間,全国から多くの見学者が来られた.近代精神医療の動向に対応し,将来の変化にも備えようとした設計であったが,果たして,その後の運用は,器に相応しい内容と誇れるだろうか.
 明るくて,居住性の良い,精神病院らしくない,住み心地の良い病院という点では,採光・通風も良く,利用者の評判は極めて良い,しかし,職員の目から見た感想を今後の参考のために述べてみよう.

栃木県立かんセンター

著者: 田中建築事務所

ページ範囲:P.173 - P.178

 北関東の中枢都市である宇都宮市内に栃木県立がんセンターが,設計から約3年半の年月を経て,昭和61年9月に開設した.建設地は宇都宮駅より車で約15分,県内各所からの交通の便がよい陽南町にある.ここには昭和46年の設立以来,栃木県におけるがん対策の中枢機関として,その任務を果たしている栃木県がん検診センターがある.本計画は,このがん検診センターと一体に計画し,その検診機能をますます充実させることにより,全県的に先駆的な診断および専門的治療技術を持つ高次機能病院として,県内他医療機関の連携のもとに,地方におけるがんセンターのあるべき姿を具現したものである.

栃木県立がんセンターを運用して

著者: 椎名たえ子 ,   島村香也子 ,   立花繁 ,   大塚昌 ,   小山靖夫

ページ範囲:P.179 - P.179

 栃木県立がんセンターは,昭和61年9月1日,がん検診から治療までの一貫した診療体制を備え,患者中心の医療を基本方針とし,がんの高度専門病院として開所した.
 開所時の当初計画200床運用については,傾斜開設も順調に,建物については一部図書室などの施設拡充,整備などを経過し,本年9月に開所5周年を迎えた.

保健・健康施設3題

著者: 長澤泰 ,   浦良一 ,   浮ヶ谷啓悟 ,   木村誠 ,   上原憲二

ページ範囲:P.180 - P.186

保健・健康施設—ニードと期待
 今日,大きく変貌しつつある人口・疾病構造や保健医療環境の中で,過去40年間に著しい向上を遂げた健康水準を単に喜ぶ風潮はやや退き,健康自体に対する価値観に変化が見られる.この変化はまさしく今後どのような機能と品質を備えた施設をどのくらい建てるべきかを考える時に見落とせない要素である.
 人口構造の変化については世界に類を見ない急速な高齢化現象,疾病構造を見ると,かつて4割を占めていた感染症に代わって,今や成人病が7割を占めるようになった.死因の順位も欧米的になり,病気による医療機関利用率が他の年代の4倍にも及ぶ高齢者の存在は,医療需要に与える影響が大きい.さらに寝たきり老人介護の必要性と裏腹に若年人口の減少は,家庭介護力を含めた介護面でのマイナス要素となっている.老人痴呆に代表される老人精神保健対策も早急に講ずる必要がある.

老人保健施設3題

著者: 河口豊 ,   菅野實 ,   佐藤昌男 ,   米満弘之

ページ範囲:P.187 - P.193

老人保健施設の計画
 本年(1990年)1月で老人保健施設は218施設になった.定員は17,300余である.うち約3割(定員で1/3)が独立型,6割近く(定員で5割強)が病院併設型,診療所併設と特別養護老人ホーム併設型は各々1割に満たない.施設の定員規模は50〜99床の施設が6割,100床以上が1/3,49床以下は1割もない.平均では80床である.また設置主体別に見れば,医療法人が2/3を占め社会福祉法人は2割強である.本稿では病院併設型と診療所併設型それに特別養護老人ホーム併設型で,種々の工夫がなされている3例を紹介していただく.
 基本的には広い意味で障害者に対する十分な配慮をすればよい.たとえば,滑りにくい床材料の選択,つまずかないよう段差のない床,手摺りの設置などである.特別なものとしては介助浴室,機能訓練室などがある.あとは自らが生活したいような療養環境を整備すべきであろう.

茂庭台豊齢ホームを運用して

著者: 佐々木清治

ページ範囲:P.194 - P.194

 茂庭台豊齢ホームは,平成元年4月14日に開設され,今年で3年目を迎えているが,実際に運用している現場の立場で,若干の所感を述べてみたい.
 当ホームは仙台市茂庭台健康福祉エリア基本構想に基づき設立された老人保健施設で,設置主体は仙台市と仙台市医師会が出資をして設立された財団法人仙台市医療センターである.

みなと荘を運用して

著者: 加藤二三男

ページ範囲:P.195 - P.195

 本施設は昭和63年11月栃木県地域保健医療計画に基づいて県下で初めて開設された.沿革としては,独協大学元理事長の故関湊氏の遺志により設立されたものであり,そのため同一敷地内にある独協医科大学病院が協力病院になっている.
 元来,本施設は中間施設(通過型)とも言われ,病院と家庭(老人ホーム)との中間に位置する1).そのため,利用者に介護やリハビリを施しADL (自立性)の拡大を図って家庭への復帰を目指している.

清雅苑を運用して

著者: 米満弘之

ページ範囲:P.196 - P.196

 昭和63年10月1日に開設して満3年になります.平成2年度の延べ利用者数は270名(うちショートステイ利用83名),ベッド数が75床で,平均在所日数は83日です.
 毎月平均23名の入所と退所がそれぞれあり,家庭復帰率は約82%です.老健施設本来の使命である在宅支援の通過型施設としておおむねその運用ができていると思います.

高齢者養護施設3題

著者: 河口豊 ,   張忠信 ,   辻野純徳 ,   鈴木捷司

ページ範囲:P.197 - P.203

高齢者養蕎護施設の新たな展開
 高齢化社会に伴い,高齢者に対する多様な医療供給形態が要請されている.それは,高齢者の疾病が高度先端医療を必要としたり,あるいは短期急性から生涯にわたり医療の支持がなければ生活できないような疾病まで,広範にわたるからである.
 長期に医療を必要とする場合には,生活面を重視する必要がでてくる一方,高齢者を対象とした福祉,住居の分野では,医療がその比重を高めつつある.医療はこちらで,福祉はあちらでというように単純な機能分担のみではもはや成立しにくくなっている.医療に福祉が,福祉に医療が,また家庭には医療と福祉の双方が入り込んで高齢者社会が成り立つ,いわばグレーの時代といえる.無論,誤った処遇により手遅れとなるこというまでもない.

基本情報

病院

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1383

印刷版ISSN 0385-2377

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