文献詳細
文献概要
増刊号 日本の病院建築 国公立的病院の建築
大阪府済生会中津病院
著者: 伊藤誠1
所属機関: 1千葉大学工学部建築学科
ページ範囲:P.63 - P.69
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中津病院は1916年済生会大阪府病院として北区中崎町に創設された.現在地(北区芝田)に移設されたのは1935年で,建設費には地元の資産家,嘉門長蔵氏からの寄付金100万円が当てられた.設計は中村与資平(1905年東京帝国大学工科大学卒)で,地下1階・地上3階の建築は小規模ながら密度高く味わい深いデザインである.しかし,第二次大戦を含む歳月の経過に施設の老朽化.狭隘化が目立つようになり,その上,以前からの高架の阪急電鉄に加えて,これも高架の自動車専用道路が病院の前面を遮ることになり,環境としては必ずしも好ましい条件の所ではなくなってしまった.
現院長豊島正忠先生は1969年の就任早々から,新しい用地を千里ニュータウンの近くに求め,そこに病院・看護学校・職員宿舎と併設の整肢学院および乳児院を移す新しい医療福祉センター構想をたて,精力的に多方面との折衝を重ねられたが,諸般の事情から約10年にしてこの構想は断念しなければならないことになった.現在地での整備計画が開始されたのは1977年の暮からである.この場所には,大阪駅から近い(徒歩10分),地下鉄の駅がすぐそばにある,永年培った固有の診療圏を持っている,など先にあげた欠点を補って余りある利点が数えられるから,方針変更にもそれなりの意義はある.
中津病院は1916年済生会大阪府病院として北区中崎町に創設された.現在地(北区芝田)に移設されたのは1935年で,建設費には地元の資産家,嘉門長蔵氏からの寄付金100万円が当てられた.設計は中村与資平(1905年東京帝国大学工科大学卒)で,地下1階・地上3階の建築は小規模ながら密度高く味わい深いデザインである.しかし,第二次大戦を含む歳月の経過に施設の老朽化.狭隘化が目立つようになり,その上,以前からの高架の阪急電鉄に加えて,これも高架の自動車専用道路が病院の前面を遮ることになり,環境としては必ずしも好ましい条件の所ではなくなってしまった.
現院長豊島正忠先生は1969年の就任早々から,新しい用地を千里ニュータウンの近くに求め,そこに病院・看護学校・職員宿舎と併設の整肢学院および乳児院を移す新しい医療福祉センター構想をたて,精力的に多方面との折衝を重ねられたが,諸般の事情から約10年にしてこの構想は断念しなければならないことになった.現在地での整備計画が開始されたのは1977年の暮からである.この場所には,大阪駅から近い(徒歩10分),地下鉄の駅がすぐそばにある,永年培った固有の診療圏を持っている,など先にあげた欠点を補って余りある利点が数えられるから,方針変更にもそれなりの意義はある.
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