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人
文献概要
小柄で童顔の,笑顔がまたとくに印象的な慶應ボーイが,国立東京第二病院にインターンとして登場したのは昭和33年,今からもう33年も前の事.前度は母校の内科学教室に入局するが,翌年には再び国立東京第二病院の内科に勤務することとなる.
真面目で努力家の彼は忙しい臨床の傍ら病院で研究を続け,昭和40年には学位を取得する.昭和45年にはオーストラリア政府の招聘により王立メルボルン病院心臓科に留学,日本人として当時オーストラリアでの彼の活躍は,原地の新聞に大きく報道された.昭和51年琉球大学に最後の新設医科大学が設立されることとなり,その準備のため琉球大学保健学部の助教授として沖縄に出発する.昭和56年琉球大学医学部が正式に認められるや最初地域医療部の助教授として,さらに2年後には教授として,昭和63年よりは地域医療研究センター長となり地域医療部の部長を兼任する.
真面目で努力家の彼は忙しい臨床の傍ら病院で研究を続け,昭和40年には学位を取得する.昭和45年にはオーストラリア政府の招聘により王立メルボルン病院心臓科に留学,日本人として当時オーストラリアでの彼の活躍は,原地の新聞に大きく報道された.昭和51年琉球大学に最後の新設医科大学が設立されることとなり,その準備のため琉球大学保健学部の助教授として沖縄に出発する.昭和56年琉球大学医学部が正式に認められるや最初地域医療部の助教授として,さらに2年後には教授として,昭和63年よりは地域医療研究センター長となり地域医療部の部長を兼任する.
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