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雑誌目次

雑誌文献

病院54巻4号

1995年04月発行

雑誌目次

特集 新看護体系で病院はどうなるか

新看護体系のめざすもの

著者: 野村陽子

ページ範囲:P.338 - P.341

はじめに
 平成6年の診療報酬改定は医療保険制度の改正と一体となった改定で,特に30数年続いた基準看護を見直し,新看護体系を創設するという看護にとっては非常に重要な改定であった.そして明治以来続いた付添看護を廃止するという,これも病院の看護にとって歴史に残るような重要な医療保険制度の改革であった.
 このような大きな曲がり角に創設された新看護は,どのような性格をもち,何を期待されて創られたのか等について考えてみたい.

新看護体系と病院経営—病棟マネジメントによる経営改善策

著者: 川渕孝一

ページ範囲:P.342 - P.347

 平成6年10月の診療報酬改定で新看護体系が創設された.この新看護体系は第2次医療法改正において着手された医療施設の機能分化と呼応するものであり,さらにまだ手がついていない一般病院の機能分化をも促す契機を秘めていると考えられる.そうした意味では,新看護体系は,1996年(平成8年)頃に予定されている“第3次医療法改正”を先取りしたものと言える.第3次医療法改正では,急性期と慢性期の病院機能の分離が焦点になるだろう.というのは,現行の診療報酬を見れば「急性期=出来高制」「慢性期=定額制」という支払い方法の使い分けがより鮮明になっているからである.
 ここで留意すべき点は,こうした出来高制と定額制の使い分けが「新看護体系+特定入院料」という形で病棟単位ですでに実行できるということである.また,平成6年度からは看護職員の勤務形態も当該病院の事情に応じて,病院ごとに「3交代制」もしくは「2交代制」を組むことができるようになった.

新看護体系をどうみるか

著者: 松林恵子

ページ範囲:P.348 - P.350

はじめに
 平成6年10月の診療報酬改定から約半年がすぎた.新看護体系が示された当初は,複雑でわかりにくいとの意見もあったが,従来,病院経済にあまり関心を示してこなかった看護管理者が積極的に学習し,具体的な提案ができる力をつけはじめたようだ.その成果のあらわれなのか予想を超えるスピードで基準看護から新看護への移行が進んでいる.
 新看護料は選択の幅が広く,病院の特徴にそった看護体制づくりを段階的に進める上で,次のステップの目標が立て易い.反面,増収を意識し過ぎると患者や職員への配慮が不十分となり,新たな問題が生じかねない.また,一般病棟では患者2:1まで保険料が支払われるようになったため,2.5:1看護料以下ではランクが下がるほど看護補助者が増すだろう.この変化への対処が遅れると,サービスの質の低下や看護要員間に混乱が起こるおそれがある.

付添看護・介護解消に伴う労働省の対策

著者: 井上正憲

ページ範囲:P.351 - P.353

労働省の取り組み
 労働省と厚生省は,医療保険制度改革に伴い生じる家政婦問題に対処するため,「付添看護・介護解消に伴う家政婦対策等連絡調整会議」を設置し,関係団体の意見を聞きながら,昨年6月に「当面の家政婦・家政婦紹介所対策」を取りまとめた.
 この「当面の家政婦・家政婦紹介所対策」において,家政婦及び家政婦紹介所が引き続き今後の高齢化社会において重要な役割を果たせるよう,労働省においては,「特定介護労働者雇用助成金制度」の創設等を,厚生省においては,診療報酬における新看護体系を導入するとともに,「付添看護解消計画加算,特別介護料及び特別看護料」等の措置を講じることとしている.

付添い婦の“院内化”をめぐる諸問題

著者: 友安直子

ページ範囲:P.354 - P.359

はじめに
 1994年4月と10月に行われた診療報酬改定の主要改定項目は,①新看護体系と新看護補助体系の創設,②付添い看護・介護の解消,③在宅医療の推進,④基準給食の見直しと食事の質の向上である.既に新体制への移行をおこなった病院もあるなど動きは徐々にではじめている.ここでは②と,そしてそれと表裏一体をなす①によってどのような問題が生ずるか人事管理の視点から考えてみたい.
 まず第1に“採用”に及ぼす影響についてである.看護補助体系の新設とそこに組みこまれる“付添いをふくむ看護補助者”へのニーズが新たな採用難をもたらすのだろうか.

付添い廃止で本当に患者負担は無くなるのか,看護の質は上がるのか

著者: 佐久昭

ページ範囲:P.365 - P.369

高齢者長期入院の構図
 私が大学を卒業した昭和42年ころは,病院に寝泊まりしながら患者さんの世話をしている家族の姿をよく見かけたものである.それが病院の要請だったのか,それとも患者さんの家族の自発的行為であったのかは今となっては知るよしもない.
 いずれにしても,介護をしているのは患者さんの身内の誰かであろうと思っていた.しかし,看護婦家政婦紹介所が今から40年以上も前にすでに存在していたことを考えると,中にはそのようなところから派遣されてきた付添い婦さんたちもいたに違いない.

[てい談]付添い看護から基準看護,そして新看護体系へ—2つの病院の移行事例をたどって

著者: 石原哲 ,   近藤良得 ,   林千冬

ページ範囲:P.370 - P.380

都市型民間救急病院白鬚橋病院では
救急病院としての存亡を賭けた選択
 林 昨年10月の診療報酬改定で,これまでの基準看護制度に代わる新しい看護料の算定方式「新看護体系」が導入されました.本日はすでに新看護体系に移行された2つの病院から,病院経営者の立場として石原先生に,看護管理者の立場として近藤副総婦長さんにお越しいただいております.
 石原先生が副院長をされている白鬚橋病院は典型的な都市型の民間救急病院,一方,近藤さんが病棟婦長兼務で副総婦長をされているリハビリテーションセンター鹿教湯病院は,山間部にあるリハビリテーション病院で,設置主体も長野県厚生連ですから公的病院ということになります.

新看護体系に移行して

特2類から2:1看護A加算に移行した神尾記念病院

著者: 柴崎武志 ,   神尾友和

ページ範囲:P.360 - P.361

 当院は,1日平均外来患者数260人,1日平均入院患者数24.8人,1病棟34床の耳鼻科専門病院である.従来は基準看護特2類であったが,平成6年10月の新看護体系実施に対応して,2:1看護A加算に移行した.同時に,夜間勤務等看護(I)も算定している.
 当院が基準看護特2類から新看護2:1A加算に一挙に移行することができたのは,以前から特3類への移行準備を進めていたことに加え,平均在院日数も11.2日と要件を十分満たしていたことによるが,結果として特3類に移行するよりも月13万円の増収を図ることができた.
 以下,その経緯と今後の課題を報告する.

上限が2:1では人件費の回収は無理—上都賀総合病院での試算結果から

著者: 賀川康子

ページ範囲:P.362 - P.364

はじめに
 看護料金の適切な支払い方法があるのかどうか看護職員として40年間疑問を持ち続けてきた.いまだに解決を得ていない.
 看護の仕事は常に総合的であり,哲学的であり倫理的であり単独的技術として評価することに疑問が残る.

グラフ

高度専門医療と医療連携を目指して改築された—東京都立荏原病院

ページ範囲:P.329 - P.334

都立荏原病院の歴史と新病院
 東京府世田谷村立隔離病舎として明治31年に開設されたのが,都立荏原病院の始まりである.昭和7年に東京市立荏原病院と改称,医療需要の増加と施設の老朽化に対応して,昭和9年に現在地に新病院を移転した.そして昭和18年に再び東京都立荏原病院と改称した.昭和33年には総合病院となり,救急医療を含む高度医療を展開した.昭和54年には高度安全病棟を作り,特殊な感染症患者に対応して来た.
 しかし,年々増加する需要に施設が対応しきれず,東京都の病院整備長期計画に基づいて全面改築を図ることになった.平成2年には地元医師会の協力の下に診療を休止し,平成3年に改築工事に着手,平成6年10月新病院が開設された.

阪神大震災のボランティア活動で注目を集めたAMDA代表 岡山市・菅波内科医院院長 菅波茂氏

著者: 中西泉

ページ範囲:P.336 - P.336

 阪神大震災の発生した1月17日,アジア医師連絡協議会(AMDA)の医師,看護婦,連絡員で構成された6人の緊急救助隊は午后に岡山を出発し,陸路東に向かい,夜には被害の最も激甚であった長田区で医療活動を開始した.区役所内に設置させて頂いた救護診療所,地域巡回診療,ヴェトナム人キャンプ訪問医療,避難先小学校への医師常駐,といった一連の活動が,日を追って展開されていった.
 これらを支えていたのはAMDAの呼びかけに応じた500人近い医療ボランティアと菅波代表による後方支援本部であった.この陰には10年に及ぶAMDAの発展途上国での地道な緊急救援医療活動という長い助走期間があった.

主張

21世紀まであと5年,医療分野の変革が急務

著者:

ページ範囲:P.337 - P.337

 平成7年度が始まる.暦の上で平成7年は阪神・淡路大震災という歴史に残る激甚災害で幕を開けてしまったような感があるが,被災地における救援と復興活動の中で医療の果たす役割の重要性は極めて高く認識されたことは何人も疑う余地のないところである.非常時の緊急的な対応の後,継続した支援を確保し,更には関係諸制度の速やかで柔軟な適用,そして医療自体の復興に関してはその社会公共性に鑑み優先的に社会資源が投入されるべきである.この度の経験を踏まえ次の災害に備えてあらゆるシステムの見直しと,訓練の実施を行っておくことも当然であろう.
 さて,今年度は高齢者保健福祉推進10か年戦略の後半の5年間の開始年度であり,また,病院機能評価の活動が新機構設立のもとに具体化する予定である.これらのことは医療制度上まことに大切なことであるが,さて,医療供給側にその議論への参加のための理論構築と合意,そして現場での対応の準備が出来ているであろうか.答えは残念ながら“否”である.大変独断的な意見で恐縮ではあるが敢えて言わせていただくならば,医療側の対応は既得権の擁護と診療報酬の点数改定のみに集約されていると考えられる.それでは何故そのようになってしまったのか.おそらく種々の制度のもとで保護されてきた現実を,自分達は規制を受けているという被害者意識からしか評価出来ない体質によるものであろう.

ケース・レポート

阪神大震災の教訓—被災地病院における経験と反省

著者: 松山文治

ページ範囲:P.381 - P.385

はじめに
 2月17日未明に阪神地方を突然襲った震度7の大震災からほぼ1か月を経過した.初期の大混乱から病院業務もほぼ平常に復帰して落着きを取戻してきた.
 この間全国から寄せられたご支援と数々のご好意に対して,この誌面をお借りして厚くお礼を申し上げたい.

特別企画 高齢者のケア・2

高齢者ケアプラン策定の実際

著者: 千田徳子 ,   五十嵐智嘉子

ページ範囲:P.386 - P.394

はじめに
 前稿で高齢者ケアプラン方式の概要が述べられたが,実際に高齢者ケアプランを策定し,実行するためには,より具体的にその内容を把握する必要がある.本稿では,本方式を導入するに当たっての施設としての準備態勢,ケアプラン策定の流れ,西円山病院(札幌市)で実際に導入した結果,および老人保健施設と老人病院で策定されたケアプランの事例を呈示する.

連載 アーキテクチャー 保健・医療・福祉 第6回

神鋼病院

著者: 梶原正樹 ,   林一公

ページ範囲:P.395 - P.402

はじめに
 本病院の旧施設は,1955(昭和30)年に建設した円形本館を始めに,’62年,’70年,’76年に増改築をし,近代医療に追随する整備を重ねた.最終規模は延べ10,700m2,1床当り33m2であった.最近は患者の需要変化,施設の老朽と狭隘な環境下で,進展を続ける現代医療への対応を迫られていた.
 1990(平成2)年に移転準備に入り,旧病院北側の関連企業工場跡地の一角を利用する計画となった.移転地は神戸製鋼の発祥の地で,JR灘駅より三宮方向へ5分ほど歩いた所にあり,敷地北側には公道(幅員15m)とJR東海道線,阪急線の高架軌道が東西に併行している.

医療技術革新の展望とこれからの医療政策—ヒト遺伝子研究の意味するもの

医療技術革新の構造と展望—遺伝子関連技術をどのような技術としてとらえるべきか

著者: 広井良典

ページ範囲:P.403 - P.407

第3次医療技術革新
分子生物学・技術革新・医療費
 前回まで,アメリカの医療政策の文脈のなかで,いかにして「ヒトゲノム・プロジェクト」という生命科学のビッグプロジェクトが登場してきたかをみた.今回からは,視点を技術そのものに移し,そうした遺伝子をめぐる研究が科学技術の歴史的発展のなかでどのような位置を占め,今後どうなっていくのかについて考えていきたい.

厚生行政展望

介護保険制度の本質

著者: 厚生行政研究会

ページ範囲:P.408 - P.410

はじめに
 平成9年度から介護保険制度を実施すべく,検討が開始されている.その概要については,本年1月号の座談会で簡単な紹介を行った.また,さかのぼれば,1992年2月号(第51巻2号)の本欄でも,すでに介護保険制度の問題提起を行っている.そこで,今回は,介護保険制度についての論点を整理し,その本質を明らかにしたい.

データ・ファイル

新看護への移行等調査結果(平成6年12月1日現在),他

著者: 厚生省保険局医療課

ページ範囲:P.411 - P.414

□新看護等の届出受理状況について
1.調査の概要
 平成6年12月1日現在の新看護,診療所看護,付添看護解消計画加算,特別介護,特別看護の届出受理状況について,都道府県を対象に調査したもの.

医学ごよみ

4月—April 卯月

著者: 木村専太郎

ページ範囲:P.415 - P.415

□4日 ジャクソン癲癇
 英国の著名な神経学者ジャクソン(John Hughlings Jackson,1835〜1911)の誕生日である.彼は大脳の運動神経中枢の部分的損傷によりおこる筋肉の局所的な癲癇“focal epi-lepsy”を発表したが,これは後に“Jacksonian Epilepsy”(ジャクソン癲癇)と呼ばれるようになった.
 ジャクソンは,ロンドンのレイコック(Thomas Laycock)の紹介で,フランスのパリに留学し,著名なブラウン・セカール(Charles Brown—Séquard,1817〜1894)に神経病理と神経臨床を学び,帰国後ハッチンソン病や3徴候,梅毒による歯の変形の記述で有名なハッチンソン(SirJonathan Hutchinson, 1828〜1913),スペンサー(Herbert Spen-cer)らの影響で,神経学の造詣を深めた.

基本情報

病院

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1383

印刷版ISSN 0385-2377

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