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文献概要
故 佐藤清一郎先生
佐藤清一郎先生を偲んで
著者: 篠井金吾1
所属機関: 1東京医科大学
ページ範囲:P.981 - P.982
文献購入ページに移動 外科学会の巨星塩田先生がこの世を去られてから1週程後に,塩田先生に次ぐ外科学会の長老佐藤清一郎先生が逝去され,門下生として先生の追憶の記を書くことが出来ることは私の最大の光栄である.
佐藤先生がわが国における胸部外科の先駆者として残された功績は永く語り伝えられてよい.すでに大正2年ドイツで"Thoraxphthisicus"という論文を出され,肺結核外科にScalenotomieという新しい一頁を加えられた.私は先生の下で昭和7年から19年迄の11年間,助教授として胸部外科の御指導を受けたが、この間に2回にわたる日本外科学会の宿題報告に関係し,特に昭和13年の「日本における肺壊疽」の宿題報告には,私を共同担当者として名を連ねて戴いた.先生の性格は貴族的な気品が溢れておられたが,またその反面短兵急な御性格で,2度にわたる宿題報告にも研究の進展にいつも矢のような御催促を受けたことを覚えている.忘れられないことは,昭和13年の外科学会総会の折,有名な鳥潟先生と,九大の後藤先生の問で論争された平圧開胸是非論がある.この時,白熱した議論に満場の会員が手に汗を握つていたとき,冷静に両先生の仲に入つて,平圧でよい場合もあり,異圧が必要な場合もあると発言されて大論争にケリをつけられたことも想出の種である.
佐藤先生がわが国における胸部外科の先駆者として残された功績は永く語り伝えられてよい.すでに大正2年ドイツで"Thoraxphthisicus"という論文を出され,肺結核外科にScalenotomieという新しい一頁を加えられた.私は先生の下で昭和7年から19年迄の11年間,助教授として胸部外科の御指導を受けたが、この間に2回にわたる日本外科学会の宿題報告に関係し,特に昭和13年の「日本における肺壊疽」の宿題報告には,私を共同担当者として名を連ねて戴いた.先生の性格は貴族的な気品が溢れておられたが,またその反面短兵急な御性格で,2度にわたる宿題報告にも研究の進展にいつも矢のような御催促を受けたことを覚えている.忘れられないことは,昭和13年の外科学会総会の折,有名な鳥潟先生と,九大の後藤先生の問で論争された平圧開胸是非論がある.この時,白熱した議論に満場の会員が手に汗を握つていたとき,冷静に両先生の仲に入つて,平圧でよい場合もあり,異圧が必要な場合もあると発言されて大論争にケリをつけられたことも想出の種である.
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