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文献詳細

雑誌文献

臨床外科58巻12号

2003年11月発行

近代腹部外科の開祖:Billroth

ビルロート余滴・11―ライバル:Eduard Albert

著者: 佐藤裕12

所属機関: 1北九州市立若松病院外科 2日本医史学会

ページ範囲:P.1525 - P.1528

文献概要

 長年にわたりウィーン大学第一外科を主宰していたが,極めて保守的かつ独善的で協調性に欠けたため,「変人教授」と揶揄されたDumreicherの死後(1880年)の教授選考の際,Billrothは愛弟子Vincenz Czerny(1842~1916,図1)を,自信を持って強く推した.そして,教授選挙においては業績,実力ともに申し分ないCzernyが過半数を獲得し,第一外科教授に選ばれかけた.ところが,そのときAlbertとInnsbruck時代に親交のあった法医学教授のHoffmannら親Albert派(言い換えれば,反Billroth派)の働きかけが功を奏してその決定が覆るところとなり,最終的にはときの皇帝フランツ-ヨゼフの裁可により,Eduard Albert(1841~1900,図2)が第一外科の次期教授に選出されることとなったのである.折りしも,Billrothが弟子たちとともに初めて胃癌に対して幽門切除を成功裡に行った1881年の2月のことであった.正義感の強いBillrothにとって,業績,実力とも申し分ないCzernyの教授就任が土壇場で覆されたことは痛恨の極みであったようで,堺哲郎氏の評伝(臨外29巻「Theodor Billrothの生涯」)によれば,1881年2月のCzerny宛の書簡では次のように述べて,その義憤を吐露しているという.すなわち「Unsinn!Du siegst Gegen die Dummheit kampfer selbest Gotter vergebens!」=「(彼らのしたことは)なんとばかげたことか! 君は教授の座を勝ち得ていたのだ! 神よ(彼らの)愚行と闘うことを許し賜え!」と.

 そして,このときの教授選考に際して生じた軋轢から,第一外科と第二外科の確執は決定的に根深いものとなった.しかし,1892年Billrothの教授就任25周年を祝う祝賀会に長年の怨念を捨ててAlbertが出席し,Billrothに対して最高の賛辞を述べたことにより,両外科教室間の確執は一気に氷解したのであった.この和解を反映しているのがその後の人事で,Albertの次の教授には第二外科からBillrothの弟子のEiselsbergが,またBillrothの次の教授であったGussenbauerの次の教授にはAlbert門下のHochennegが就任している(前号に「ウィーン大学外科の流れ」を呈示しているので参照されたし).

 さて1881年以降,Billrothのライバルとも言うべき存在となったEduard Albertの略歴を述べていきたい.

掲載誌情報

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN:1882-1278

印刷版ISSN:0386-9857

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